第二千九十九話 未来への扉(二)
「ひとり?」
セツナは、きょとんと、ミリュウを見やった。
空中都南端の広場には、空中都の住民だけでなく、リョハン中のひとびとがセツナたちを見送るべく集まっている。広場が人集りで埋め尽くされるほどであり、地面が見えないほどの数だった。その中には七大天侍もいるし、護山会議の議員たち、護峰侍団の隊長たちや団長、団員の姿もある。守護神マリクの姿こそないが、ニュウ=ディーの手にした通信器には、その幻像が浮かび上がり、セツナたちの旅立ちを見守ってくれている。
ミリュウがセツナの鈍さに呆れ果てるように肩を竦めた。そして、告げてくる。
「あなたのことが好きで好きで堪らないのが、いないんだけど」
「……ファリアのことか」
そう、自分でいうのもどうかと想ったが、ほかにだれがいるわけでもない。
セツナは、自分へのファリアの好意を疑ったこともなかった。いまや想いが通じ合っていると確かめ合い、高めあった絆は、誰よりも深く、強い。愛し合っている。そう想っているのだから、なにも恥ずかしいことではない。
そして、彼女がこの場にいないのもまた、事実だ。きっと、戦宮で職務に励んでいるのだろう。七大天侍が戦宮を出払っているということは、安全性の観点から見れば、少々心許ないかもしれないが、そもそも、リョハンでは犯罪は起きにくい。なにより戦宮に忍び込んで悪さを働こうとする人間が、リョハン市民の中にいるはずもないのだ。その点では、なんの心配もいらないだろう。
「戦女神様は、責務をまっとうしておられるのだろう」
「……リョハンを救ってみせた英雄を見送るのは、なにをおいても優先するべき責務だと想うけど」
「それは……」
セツナが即座に言い返せなかったのは、ミリュウの言もまた、一理あることだったからにほかならない。
「わかってるわよ。こうでもしないと、踏ん切りが付かないんでしょ。見送りなんかしたら、未練が生まれちゃうものね」
ミリュウが、ゆっくりと息を吐いた。彼女の言葉には、ファリアへの思い遣りばかりが溢れている。ミリュウはファリアをセツナと同じように慕い、愛しく想っている。ミリュウにとってファリアは仲間であるとともに恋敵でありながら、精神的な姉のような立場の人物だった。その関係性は、リョハンにきてから随分変わったようだが、それでも、彼女がファリアを慕っている事実に変わりはないようだ。
「でも、それくらい一緒にいたいのなら、リョハンなんてほっぽりだして、ついてくればいいのに」
「そういうわけにはいかないだろ。ファリアは戦女神だ」
「いったはずよ。戦女神だろうとなんだろうと、ファリアもひとりの人間なのよ」
ミリュウの断言にセツナは目を細めた。力強い言葉だ。そこにはミリュウなりの価値観がある。
「そして、人間の命には限りがあるわ。人生は一度きり。レムみたいに特別なことでもない限りね」
レムに言及したのは、だれもが彼女のように特別になれるわけではない、ということを明言するためなのか、どうか。実際、だれもがレムのようになれるわけではない。レムが、仮初の生を得、不老不滅の存在になることができたのは、偶然の産物に過ぎないといっていい。クレイグ・ゼム=ミドナスが用意した状況がすべて、彼女の復活に好影響を与えたのだ。もし、あれが現実世界の出来事ならば、レムの復活はならなかっただろう。
クレイグができたことだ。セツナができないわけもないだろうが、セツナは、レムと同じ境遇の人間を増やすような悪趣味な人間であるつもりはなかった。
レムは、いまでこそ生きていることの幸福を言葉や態度に表してくれているが、彼女にとっての二度目の生は、決して愉快なものではなかったのだ。だれもが、いまの彼女のように幸福に生きられる保証はない。
そも、自然の摂理に反するようなことを続けられるほど、セツナも愚かではないのだ。
無論、ミリュウがそう言及したわけではないが。
「ここで別れれば、もう二度と逢えなくなるかもしれない。セツナだってファリアだって、永遠に生き続けられるわけじゃないのよ? あたしだって、そう。だからあたしは、セツナの側にいようと想った。たとえ七大天侍の任を解かれなくても、きっとそうしたわ。だって、後悔したくないもの。もう二度と、離れたくないもの」
ミリュウは、セツナの手を握りしめた。力いっぱい、骨が軋みそうになるほど強く。つまり、それだけ離れたくないという感情が込められているということだ。
「もう、あんなに寂しいのは嫌。もう、あんな辛い想いは嫌。あなたのいない人生なんてうんざりだわ」
「ミリュウ……」
「あたしは、生きたいように生きる。でないと、辛いだけだもの」
ファリアにもそうして欲しい、と、彼女は願っているのだろうが。
セツナは、なにもいえなかった。
ファリアは、ファリアの想うままに生きている――わけではない。
他人の思惑によってその人生の在り方を決められてしまったといっても、過言ではあるまい。それは、リョハンに戻ったから、ではなく、生まれながら、だ。生まれて間もなく、彼女はファリアと名づけられた。戦女神ファリア=バルディッシュの孫娘として生まれた彼女は、次代の戦女神として選ばれ、その証として同じ名をつけられたのだ。
ファリアは、既に当時リョハンにおいて特別な名前だった。
物心つく前から将来を定められ、決められた人生を歩んできたのがファリアだ。いや、それをいえば、この世界、この時代、どこのだれもが多かれ少なかれ決められた人生を歩んでいるといってもいいのかもしれない。王族には王族の、騎士には騎士の、市民には市民の人生があり、それが大きく変わることはこの世界において、そうあるものではない。
その中でもファリアの人生が特別なものであることに変わりはないだろう。
戦女神としての人生。
戦女神を継承し、戦女神として生き抜き、戦女神として死ぬためだけの人生。そこに自由はなく、思い通りに生きようなどと考えられる余地もない。
ファリアは、己の人生を受け入れ、ここにいる。二代目の戦女神としての責務を果たし、人生を全うするつもりなのだ。
ミリュウとて、そんな彼女の気持ちがわからないわけではないのだろうが。
空中都を見遣るミリュウの横顔は、不服げだ。
懐中時計を見る。
時間は、午前十一時の半ばを過ぎている。
リョハン中のひとびとが空中都の南端に集まり、方舟の出発を見送っている頃合いだろう。正午には出発する予定だと聞いている。準備は万全。リョハンが用意した物資や積荷はすべて搬入を終え、設置も完了している。なんの心配もいらないだろう。あとは出発の時刻を待つだけであり、それまで、セツナたちは見送りにきたひとたちと別れを惜しんでいることだろう。
ファリアは、小さく息をもらした。ため息。自分も見送りに行くべきだったのではないか、と、いまさらのように後悔している。
頭を振る。
後悔などしてはいけない。見送りにいけば最後、未練が生まれるのは間違いないのだ。未練は、決意を鈍らせる。覚悟を歪ませる。
決めたのだ。
自分はここに残り、セツナたちが無事に戻ってくるのをじっと待つ、と。
だから、彼女は執務室に籠もり、書類と向き合うことで時間が過ぎ去るのを待っていた。方舟が飛び立てば、もうどうしようもない。後悔しても遅い。そうなれば、あきらめも付くというものだ。そして、諦めることができれば、それだけで彼女は仕事に向き合えるようになる。戦女神としての責務に全力を注ぐことができるだろう。
「本当に?」
不意に聞こえた声に、ファリアは、はっとした。聞き知った声音は慈しみに満ち、まるでファリアの身も心も包み込むように優しく、嫋やかだ。けれどもその声は、現実には存在しないものだということを思い出して、肩を落とす。幻聴だ。きっと、悩み苦しむ心が生み出した幻聴なのだ。その声に耳を傾けてはならない。なるまい、と彼女は心に決める。
その優しい幻聴は、ファリアの迷いを増幅させるからだ。
「本当に行かなくていいの?」
「わたし、戦女神になったんです」
つい、幻聴に答えてしまう。
だが、仕方のないことだ、とも想う。
幻聴の声は、懐かしくも忘れ得ない母の声そのものだったからだ。ミリア=アスラリア。十年以上の昔、リョハンを襲った魔人アズマリア=アルテマックスにその肉体を依代とされた、ファリアの母親。ミリアはいつだってファリアに優しかった。どんなときも慈しみをもって接してくれた。ファリアは、そんな母親が大好きだったし、母のような女性になりたいと常日頃から想っていた。
だから、なのだろう。
「ええ、聞いているわ。お母様の時代とも遜色ないくらい、立派にやっているようね」
「……そうありたいと想っています」
「だから、行かない?」
「はい」
「セツナ君のこと、嫌いなの?」
「そんなわけ――」
幻聴のあまりのしつこさに顔を上げたとき、ファリアは、唖然とした。
「母上!?」
「どうしたの?」
ミリア=アスラリアはファリアの目の前で、不思議そうな顔をした。ファリアがなぜ驚いたのか、まったくわからないといったような反応だった。
ファリアこそ、ミリアがなぜ、そのような反応をするのかがわからなかったし、なによりもまず、身構えた。
ミリアは、仇敵アズマリアの依代なのだ。