第二千百二話 未来への扉(五)
「よかったわ、本当の気持ちが聞けて」
「母上は意地悪です」
ファリアは、涙を止められないまま、ミリアを睨んだ。不細工な表情になっていることを自覚するが、そればかりはどうしようもない。感情の奔流は留まることを知らなかった。想いが溢れている。歪みきった視界で、母の表情は柔らかい。その慈しみに満ちたまなざしが、いまは心に痛い。突き刺さるのだ。突き刺さり、入り込んでくる。止めようがない。つぶやく。
「わたしの気持ち、わかっていたくせに……」
「そうね、意地悪な質問だったわね。でも、あなたの口から、あなたの言葉で聞きたかったのよ」
ミリアの、底なしに優しい声音を聞けば聞くほど、ファリアはどうしようもなくなっていく自分に気付かされるのだ。本音をいってしまった。本心を曝け出してしまった。もはやどう取り繕うこともできない。どういっても、言い訳が聞かない。
セツナの側にいたい。
いますぐにでも飛んでいってしまいたい。
でも、それはできない。できないから、心が痛い。叫んでいる。泣いている。いまのいままで、その本心から目を背けてきた。戦女神に全霊を注ぐことで、かろうじて目を逸らすことができたのだ。戦女神という自分以外のだれにも果たすことのできない責務をまっとうしようとすれば、そうもなろう。だが、ああまでいわれれば、叫ぶしかない。本音を告げるほかない。そして、告げてしまってから、後悔が湧き上がるのだ。
いってしまった。心の奥に留め置くはずの想いを発してしまった。タガが外れた。堰を切ったように溢れ出した感情を止める方法がない。逢いたい。いますぐにでも逢って、抱きしめたい。抱き締められたい。そんな風に考えてしまう。
「母上……」
ファリアは、ミリアを見た。恨めしい気持ちが湧きあがる。ミリアが煽ってさえこなければ、ミリアがあのようなことさえいってこなければ、ファリアは自分の本心に気づかない振りをしていられたのに。見て見ぬふりをして、戦女神に打ち込むことができたのに。
これでは、戦女神のままではいられなくなるのではないか。
だからといって、セツナの元にも行けない。立場を失ってしまう。どうすればいい。どうすればいいのだろう。混乱する。
ミリアが、微笑んだ。
「これで、安心してあなたを送り出せるわ」
「え?」
「無理強いじゃないものね。側にいたいんだものね。愛しい人の側に」
「なにをおっしゃっているんですか」
声が掠れるのは、ミリアのいっている言葉の意味を理解しようとして、脳が追いつかないからなのかどうか。
ミリアは、はっとするほどに美しく、柔らかな笑顔を浮かべていた。
「わたしがどうしてここに戻ってきたのか、わからない?」
「え?」
「わたしは、初代戦女神ファリア=バルディッシュの娘よ。あなたが生まれるまでは、わたしが後継者候補だったんだから」
「なにを……」
いいだすのか。
ファリアが言葉を飲み込んだのは、ミリアの微笑みがまさしく女神のように輝かしかったからだ。
「戦女神にはなれなくとも、代理くらいなら務められるはずよ。こんなわたしでもね」
「代理……戦女神の?」
ファリアは、ミリアの発想に唖然とした。まったく想像の及ばなかったことだからだ。ミリアに戦女神の代理を任せるなど、考えたこともない。当たり前だ。ファリアは、自分が戦女神を勤め上げるべきだと考えていたからだし、他人にその役割を押し付けようなどと想ったこともなかったのだ。想像する下地がないといっていい。
「ええ、そうよ。当代の戦女神が不在の間、わたしミリア=アスラリアが戦女神代理として、リョハンを支えていくのよ」
「そんな……そんなこと」
できるわけがない。
とは、言い切れない。前例がないわけではなかったのだ。リョハンには歴史上何度か、戦女神の不在期間があった。その中でもファリアにとっても無関係ではないのが、クルセルク戦争への戦女神当人の参戦だ。ガンディアからの要請で魔王軍討伐のため、戦女神ファリア=バルディッシュは、四大天侍とともにリョハンを長期に渡って空けている。その期間中、護山会議がリョハンを統治運営しており、大きな混乱があったとは記録されていない。
つまり、なんの問題もなかったということだ。
そのことを思い出して、ファリアは、ミリアの目を見つめた。青く透き通った瞳には、泣き顔のファリアが映り込んでいるのだろうが、この距離からでは、見えない。
「お父様が率先して手配してくれたから、じきに護山会議からの承認も降りるでしょう。あなたは、なにも心配しなくてもいいのよ」
「わたしは……」
「あなたは第二代戦女神。わたしは、戦女神代理。問題ある?」
問われて、ファリアは返す言葉が見つからなかった。問題など、あろうはずもない。かつて護山会議だけで長期に及ぶ戦女神の不在を乗り切ったのだ。戦女神の代理がいるとなれば、さらに安定的な統治運営が行えるに違いなかった。
「でも……」
「だいじょうぶよ。リョハンのひとたちだって、わかってくれるわ。あなたがセツナ君と一緒にいかないことを不思議に思っているひとたちがいるくらいだもの。それにね、なにもわたしひとりでリョハンを治めるわけではないのよ。お父様や護山会議の皆様、マリク様や皆がいるわ。信じられない?」
「……いえ」
ファリアは、そういうほかなかった。信じられないわけがない。アレクセイを始めとする護山会議の議員は皆、リョハンのことを愛し、リョハンのために日々、職務を全うしているのだ。彼らが戦女神代理と力を合わせるのであれば、どこに問題が生まれようか。マリクも、七大天侍の皆も、きっとミリアに協力してくれるだろう。
「じゃあ、なんの問題もないじゃない。あなたは、セツナ君と一緒に旅立つ。わたしはあなたの帰りを待って、リョハンを支える。そこにどんな問題があるの?」
「あり……ません」
「ないでしょう。だって、それで皆が幸せになれるんだもの」
ミリアは、そういって笑うのだ。女神のように嫋やかな笑顔。つい、見とれてしまう。止めどなく溢れる涙を拭うことも忘れて、だ。母の優しさが荒れた心に染み込んでいく。
「なにも気に病むことはないわ、ファリア。お父様も、お母様も、わたしも、メリクスも、だれもがあなたの幸せを望んでいるのよ。だれだって、あなたの人生を縛り付けたかったわけじゃない。あなたにはあなたの人生があり、生き方があるはずだもの」
「でも、わたしは……」
「ファリアと名付けられ、次代の戦女神として嘱望された。だからあなたは戦女神になり、今日まで責務を果たし続けてきた。そうね。それは立派なことよ。胸を張っていいわ。わたしも、母親として誇らしいもの」
「母上……」
「でもね、ファリア。これだけは聞いてほしいのよ。お母様は、完璧なひとではなかったわ。戦女神としてこのリョハンを支え続けた偉大なひとではあったけれど、だからといって、完全無欠ではなかった。私情を優先することも多々あったし、だからこそ、慕われてもいた。自分や家族のことを大切にしない女神様なんて、だれが敬うものですか。献身的、利他的、大いに結構なことだけれど、たまには自分の気持ちに素直になってもいいのよ。特にあなたは、今日までずっと、ほとんど休むことなくリョハンの女神を続けてきたのだから」
語りながら背後に回ったミリアが、その細くしなやかな腕でファリアを抱きしめてきた。強く、それでいて、優しく。その愛情に満ちた抱擁に、ファリアは、感極まってしまった。こうやって抱き締められる日をどれだけ待ち望んでいたか。十数年前のあの日、ファリアの目の前から消え去ったミリアは、アズマリアの依代として、敵となって立ちはだかった。あれから数年が経ち、ようやく、こうやって触れ合うことができた。
ファリアは振り向き、母の胸に顔を埋めた。懐かしいにおいがした。そして、たっぷりと母の体温を感じたのち、顔を離して、視線を上げる。ミリアの目を見つめ、口を開く。この瞬間まで、考えたこともない言葉を口にする。
「……リョハンのこと、母上と皆に任せてもよろしいのでしょうか」
「ええ、任せてちょうだい。あなたがセツナ君を連れて帰ってくるのを楽しみに待っているわ」
「連れて……」
「帰ってくるんでしょ? ここに」
「はい……!」
「さあ、行きなさい。早くしないと、追いつけなくなるわよ」
「はい!」
ミリアに背中を押され、執務室を飛び出したファリアは、脇目もふらず戦宮内を駆け抜けた。自室に戻ろうともしなかった。用意もなにもいらない。着替えもなにも、持ち出す暇などあろうはずもない。時刻はとうに出発予定時刻を過ぎている。方舟は既にリョハンから飛び立っている頃合いだ。セツナたちが気を利かせて待ってくれているわけがない。ミリュウだけならばいざしらず、セツナは、そうしないだろう。それは、ファリアのことを思いやっていないからではない。真逆だ。ファリアのことを信じてくれているからこそ、なのだ。戦女神としての責務を全うするに違いない、と、だれよりも深く強く信じてくれているからこそ、セツナは、予定通り、方舟を出発させる。
それは喜ばしいことだが、少しばかり罪悪感が湧いた。
(ごめんね、セツナ。裏切っちゃった)
とはいえ、動き出した気持ちを止める手立ては、なかった。