第二千百話 未来への扉(三)
「な、ななな、なんで、母上がここに!?」
ファリアは、狼狽する自分を内心で叱りつけ、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。
「い、いえ、アズマリア=アルテマックス!」
「ファリアちゃん」
ミリアは、慈しみに満ちた笑顔を向けてくる。そこには悪意もなければ邪気もなく、ただただ優しく包み込むような、記憶の中の母の笑顔だけがあった。アズマリアには作り得ない表情だ、と、本能が、いう。
「なにも身構える必要はないわよ? わたしはもう、あのひとの依代じゃなくなったから」
「え?」
「自由の身になったのよ」
ミリアは、自分の体を見せつけるようにして、いってきた。五十代だとは思えないほどに皺のない容貌に均整の取れた肢体はどこまでも肉感的だ。エンジュールの温泉で見たときとなんら変わっていない様子なのは、アズマリアの依代にされていたことが原因なのか、どうか。身につけているのは白を基調とした長衣であり、ミリアが示したかったのは、それかもしれない。アズマリアが着るような衣服ではないのは確かだ。
「本当……なんですか?」
「まあ、すぐに信用しろっていうほうが難しいんだけど……証明のしようがないものね。困ったわ」
眉根を寄せた困り顔は、やはり、ファリアの母の困り顔そのものであり、彼女は警戒を解いていった。そもそも、ここまで入り込まれて身構えても致し方がない。もしミリアがアズマリアの依代ならば、ファリアが武装召喚術を詠唱し始めた途端、物理的に押さえつけられて終わりだ。身体能力においては、アズマリアのほうが遥かに上なのだ。
もっとも、だからという理由で諦める必要はないし、彼女がアズマリアならば徹底抗戦するしかないのだが、どうやら、ミリアは、アズマリアではないらしい。
ファリアは、母の愛を感じて震える心に素直に従い、信じることにした。アズマリアの依代のままであれば、心が震えるほどの愛情を感じることなどないはずだ。
「母上が依代から解放されたってことは……アズマリアはどうなったんですか?」
「新しい依代を見つけたのよ。それで、わたしはお払い箱にされたってわけ。もう年も年だから、あまり無理ができないって」
「新しい依代……」
「素直には喜べなさそうね」
「また、だれかが犠牲になった、っていうことでしょう? 母上の代わりに、だれかが」
「そういうことに、なるわね」
「……母上が解放された事そのものは嬉しいです。ですけど、手放しでは喜べません」
ファリアは、素直な気持ちを伝えた。実際、ミリアがアズマリアの依代という救いようのない状況から解放されたことは、なによりも喜ばしいことだ。アズマリアは、武装召喚術の発明者という偉大な人物であり、祖母ファリア=バルディッシュの師匠だが、同時にファリアの父でありミリアの最愛の夫であるメリクスをこの世から奪い去った人物でもあるのだ。ファリアにとっての仇敵であり、ミリアにとっても許せない相手だっただろう。そんな相手の魂の容れ物になっていたのだ。ミリアの苦しみは察するに余りある。そんな立場から解放されたことそのものは、この上なく喜ばしいことだったし、ミリアがファリアの元に戻ってきてくれたことは感に堪えない。
しかし一方で新たな犠牲者が出たという事実には、心を傷めずにはいられないのだ。
とはいえ、ファリアはアズマリアに対し、この上なく複雑な感情を抱いている。アズマリアは憎むべき仇敵であるとともに、感謝するべき対象でもあったからだ。
セツナが生きていられるのは、アズマリアのおかげだった。
“大破壊”の爆心地付近にいたセツナは、その直前、アズマリアの召喚武装ゲートオブヴァーミリオンによって地獄へと誘われた、という。そこで二年以上に渡る修練の日々を送り、セツナはさらに強くなったとのことだが、感謝するべきはそのことよりも、セツナが“大破壊”から逃れられたという事実のほうだ。セツナが生き延びることができたのは、アズマリアがあのとき、セツナを地獄へと導いたからにほかならない。
もし、アズマリアがセツナに手を差し伸べなければ、ファリアたちは、セツナとの再会を夢見たまま生涯を終えることになっただろう。そういう意味では、感謝しなければならないのだが、だからといって、すべてを認められるわけもない。父の命を奪い、母の時間を奪った仇敵であるという事実になんら変わりはないのだ。
ミリアも、辛そうな顔をしていた。アズマリアの依代として十年以上を過ごしてきた彼女には、アズマリアの依代になるということがどういうことなのか、ファリア以上に実感として理解できるからだろう。
「そうね。わたしもよ。でも、きっと、今度は、そう長くはならないわ」
ミリアのどこか遠いまなざしにファリアははっとした。青みがかった黒髪に綺麗な緑色の虹彩。若い頃の祖母にそっくりだったというミリアの容姿は、そのまま、ファリアに受け継がれている。
「わたしのように十年以上依代になるようなことも、それ以前のように何十年と連れ回されることもないでしょう。あのひとが、そういっていたもの」
「アズマリアが?」
「これで最後だって」
「最後……」
ファリアは、ミリアの発した言葉を反芻し、その言葉の意味の重さに震えるような想いがした。
船体が小さく揺れたのは、方舟が動き出す前触れだった。
リョハン空中都南端の広場に集まったひとびとは、方舟が動き出すと、一斉に歓声を上げた。身振り手振りでセツナたちを見送ろうとしてくれる。舷側に立ったセツナたちも、精一杯、手を振ったり声を上げたりして、声援に応えた。
「方舟、動き出しちゃった」
ミリュウが、つぶやいた。彼女もまた、声援に応えるべく舷側に立ち、広場のひとたちに手を振っているのだが、その表情はどこか暗い。少なくとも、明るくはなかった。
「時間通りだ。問題はない」
「そんなこといっても、寂しいくせに」
「またいずれ戻ってくるのでございましょう?」
「そのつもりだ」
レムの質問を肯定して、ミリュウを見る。ミリュウはいやいやをした。
「でもでもー……」
「師匠……」
「エリナだって、ファリアと一緒がいいわよね?」
「はい!」
エリナが力強く頷いた。それは師匠であるミリュウを慮っての返事ではあるまい。本音であり、本心に違いなかった。エリナは、ファリアの年の離れた友人なのだ。ガンディアの小さな町カランに住んでいたころから仲良くしていたという。そんなエリナの本音を聞いて、ミリュウが眩いくらいの笑みを浮かべた。
「エリナは本当、いい子ねえ」
「師匠の一番弟子ですから!」
「うふふ、そうね。あなただけよね、あたしの気持ちがわかってくれるのは」
そうして、ミリュウはエリナの頭を撫でながら、セツナを横目に睨みつけてくるのだが、セツナだって、全力で反論したかった。
(……そりゃあ、俺だって一緒にいたいさ。ずっと一緒に、いたいんだよ)
そう、叫びたかった。
だが、叫んだところでどうなるものでもない。方舟は、既にリョハンの南端広場から離れ始めている。ゆっくりと空中都から離れ、上空へと昇っていく。緩慢な速度は、安全を考慮してのことだろう。なにせ、甲板上にセツナたちがいるのだ。急に速度を出せば、転倒したりして怪我をしかねない。そういう気遣いくらいは、マユラにだってできるらしい。
(でも、そういうわけにはいかないだろ)
ひとにはひとの立場があり、生き方がある。それぞれの人生があるのだ。
(そういうわけにはさ)
ファリアには、リョハンの戦女神というだれにも真似のできない役割がある。
「そう、最後」
ミリアが、ファリアの目を見つめて、いった。その言葉に込められた複雑な感情に気づくと、ファリアは自分の手が震えていることを認めた。声がかすれる。
「どういうことですか」
「そのままの意味よ。あのひとがその役割を終えるための、最後の戦いが始まったってこと」
「最後の戦い……」
「セツナ君たちが赴いたのは、きっと、そのための前哨戦のようなものよ。長い長い前哨戦になるかもしれないけれどね」
ミリアは、まるでこれから先、この世界に起こることのすべてを知っているかのように、告げてきた。
アズマリアの役割を終えるための最後の戦い。
五百年以上の長きに渡って肉体を乗り換え、生き続けてきた魔人の。
それがどういったものなのか、想像もつかない。
ただひとついえることは、ミリアがいったようにセツナとは無関係ではないということだ。
セツナは、アズマリアによって召喚されたのだ。
アズマリアの役割と無関係であるわけがない。




