第二千百四話 ひとつの真実
「ならば、わたしにも感謝するべきだな」
不遜な、しかし聞き知った言い回しの声に目を向けた瞬間、アレクセイは我が目を疑った。戦女神の執務室、その出入り口に三体の少女人形が立っていたからだが、驚いたのはその事実にではない。少女人形は、魔晶人形と呼称される存在であり、ファリアたちの話によれば神聖ディール王国が独自に開発した戦闘兵器だという。周辺領域調査中に発見されたそれらは、空中都の蔵の奥底に封印され、厳重に管理されていたのだが、どういうわけか突如として動き出し、セツナの命令に従うようになった。
そして、戦女神の指示に従うように命じられた魔晶人形たちは、ファリアの命令によってこの戦宮の警備に当たっていた。その警備の過程で執務室の前を通過するのはありうることだ。それはいい。そこは問題ではないのだ。問題なのは、魔晶人形の一体、確かアルと命名されていた個体の雰囲気が変わっていたことだ。雰囲気だけではない。髪色が灰色から炎のような真紅に染まり、両目も金色に輝いていた。そのうえで、女召使いが着るような衣服を身につけながらも、どうにも禍々しく、邪悪とさえいっていい空気を漂わせている。
「……アズマリアか」
アレクセイがやっとの想いで口を開くと、真っ赤な髪の魔晶人形は鷹揚にうなずいて見せた。その挙措動作の傲岸さ、不遜さは、彼のよく知る魔人そのものだった。紅き魔人アズマリア=アルテマックスがリョハンに訪れたのは、六十年以上前のことになる。それから十数年、魔人はリョハンのひとびとに武装召喚術を教授することに全霊を傾け、彼女の薫陶と寵愛を受けた四名は、大召喚師として世に知られることになる。そのうちのひとりが、彼の最愛の妻ファリア=バルディッシュであることはいうまでもない。
ファリアがアズマリアに師事するのをアレクセイは大いに反対したものだ。アズマリアには悪い噂ばかりがあった。何百年も変わらぬ姿で世界を放浪する魔人など、悪魔や死神の類に違いない。だれもがそう想ったはずであり、アレクセイの反応は、ありふれたものといっていい。
「魔晶人形とやらの居心地はいかかです?」
「悪くはない。少なくとも人間の体を依代にするよりは余程楽だ」
そういって、アズマリアの魂の容れ物と化した魔晶人形は、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。そのたびに戦宮の床が抉れるのではないかと想うほどの衝撃音が生じるが、彼女は気にした様子もない。
「人形には魂がない。おまえのようにわたしの意識を乗っ取ろうとすることもないからな」
「……ミリア、おまえは……」
アレクセイは、驚きに満ちた目でミリアを見た。ミリアは、どこか遠い目をしている。彼女にとっては遠く懐かしい話なのかもしれない。ミリアがアズマリアの依代と化したのは十年以上の昔のことだ。それからどのくらいの間、彼女が魔人に抵抗していたのかはわからない。しかし、ミリアが過去のものとするくらいには遠い昔のことなのは紛れもなかった。
「わたしも、それなりに戦っていたのです」
「ミリアを説得するのには苦労した。まあ、当然ではあるがな」
「当たり前だろう。あなたは、メリクスを殺した。どのような理由があれ、その事実は揺るがぬものだ」
「否定はしない。事実は事実。だが、真実はひとつだ」
「……真実か」
それがどういう意味なのか、アレクセイはミリアから聞いて知っている。
アズマリアがメリクス=アスラリアを殺害した本当の理由のことだ。ミリアがアズマリアに対し、いまもなお強烈に恨んでいる様子がないのは、その真実を告げられ、信じたからだろう。それは、とりもなおさず信じるに足る話だったということだ。そして、ミリアがアズマリアの依代としてなすがまま、なされるがままだったのも、そのためだ。
もちろん、ミリアがメリクスのことでアズマリアを完全に許したわけではない。彼女は、いまもなおメリクスを愛していたし、愛するひとを殺す以外の選択肢を見出だせなかったアズマリアに対しては、わだかまりを持ち続けるほかないのだ。たとえそれが絶対唯一の救いの手段であったとしても、だ。
アレクセイも、ミリアからその話を聞くまでは、アズマリアへの憎悪は決して消えないものだと想っていたし、信じていた。愛する娘の最愛の夫であり、孫娘にとっての最愛の父だった。彼にとっても、メリクスは決して悪い男ではなかった。愛娘の心を奪われたとはいえ、それに足る男だったのは間違いないのだ。そんな彼を殺したものを許すことなど、だれができよう。
できるわけがない。
そう、考えていた。
だが、真実を知れば、その考えを改めざるを得ない。
メリクスは、白化症に苛まれていた、という。
白化症は、一度発症すれば救う手立てがない。少なくとも、神であるマリクでさえ、白化症を治療することはおろか進行を止めることさえできないのだ。それができるのは、白化症の原因である神威を発した神以外にはない。
アレクセイはミリアからその話を聞いた当初、アズマリアがミリアを説得するために作った虚言ではないかと想い、そのことを問い質したのだが、どうやらそうではないようだった。ミリアは、メリクスの肉体に白化した部分があることを知っていたのだ。そして、その白化部位が日に日に大きくなっているという事実も知っていた。だが、それがなんであるのかは知らず、メリクス自身もわからなかった。
アズマリアは、メリクスを異世界から召喚した。
それはとりもなおさず、アズマリアのつぎの肉体とするためだった。アズマリアは、数百年来、肉体を乗り継いで生き続けてきたという。老いた肉体から若く強靭な肉体に乗り換え、長いときを渡ってきたのだ。それまでは、世界中を飛び回り、優れた肉体を探して回ったというのだが、それではあまりにも非効率的だということに気づいたアズマリアは、一計を案じた。優れた肉体の持ち主が見つからないのであれば、みずから育て上げればいい。そう考えた彼女は、異世界よりメリクスを召喚し、リョハンにて武装召喚師としての教育を受けさせたのだ。
武装召喚師には、術者としての技術、技能だけでなく、戦士としての身体能力も求められる。極めて厳しい鍛錬の中で、メリクスは、当時最高峰の武装召喚師と呼ばれるまでに成長した。アズマリアの思惑通りに物事は運んでいたということだ。
そして、十数年前のあの日、アズマリアはメリクスの肉体を貰い受けるべく、リョハンを訪れた。
アズマリアとの接触の際、メリクスは抵抗しなかった、という。だが、メリクスの中の神威が牙を剥いた。半ば神人と化したメリクスを目の当たりにしたアズマリアは、メリクスを依代とすることを諦めるとともに、メリクスを滅ぼすことを決意した。アズマリアは神人メリクスを滅ぼすべくゲートオブヴァーミリオンによって手勢を呼び寄せたのだが、リョハンの武装召喚師たちは、それを見て、魔人が本性を表したものだと誤解した。誤解するのも当然だろう。
アズマリアは、メリクスを滅ぼすために全霊を注ぎ、誤解を解こうともしなかった。むしろ、みずからの手勢を攻撃する武装召喚師たちを邪魔であると排除しようとさえ、した。その結果、誤解が誤解を招き、リョハン中の武装召喚師がアズマリアを敵とみなすまでになった。アズマリアの高弟であったものたちまでもが、アズマリアを怨敵と定め、攻撃した。戦後も、その誤解は解けないまま、より深く、複雑な怨恨となってリョハンに刻まれたのだ。
それが、あの日、リョハンを襲った災禍の真実。
白化症が蔓延し、神人化したものの在り様が判明したいまならば、アズマリアのその決断も理解できなくはないし、納得もできるだろうが、当時そのようなことを理由に挙げられたとしても、リョハンの人間はひとりとして信用しなかっただろう。
「そのことについては、もういいでしょう」
ミリアが、振り切るように、いった。
「ミリア」
「いまは、アズマリア様がファリアの旅立ちに協力してくださったことを感謝するのが先決ですわ」
「……確かにおまえのいうとおりだ。感謝する。魔人よ」
「まあ、感謝するべきはこちらなのだがな」
「どういう意味だ?」
「ファリアは……あの娘は、セツナの心の支えだ」
アズマリアの予期せぬ発言に、アレクセイはミリアと顔を見合わせた。アレクセイとミリアがファリアの背中を押したのは、ファリアの心の支えがセツナだということを知っているからだ。つまり、アズマリアとはまったく逆の観点からこの計画を推し進めたということになる。
「そしてセツナは、この世界を救う唯一無二の希望だ。黒き矛の使い手、つまり魔王の杖の護持者たる彼だけが、この世界に巣食う邪悪を滅ぼすことができる。わたしの目的を叶えることができる」
アズマリアは、南の彼方を見遣るようにした。この部屋からではまったく見えもしないが、セツナたちを乗せた方舟は、いまごろリョハンを遠く離れた
「彼には、最後まで戦い抜いてもらわなければならない。この先、どのような絶望が待ち受けていたとしても、立ち止まってもらっては困るのだ。たとえすべてを失い、心折れ、生きる目的も、希望も見失ってしまったとしても、諦めてもらっては」
「ファリアは、セツナ殿がそうならないための支えになる、と。そういうことか」
「わたしがそうなれれば一番気楽ではあったが、どうやら無理なようだからな」
「想ってもないことを」
ミリアが苦笑を交えると、アズマリアは困ったように眉根を寄せた。変わらないはずの魔晶人形の表情が動くのは、アズマリアの強大な力がなせる業に違いない。アズマリアは、依代となった人間の容姿さえ、その魔力によって変容させていた。だからこそ、アズマリアは数百年、年を取らない化け物として知られていたのであり、魔人などと呼ばれるようになったのだ。魔晶人形の表情を変えることくらい、容易いことなのだろう。
「わりと本気なのだが……」
「それならなおのこと困ります」
「困る?」
「ファリアの恋敵はひとりでも少ないほうがよろしいので」
「そういうことか。案ずるな。彼の心の大半を占めるのは、あの娘への愛情だよ」
アズマリアの言葉にミリアがほっとしたような表情を浮かべた。アレクセイにとっても喜ばしいことだ。セツナの周囲には彼を慕う女性が多いという話を聞いている。だからこそ、アレクセイは孫娘の幸せのため、彼と彼女を結びつけようと画策したのであり、その苦労が無駄にならないということがわかれば、安堵もしよう。
「さて、そろそろわたしは行こう」
「セツナ殿の元へ、ですか?」
「いや。いずれはそうなるだろうが、いまはそういうわけにはいかない。少々、やらねばならぬことがあるのでな」
そういって、アズマリアはこちらに背を向けると、片手を翳した。虚空に波紋が広がったかと想うと、大きな木造の門が出現する。アズマリアの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンだろう。門扉が開くと、見たこともない町並みの風景が広がっていた。
「アレクセイ」
「はい?」
「ファリアを、我が弟子を長年に渡って支えてくれたこと、師として心より感謝する。ありがとう」
アズマリアは、ただそれだけをいって、門の向こう側へと姿を消した。赤い髪の魔晶人形だけが門を潜り抜け、門そのものが消失する。残された魔晶人形の二体は、なにが起こったのかわからないかのように小首をかしげた。
アレクセイは、ただただ呆然とした。
アズマリアがまさか、彼の妻について言及するなど想像もつかないことだったし、考えられないことでもあった。
しかし、よくよく考えてみれば、当然のことだったかもしれない。
ファリア=バルディッシュは、アズマリアの四人の高弟のひとりであり、アズマリアがその才能を溺愛した人物だった。
それほどまでに愛した弟子が天寿を全うしたとはいえ、死んだことを悲しまないわけがなかったのだ。
紅き魔人と恐れられるアズマリアにも、人間の心があった、ということなのだろうが。
「アズマリアは、メリクスの命を奪ったことを後悔してはいません。そうしなければならなかったから、そうしたのだ、と、あのひとはいっていましたし、それがあのひとの考えなのでしょう。しかし、だからといって、悲しくないわけではなかった」
「ミリア……」
「わたしは、あのひとの心に触れた。昏く深い暗黒の闇の底に蹲る、小さな小さなひとの心に」
ミリアは、ひどく物悲しげな表情で、アズマリアのいなくなった虚空を見やっていた。
「数百年の長きに渡って世界を巡り、化け物さながらに恐れられた魔人の本当の気持ちを知れば、恨み言をいってもいられないでしょう。それにあのとき、メリクスをあのままにしておけば、彼がリョハンに害をもたらしたのは紛れもない事実なのですから」
とはいえ、必ずしも割り切れるものではない、という複雑な想いが、ミリアの表情にあらわれていた。
それは、アレクセイも同じだ。
なにもかも割り切れるほど、人間は都合よくできてはいない。




