第二千九十六話 出発前夜(二)
戦宮に辿り着く頃には、夕焼けが西の空を紅く燃え上がらせていた。
リョフ山の頂に築かれた空中都からは、場所によっては地平の彼方まで見渡すことができた。つまり、太陽が地平の彼方へと沈みゆく様を堪能できるということであり、セツナは空中都滞在中、何度となく日の出や日の入りを目の当たりにし、自然の美しさ、雄大さに心打たれたものだった。
天を衝くほどの峻険たるリョフ山、その山頂から見遣る朝夕の陽の光ほど格別なものはない。リョハンに住むひとびとにとっては見慣れた光景であり、感動するセツナの姿を見て、逆に感動するくらいだという話だったが。
ともかくも、そんな感動的な光景が展開される中、セツナはミリュウとともに戦宮に到着した。すると、戦宮の出入り口に見慣れた女給姿の少女が待っていた。夕焼けに照らされ、やや赤黒く見える少女は、セツナとミリュウの姿を発見すると、大げさなまでに手を振ってきた。レムだ。方舟への搬入作業と配置の指揮を終え、空中都に戻ってきたということだろう。
「お待ちしておりました、御主人様、ミリュウ様」
「早っ」
ミリュウが驚くのも無理はない。レムは武装召喚師ではないのだ。どうしたところで山道を通過しなければならないはずなのだが、搬入作業などを考えると、少しばかり早すぎる。
「山道を飛ばしてきたのか?」
「いえいえ、“死神”を酷使したのでございます」
「“死神”を?」
「はい」
いつものようににこりと微笑むレムにセツナは思案顔になった。“死神”を利用すれば、リョフ山の頂までひとっ飛びで来られるものなのだろうか。確かにレムの“死神”は、物理法則を無視した動きをする。重力などくそくらえといわんばかりの軌道は、使い方によっては、空を飛ぶこともできるかもしれない。
と、レムの顔をミリュウが覗き込んだ。そのまなざしのあまりの真剣さにレムが小首を傾げる。
「どうされたのでございます?」
「あんたも、相変わらずよねえ」
ミリュウが、感心したようにうなずきながらレムに近づけていた顔を離した。
「はい?」
「なんだかあたしだけ年を取った気分よ」
彼女は、レムとセツナの顔を見比べるようにして、自嘲気味に笑った。
セツナの外見に大きな変化がないのは、年齢的にも当然のことだ。髪は随分伸び、筋骨もたくましさを増したが、外見的な変化といえばその程度のことだ。レムの見た目といえば、“大破壊”以前となにひとつ変わっていない。女給服がガンディアで愛用していたものと様変わりしているくらいであり、それ以外の部分、つまりレム自身、なにも変わっていないのだ。それは、彼女が成長しない、時間の止まった存在であるからなのだが、そのことは無論、ミリュウも大いに理解しているはずだ。
そのうえで、ミリュウが嘆いたのは自分が年を取っていくという事実に対してだろう。セツナには、ミリュウはますます美人になったとしか思えないのだが、どうやら、本人はそうは考えられないらしい。
「なにを仰るかと想えば……ミリュウ様は、二年経って、ますますお綺麗になられたではありませんか」
「そう?」
「はい。わたくしなどは、本当にあのミリュウ様なのかと我が目を疑ったものでございますし」
「ふうん……でもその言い方だと、まるで昔のあたしが良くなかったみたいじゃない?」
ミリュウが半眼でもってレムに顔を近づけると、レムは慌てたように手を振った。
「そんな滅相もない。むしろ、以前にも増して美しくなられた、と、いっているのでございます」
「まあ、いいわ。あんたの本音がなんであれ、あたしはあたしだし」
「お、おい」
「セツナもいるしね」
ミリュウは、周囲の人目など気にする様子もなくセツナに抱きつき、腕を絡めてみせた。レムの笑顔がより一層深くなったように見えたのは、彼女が変わらぬミリュウとの再会を喜んでいるからに違いない。レムは、セツナとその周囲の関係を好んでいたのだ。ミリュウが以前と変わらない様子を見せることは、彼女にとって喜ぶべき事象だろう。
「はい。御主人様も、ミリュウ様の美しさにめろめろでございます」
「めろめろ……」
疑惑に満ちた目で、ミリュウがセツナの顔を覗き込んでくる。
「なんだよ」
「全然そんな風に見えないんだけど」
「そんなことはございませぬ。御主人様の御心は、いつもミリュウ様への愛でいっぱいにございますよ」
レムが当然のようにいってくると、ミリュウは彼女を一瞥して、しばらく考え込んだのち、セツナに視線を戻した。そのときには、疑いのまなざしは消え去り、両方の目をきらきらと輝かせていた。
「本当? ねえ、それって本当なの? だとしたら嬉しすぎるんだけど! 死んでもいいわ!」
「死ぬなよ馬鹿」
「死なないけど!」
当たり前のように前言撤回したミリュウは、周囲のことなどお構いなしに大声を上げる。
「セツナと添い遂げるまで、死なないけど!」
「……あのなあ」
セツナがほとほと困り果てたときだった。
「戦宮の前で馬鹿騒ぎをしているのは、どこのどちら様なのでしょうか?」
突如割り込んできた声に目を向けると、戦宮の出入り口付近にファリアが立っていた。さっきまでセツナたちの様子に呆れていた衛兵たちがぎょっとするのがわかる。ファリアは、穏やかな笑みを浮かべながらも、青筋を立てているような表情でこちらを見ている。ミリュウがセツナに抱きついたまま、どこか勝ち誇るように行った。
「あら、これはこれは戦女神様ではありませんか」
「かくいうあなたは元七大天侍ミリュウ殿ではないですか」
張り合うようなふたりの様子に、セツナはレムと顔を見合わせるしかない。互いに性格を熟知している姉妹のような関係性のふたりだ。ちょっとしたことで口論に発展するのは、よくあることではあった。しかし、リョハンではそのような状況になったことはなかった、という話をエリナから聞いている。
それは、そうだろう。
ファリアは戦女神になりきらなければならず、ミリュウもまた、七大天侍としての職務に忠実たろうとした。ふたりともが己の使命に打ち込んでいたのだ。すべてを投げ打つほどの覚悟を込めていたのだ。気安い口論など、できようはずもない。
「こんなところで馬鹿みたいに大声を上げては、皆に迷惑ですよ?」
「おや、戦女神様はどうやら癇癪を起こしておられるようで」
「なにかおっしゃいまして?」
「いえいえ、まさかわたくしごときが戦女神様に意見しようなどとは想うはずもございませんよ」
「では、静かにして、中へどうぞ」
「これはこれはご丁寧にありがとうございますわ」
「うふふ、ご客人をもてなすのは、当然のことですよ」
「うふふ」
なにやら剣呑な雰囲気のまま笑い合い、セツナたちを残して戦宮に入っていったファリアとミリュウにおいて行かれたセツナは、どうしていいものかとレムを一瞥した。レムはレムで、セツナの顔色を伺うようにこちらを見てくる。セツナは、レムを手招きすると、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
(全部おまえのせいだからな)
(わ、わたくしでございますか?)
(なんで心当たりがねえんだよ)
セツナは、レムの驚くべき反応に心底頭を抱えたくなった。
レムがミリュウを調子に乗らせた結果、彼女の大声を聞いたファリアが不機嫌になったのはいうまでもないのだ。
戦女神とはいえ人間だ、といったのは、ほかならぬミリュウだ。
神ならばいざしらず、人間であるファリアには、感情がある。
嫉妬もしよう。
(嫉妬……か)
それはつまり、ファリアがセツナのことを想ってくれているからにほかならない。
もちろん、わかりきっていたことだ。
互いに、想い合っている。
逆の立場になれば、セツナもまた、嫉妬するのは間違いなかった。