第二千九十八話 未来への扉(一)
大陸暦五百六年四月十日。
雲一つない快晴の空の下、空中都南端広場は、凄まじいまでの数の市民によって埋め尽くされていた。集まったのは老若男女問わず、一般市民から護峰侍団の団員、護山会議の議員に至るまで、様々だ。旗を振るもの、手を振るもの、声を上げるもの、横断幕を掲げるもの、それぞれ異なる方法で、空中都に接舷した方舟を見守っていた。
セツナは、方舟の甲板の舷側に在って、出立を惜しむリョハン市民の様子を見ていた。掲げられた横断幕に記されたセツナへの感謝の言葉には、感動を禁じ得ない。リョハンの一般市民に至るまで、第二次防衛戦におけるセツナの活躍を知っているということであり、セツナがどれほどの貢献をしたのかも理解しているということなのだ。そういった感謝の言葉にいますぐには応えられないことをセツナは心苦しく想ったし、やはり、リョハンに留まりたいという想いが持ち上がってきて、視線を船内に戻すほかなかった。
甲板上には、セツナのほか、ミリュウ、レム、エリナ、エリナの母のミレーユ、ダルクス、ゲイン=リジュールがいて、それぞれにリョハンとの別れを惜しんでいた。
ほかに乗船員はいない。リョハン側は何人かでも方舟に同行させようと考えていたが、セツナが断った。武装召喚師が同行してくれるというのならありがたいが、とはいえ、リョハンの防衛のこともある。無闇矢鱈に戦力を減らすべきではない。リョハンはリョハンのことだけを考えていればいいのだ。
「たいちょー!」
野放図なまでに明るい声に目を向けると、ルウファ=バルガザールがほかの六大天侍とともに方舟の近くに来ていた。シヴィル=ソードウィン、カート=タリスマ、ニュウ=ディー、グロリア=オウレリア、アスラ=ビューネルの五名だ。
七大天侍は、戦女神直属の親衛隊であり、守護天使だ。ミリュウ=リヴァイアが解任したからといって、即座に後任の選定というわけにはいかないのだ。しばらくは七大天侍ではなく六大天侍として職務を果たすことになるという。
『ミリュウが抜けた穴はとてつもなく大きいけれど、きっと、問題ないわよ』
昨夜、ファリアがいった一言にミリュウが感動したのはいうまでもない。ミリュウがファリアに抱きつき、涙さえ流したのは、明日にも別れのときがくるからだったに違いないだろう。永遠の別離ではないとはいえ、またすぐに再会できるわけもない。半年や一年で済めばいいが、もっと長期的に会えなくなる可能性もある。
だからこそ、セツナを含め、方舟の上にいるだれもがリョハンとの別れを惜しんでいた。
「本当にいっちゃうんですねー、さーびしー」
「エミルがいるだろ」
「そりゃあまあ」
照れもせずうなずいて右方向を一瞥したルウファの視線を追うと、白衣を着込んだエミルの姿があった。エミルは、いまやリョハンを代表する医師のひとりだという。ほかの医師やその助手たちとともに方舟の様子を見守っている。手を振ると、はにかみながら手を振り返してくれた。夫婦仲の睦まじさは、ふたりの幸せそうな様子を見れば疑うべくもない。
「って、そいういうことじゃなくて、ですね」
「わかってるよ。俺も、少しは寂しい」
「少しは、ですか」
落胆を隠せないルウファに、セツナは内心の喜びを顔を俯けることで隠した。緩みきった表情を見せるのは、少しばかり恥ずかしい。らしくないなどとは思わないし、別段、気構えることでもないのだろうが。
「そりゃあ、あんたとファリアとじゃあ、セツナの対応も変わるってものでしょ」
「いやまあ、そりゃそうなんですけどお」
「冗談だよ」
「はい?」
「本当は物凄く、寂しい」
「はい!?」
ルウファの大げさなまでの反応は、彼にとって予期せぬ言葉だったからなのだろう。驚きすぎて顔がおかしくなってしまっている。一方、セツナは、そんなルウファの反応さえも愛おしく想った。
「もう少し、ゆっくりと話したりしたかったよ」
「隊長……」
「もう隊長じゃあないっての」
「うう……でも、俺にとっては隊長は隊長ですし……」
ルウファは、泣き顔にさえなりながら食い下がろうとする。セツナにとって彼のそういった気持ちほど嬉しいものはなかったし、同時に、物悲しくもあった。ガンディアはもはやなく、《獅子の尾》も解散したといっていい。しかし、その当時結ばれた絆までが失われたわけではない、ということは、彼やミリュウたちを見れば、一目瞭然だ。
失われたものはあまりにも多く、大きい。だが、だからといってなにもかもすべてがこの世から失われたわけではないのだ。セツナたちの絆は、厳然として存在し、眩いまでに輝いている。セツナは、そう想っている。
「七大天侍がそれでどうすんだよ」
「そうよ」
「ルウファ様は、御主人様のことを本当に慕われておいでだったのでございますね」
「当たり前じゃないですか……! 俺がどれだけ隊長のことを尊敬していたか、言葉じゃあ言い表せられませんよ!」
「ルウファ……」
セツナは、感極まって言葉を詰まらせた。彼がそこまで想ってくれているということは、考えもしなかったからだ。だからこそ、失われたことの悲しさが増大し、破局を食い止められなかったことへの後悔が湧き上がる。後悔したところでどうなるものでもないし、あの当時、最終戦争も“大破壊”も食い止められるような力は、セツナにはなかったのだ。いや、それはいまも同じだろう。あれだけの物量が押し寄せてきた上、そこに神々の思惑が働いていた。
ひとの手には、あまるものだ。
ミリュウが、少しばかり嬉しそうに、しかし半ばからかい気味に口を開く。
「そこまでいうなら、七大天侍を辞める?」
「それはできません!」
「あら」
ルウファの力強い即答ぶりに、ニュウは少しばかり驚いたようだった。
「俺は七大天侍として、リョハンを守護する使命があります。隊長のことは大好きですし、いまも隊長として慕っていますけど、それはそれ、これはこれ、なんです」
「ああ、そうだ。それでいいのさ」
セツナはむしろ、ルウファのその断言ぶりに喜びを覚えた。それでこそ、かつての《獅子の尾》副長だと思わずにはいられない。そこには確かな頼りがいがある。七大天侍としてリョハンに残るか、それとも、七大天侍を辞めてセツナたちについていくか天秤をかけ、悩みに悩むような優柔不断な姿を見せられれば、失望したに違いないし、七大天侍としての彼の立場にも傷がついただろう。事実、そう断言した彼を見る他の七大天侍たちの目は、彼を見直すかのようなものに変わっている。
この二年余り、ルウファの七大天侍としての働きぶりは、話を聞く限り凄まじいものだったようだ。ミリュウいわく、だれよりも懸命に働き続け、その熱心ぶりはまるで鬼のようだったらしい。故に彼への信頼は既に揺るぎようのないほどのものになっているのだろうが、それでも、ルウファの力強い宣言には感動を覚えるものなのだろう。それだけリョハンを愛しているということでもある。
「ルウファ。おまえにはおまえの人生があって、俺には俺の人生がある。そして、その人生の道はときに重なり、ときに離れる。それだけのことだよ」
「うう……でも、だからといって寂しくないってのは嘘ですからね」
「ああ、それも事実さ」
セツナはそういって、ルウファに笑いかけた。ルウファは半泣きになりながら、それでも笑顔を絶やすまいとしてくれている。なにも永遠の別れではない。いつか必ずリョハンに戻ってくると約束し、そのつもりでもいる。もう二度と会えないわけではないのだ。しかし、それでも、ルウファとはもっとじっくり話したかったのは事実だし、それはグロリアやアスラともだ。
「まったく、仲のいいふたりだこと」
「妬けますね」
ミリュウとレムが、そうはいいながらもまんざらではなさそうな表情をしていることにセツナは、つい嬉しくなった。
それからしばらく、七大天侍たちとの会話が続いた。グロリアやアスラも、別れを惜しんでくれた。
アスラは特にミリュウと離れ離れになることを強く哀しんでいた。当然だろう。アスラはミリュウのことを姉として慕い、愛しているのだ。いっそのこと七大天侍を辞め、セツナたちについていこうか悩み抜いた、という本音を漏らしたのには驚いたが、アスラがそれほどに苦悩するのは当然ともいえた。ルウファとは、立場が違う。しかし、ミリュウがいつかリョハンに帰ってくるときのためにも、リョハンを守り抜くことに決めたのだ、と彼女はいい、ミリュウはそんなアスラを誇らしく想ったようだった。
グロリアは、セツナたちの旅が無事に終わることを祈ってくれた。そのうえで、七大天侍最強の武装召喚師である彼女は、リョハンのことは任せて、安心してくれていい、とまでいってきた。実に頼もしく、心強い言葉であり、セツナはそんな彼女の宣言を信じた。
「それにしても……ひとり足りないような」
ミリュウがぽつりとつぶやいたのは、七大天侍との別れの会話が終わってからのことだった。