第二千九十一話 来訪者、彼方より
「セツナ殿は、直に旅立たれるそうで」
アレクセイ=バルディッシュがその話題を持ち出してくることは、想定の範囲内の出来事であり、ファリアは、書類と睨み合いながら素直にうなずいた。
「ええ。二日後だそうですよ」
「二日後……ですか」
「どうしました?」
「いえ……少々、早すぎるように思いましてな」
「そうですか? わたしとしては、随分長く引き止めたように思いますよ」
ファリアは、書類から祖父に視線を移し、告げた。アレクセイのいいたいこともわからないではない。確かに、ミリュウ隊の捜索が無事に成し遂げられ、リョハンに戻ってきてから二日後というのは、あまりにも早すぎるのではないか。もっとゆっくり休んでいけばいいのに、と考えもした。しかし、よくよく考えてみれば、それこそ大きな間違いだということがわかる。
ファリアたちリョハンの人間は、彼に頼り過ぎなのではないか。
「第二次防衛戦に協力していただいただけでなく、消息不明だったミリュウ隊の捜索にまで協力してもらったのです。それに、余計な手を煩わせたのもありますね」
ファリアは、祖父に向かって微笑みかけた。アレクセイ=バルディッシュは、相変わらずの渋い顔でなにやら考え込んでいたが、ファリアの笑顔の真意に気づくと、多少、気まずげな表情になった。セツナにファリアを攫わせたことを思い出してくれたに違いない。
「セツナ殿としては、リョハンでわたしたちの無事が確認できれば、すぐにでもアレウテラスに戻る予定だったそうですし、ミリュウたちを無事探し出すことができたのですから、リョハンに留まっている理由はないわけです」
無事を確認するためだけ、というのは、少しばかり悲しいことだとは想う。しかし、セツナがそれ以上の想いを抱いてくれているのだから、なにも心配する必要はない。彼の想いは、ファリアの胸の中に確かにあったし、いまも強く息づいている。
「セツナ殿がこの北ヴァシュタリア大陸に辿りつけたのは、西ザイオン帝国海軍の協力があったからです。セツナ殿が帝国との約束を果たすべく旅を急ぐのは当然のこと」
ファリアは、セツナとたっぷり思うまま話し合った数日間のことを思いだしながら、告げた。戦女神の執務室。穏やかな静けさの中、ふたりの会話を邪魔するものはいない。
「いえむしろ、なんとしてでも約束を果たそうという心意気こそ、セツナ=カミヤというひとなのです。セツナ殿を無理に引き留めることは、このわたしが許しません」
「……戦女神様のお考えはよくわかりました。わたしも、これ以上はいいますまい。しかし、惜しいと思うことは許されましょう」
「ええ。個人の感想に口を挟むほど、戦女神は傲慢ではありませんよ」
にこりと、彼女は祖父を見て微笑んだ。
「わたしも、そう想います」
そして同意したが、そこで、だったら、などといってくるアレクセイではない。アレクセイほどファリアの気性を知っているものもいないのだ。ここでファリアに食い下がれば、余計頑固に、余計意固地になることくらいわかりすぎるくらいにわかっているはずだ。だからといって、引けばどうにかなるかのような柔軟さを持ち合わせていないことも、理解している。故に彼はそこでファリアを説得してくるようなことはなかった。
「セツナ殿の力は、神軍の女神をも撃退するほどに強大なもの。リョハンのこれからを考えれば、いつまでもここに留まっていてほしいと想うのは当然のことでしょう」
黒き矛カオスブリンガーは、魔王の杖とも呼ばれる。神殺しの力を持つ唯一の存在であり、神々までもが恐れるものだという。そんなものを平然と操るセツナは、それだけで神々に対する切り札となり得たし、神々のみならず、神軍との戦いにおいても絶大な力を発揮するに違いない。彼以上の戦力を他に求めることはできないし、人間として、彼に匹敵する力を持つものも存在しないだろう。そういい切れるくらいに、黒き矛のセツナというのは特別な存在だった。
もっとも、ファリアがセツナにリョハンに残ってもらいたいのは、戦力としての彼ではなかった。ひとりの人間として、愛するひととして、彼に側にいて欲しい、いや、彼の側にいたいという想いがある。その想いは、人間としてのファリアの願いであり、戦女神ファリアとしての次元から見ればささやかで、どうでもいいものにほかならない。
故に彼女は、セツナが二日後にはリョハンを離れたいといい出したとき、多少、衝撃を受けたものの、無理に引き留めようとはしなかった。そのとき、戦女神としての意識が勝ったのは、まさに人間ファリア=アスラリアの女としての本能に打ち勝ったといってよく、それだけでも自身の成長を垣間見ることができたといえるだろう。
それもこれも、アレクセイがおせっかいにもセツナとのふたりきりの時間を用意してくれたからであり、ファリアは、そのことに関して、心の底から祖父に感謝していた。あの濃密な、そして幸福に満ちた数日間がなければ、セツナがリョハンを離れるという寂しさに耐えられなかったのではないか。
身も心も通じ合った数日間。
ファリアはそのとき、自分がやはり人間の、ただの女に過ぎないのだと自覚し、女としての自分の本能に身を委ねたのだ。そして、女の幸せというものを知り、満たされた。だから、なのだ。人間としての自分から戦女神としての自分へと切り替わったとき、より人間としての自分を見離せるようになった。戦女神ファリアに本当の意味で近づけた、といえるのかもしれない。
「それだけではないのですが……」
「はい?」
「いえ……こちらのこと。二日後出立ということですが、我々にできることはなにがありましょうな」
「セツナ殿には、方舟を提供しますので、足に関してはなんの問題もないはずです」
「方舟を……」
「元々、ケナンユースナル様が提供してくださったもの。わたくしたちの戦利品ではありませんし、リョハンに置いていても宝の持ち腐れでしょう」
方舟の動力源に甘んじている女神マユリは、マリクによれば信頼の置ける相手だということであり、方舟とともにリョハンにいてくれるならば、それに越したことはない。しかしどうやらマユリ神の目的は、セツナとの接触であり、セツナに力を貸すことだというのだ。つまり、セツナに方舟を提供しないのであったとしても、女神がリョハンに留まることはない、ということだ。
そうなると、方舟を起動し、運用する手段はなくなり、ただの置物に成り果てる。それは宝の持ち腐れ以外の何物でもない。それに、リョハンは専守防衛に徹するべきであり、移動手段である方舟の必要性は低い。もちろん、戦場に戦闘要員を運搬するといった利用法は、十分に価値があるのだろうが。
それよりもセツナの旅に役立ててほしいという想いのほうが強い。
それに、セツナが方舟を運用してくれれば、もし万が一、リョハンになんらかの問題が発生したとき、すぐにでも飛んできてくれるだろうという淡い期待もある。方舟ならば、地上や海上を移動するより遥かに早くリョハンに辿り着けるだろう。
その上、セツナが方舟を利用することで、その旅の目的を一日でも早く果たすことができれば、ファリアにとっても喜ばしいことだ。
すべてを終えれば、彼はきっと、リョハンに立ち寄ってくれるだろう。そして、側にいてくれるに違いない。そう信じられる。想い合っているのだ。その想いの行き着く先は、常に側にいること。そのためならば、それまでどれだけ遠くはなれていても耐えられる。
「そうですね……方舟に荷物を積み込むことくらいならば、協力できるはずです。長旅に必要な物資を考え、今日明日にも用意し、運び込む。アレクセイ殿に頼んでもよろしいでしょうか」
「もちろんです。護山の英雄殿の旅立ちに尽力するのは、当然の努めでしょうからな」
「ありがとう」
ファリアが満面の笑みで告げると、さすがの祖父も多少たじろいだようではあった。
話し合いは、それで終わりとなった。
祖父はまだいい足りない様子ではあったが、ああも命じた以上、取り付く島もないと判断したようだ。渋々、彼女の執務室をあとにした。
ファリアはそんな祖父の背中を見遣りながら、感謝する。
アレクセイの気持ちは、痛いほどわかる。
彼は、ファリアにもっと素直になって欲しい、と考えているのだ。
戦女神という立場を捨てよ、などとはいうまいが、似たような想いを抱いているのに違いない。だから、わざわざ戦宮に姿を見せ、セツナの話をした。セツナがファリアにとってどれほどの存在なのか、彼ほど知っているものはいまい。
ファリアにセツナとともに幸せを掴んで欲しい、などと考えているに違いない。
しかし、ファリアには、それはできなかった。
ファリアは、戦女神なのだ。
リョハンという天地世界を支える柱である以上、動くわけにはいかないのだ。
「……困ったものだ」
己の執務室に戻ったアレクセイは、書類と向き合いながら、だれとはなしにつぶやいた。書類には、
彼は元来、独り言をいうような人間ではない。心の声を言葉にしてしまうのは、余程困り果てたときくらいのものだった。言葉にし、音として耳に叩き込むことで、自分を落ち着かせようとでもいうのかもしれない。余計に焦るだけではないのか、と想うのだが、この性分ばかりはどうしようもない。
だから、というわけではないだろうが、彼の耳朶に飛び込んできた声があった。
「なにを困っているのです?」
「戦女神様のことに決まっているだろう。あの方の頑固さには、腹が立ってくる」
つい、本音が漏れたが構うことはなかった。実際問題、アレクセイは戦女神ファリアの融通の効かなさ、頑なさには、立腹し始めている。いや、頑固なことそのものが悪いわけではない。戦女神としてあり続けようとする意志の強さには、感銘さえ覚えるほどだ。
「まあ、腹が立つほどの頑固者に育ったのですか」
「ああ……」
ごく自然にうなすいたのは、その反応が予期したものだったからだ。聞き知った声。聞き慣れた反応。なにもかも、懐かしい。そこで、はたと気づき、顔を上げる。
「おまえは――」
アレクセイは、視界に飛び込んできた人物に愕然とするほかなかった。