第二千九十七話 出発前夜(三)
「セツナ殿をお呼びしたのは、ほかでもありません」
ファリアがそういって話を切り出したのは、場所を戦神の座に移してからのことだ。戦宮の中庭に当たる戦神の座を話し合いの場所に選んだのは、そこが一番風通しがよく、戦宮にいるだれの目からも見えるからなのか、どうか。単純に戦宮の中心だからなのかもしれない。
戦神の座には、セツナたち三名とファリアの四人しかいない。が、戦宮の衛兵たちはそこかしこにいて、戦神の座の様子もしっかりと監視している様子だった。いつなにが起こるかわからないのだ。いくらセツナたちが警戒不要の対象であっても、警備を怠るわけにはいかない。
「明日、リョハンを旅立たれるセツナ殿、レム殿にお礼をしたかったからです」
「お礼や感謝は、これまでに何度もしてもらっていますし、気にされる必要はありませんのに。ねえ、御主人様?」
「ああ、まったくその通りです」
セツナがレムの言を肯定すると、ファリアはわかりきっているとでもいうように微笑を浮かべた。優しい微笑みだった。セツナの胸が苦しくなったのは、そんな彼女としばらく逢えなくなるという事実が、目前に迫ってきたからに違いない。覚悟を決めたことも、いざ眼前になると、心苦しくなるものだ。
だからといって、リョハンに残るわけにはいかない。ましてや、ファリアを連れて行くという判断はありえない。それは、ファリアの覚悟を踏み躙る行為にほかならないのだ。
「ねえ、あたしは? あたしへの感謝は? 二年間、七大天侍として戦女神様にこき使われた挙句、あっさりと解任させられたあたしへの空のように広く、海のように深い感謝の言葉を述べよ」
などと突如としてまくし立てたミリュウに対し、ファリアは一瞬、虚を突かれたような顔をした。そして、呆れ果てる。
「述べよって、あなたねえ」
「ふふん、二年間、タダ働き同然だったんだから、当然でしょ」
「タダ働きなんてさせた覚えはないわよ」
「そうだけど、似たようなものじゃない」
「どこがよ」
ファリアがミリュウを睨むと、ミリュウは肩を竦めてみせる。互いに取り繕う様子もなく素顔の自分を曝け出しているということに気がついているのかどうか。特にファリアは、戦女神としての自分を完全に忘れているように思えるのだが、彼女自身、そのことに気がついている様子もない。
「働きに見合ってないって話」
「ミリュウ、あなたいつのまに金の亡者になってしまったの……」
「だれが金の亡者よ!」
「七大天侍には、十分なほどの額が支払われているはずだもの……」
「でも、セツナとの結婚資金には足りないわよ!」
「はあ!?」
ファリアが素っ頓狂な声を挙げると、ミリュウはまってましたとばかりにセツナの腕に飛びついてきた。戦神の座に用意された椅子から危うく転げ落ちそうになる。
「いつかセツナと結婚するときには、歴史に名を残すような盛大な式を挙げるの。そのための資金には、全然まったくこれっぽっちも足りていないのよねー」
「だれがだれと結婚するですって?」
「察しが悪いわねえ。あたしとセツナが結婚するのよ。いますぐじゃあないけど、いつか必ずね。ああ、もちろん、戦女神様も呼んであげるわよ、参列者として、ね?」
(俺に同意を求めるなよ……)
などとは、口に出していえるはずもなく、セツナはミリュウの幸福に満ちた目と、ファリアの怒りに満ちた目に晒され、硬直せざるを得なかった。
「へえ、結婚するんだ? セツナ。ミリュウと。いつの間にそんな約束をしたのかしら? わたしにわかるように説明してくれる?」
「戦女神様、地が出ていますよ」
「いまは戦女神ではなく、人間ファリア=アスラリアとしてここにいるのよ? 当然でしょ」
そういわれると、返す言葉もない。
戦女神としての責務を果たすことを思い出させれば、冷静さを取り戻すかと想ったのだが、どうやら彼女にはセツナの理性を求める思いは、届かないようだった。
「さあ、セツナ。わたしの質問に答えてくれるわよね?」
「ふふん、いっておあげなさいよ、セツナ。あたしの愛しの旦那様」
なにやら勝ち誇るミリュウに対し、セツナは、一瞬の逡巡の後、告げた。
「あのなあ、そんな約束いつしたんだよ」
「ええ!? 忘れたの!?」
「忘れたもなにも、してねえよ」
「幸せにしてくれるって、いったじゃない!? 責任とってくれるって!」
「……それは、いった」
セツナは、ミリュウの涙の訴えを退けることができなかった。認めざるを得まい。ついこの間のことだ。忘れようがない。忘れるはずもない。
「つまり結婚してくれるってことじゃない!」
「なんでそう短絡的な結論になるんだ」
「そうよ、ミリュウの早とちりよ」
ファリアが涼やかな表情をしたのは、ミリュウの発言の意味を理解したからだろう。つまりは、ファリアがいったことだ。早とちり。
「はあ!? 責任取って幸せにするっていえば、結婚する以外になにがあるのよ!」
「別に結婚だけが幸せの形とは限らないでしょ」
「限るわよ、あたしにいわせれば!」
「それはあなたの価値観でしょ」
「ファリアはセツナと結婚したくないの!?」
「……それは」
ファリアが口ごもると、ミリュウが勢いづく。セツナの側を離れ、ファリアに肉薄した。
「どうなのよ、どう!?」
「えーと……」
「なにを困ってるのよ、本音をいいなさいよ、本音を!」
「だから、その、ね?」
「ね? ってなに、ね? って」
困り果てたファリアに食いつくミリュウ、という構図を見ていると、どうしようもなく懐かしくなってしまうのは、致し方のないことだろう。ありふれた、それこそ懐かしい光景だった。
「なんだかミリュウ様、いままで以上に元気でございますね」
レムが嬉しそうにいってくる。
彼女もきっと、アスラがいったミリュウが変わり果てたという言葉を気にしていたのだろう。それが実際のところ、ほとんど変わっていなかったのだが、拍子抜けするよりも喜びのほうが大きい。それはレムにとって、ミリュウが家族のような存在だからに違いなかった。
「あれを元気といっていいのか」
「それにファリア様も……以前のままのご様子」
「本質はそう変わるもんじゃないだろう」
「はい。ですが、この目で確認できて、少しほっとしたのは事実でございます」
「……そうだな」
それだけは認めざるをえない。
幸せの形について討論を始めたふたりの姿は、二年以上前に何度となくみた口論するふたりに重なって見えて、幸福に満ち溢れていた時代の懐かしいにおいが鼻孔を満たした。
それからしばらく、ミリュウとファリアの幸福論がぶつかりあったが、セツナはそれ以降も度々巻き込まれ、レムまでもが乱入して戦宮全体が騒がしくなるほどになったりした。
逸れに逸れまくった話が本筋に戻ったのは、夜の闇が空を覆い、星月が輝き始めた頃合いであり、そのころにはミリュウも疲れ果てていた。話を本筋に戻すことができたのは、彼女が疲れ切ったことも大いに関係がある。話し疲れたミリュウが茶々を入れなくなったおかげで、ファリアもゆっくりと話を進めることができるようになったというわけだ。
もっとも、ファリアの話の本筋というのは、セツナとレム、そしてミリュウへのこれまでの感謝の言葉であり、ここに至るまで、何度となく、様々なひとから聞かされた言葉だった。
第二次リョハン防衛戦と呼称される戦いにおけるセツナの活躍は、リョハンの歴史に残るものであり、ひとびとの記憶にも深く刻まれるものだ、とファリアはいった。リョハンのひとびとが忘れてはならないことでもあり、故に護山会議は率先して、セツナの活躍を記録に残し、また、リョハン市民が忘れ得ぬよう、記念碑や記念像を作ろうと画策しているとのことだった。
「なにもそこまでする必要はないような」
「そんなことはないわ」
ファリアが、彼女の言葉でいった。
セツナが内心ミリュウに感謝しているのは、そのことだ。ミリュウによって戦女神という仮面をぶち壊され、素顔を引き出されたファリアは、話が本筋に戻った後も地のままだったのだ。おそらく、もはや戦女神を取り繕っても仕方がない、と諦めたのだろう。それがセツナにはたまらなく嬉しい。
戦女神ファリアとしての彼女の凛とした姿、立ち居振る舞いも好きだが、やはり、素顔の彼女が一番好きであり、そんな彼女と向き合っている時間ほど素晴らしいものはないとセツナは想っていた。
「君がいなければ、リョハンに未来はなかった。それはマリク様も認めることよ? ラムレス様とマリク様の協力があっても、神軍の猛攻を止めることはできなかった。神軍が撤退したのは、君が来てくれたおかげ。護山会議が君の活躍を形として記録しようと動くのは、当たり前のことなのよ」
「当たり前のこと……か」
「だから、みんな君を引き止めたがった。そうでしょ?」
「ああ」
「凄かったみたいね」
「うん」
「凄かったわ、だれもかれも他人任せで」
「でも、仕方のないことなのよ」
「わかってるわよ、それくらい。うん」
ミリュウが自分を納得させるように、頷いてみせる。ファリアがそんなミリュウの反応を見て、慈しみに満ちた表情を見せる。
「議員たちだって、自分に力があれば、率先して飛び出していくようなひとばかりよ。皆、リョハンを愛し、リョハンのために尽くそうとしているもの。でも、彼らには戦うための力がない。だったら最初から武装召喚術を学べばいいと考えるかもしれないけれど、それじゃあ政治家はやれないでしょう。政治は議員が、戦闘は武装召喚師が行うもの。それがリョハンの不文律なのよ」
「ああ、わかってるさ。頼られるのは、不快なことでもなんでもないからな」
「それなら……良かったわ」
そういって、彼女は微笑む。
透徹された微笑みは、いつになく美しく、綺麗で、いつまでも眺めていたいと想った。
けれども、そんな時間があるわけもなく、彼女との別離のときまで半日も残されていないことを彼は知っている。理解しているからこそ、なのかもしれない。もっと見ていたい、もっと話していたいという衝動が、セツナを饒舌にした。ミリュウやレム、ファリアまでもが驚くほどに話し続けた。
本当のことをいえば、セツナは、ファリアの側を離れたくなどなかったのだ。