第二百八話 老将烈火
「敵奇襲部隊、生存者残り数名」
部下の冷徹な通知に、彼は息を呑んだ。矢の雨が止む。残り五名の敵兵が、包囲陣の円周部に近づき過ぎたのだ。矢の雨を降らせれば、味方に被害が及ぶ。しかし、通路に満ちているのは重装備の盾兵。簡単には突破できない。そして、盾兵で閉鎖された通路の周囲の家屋には弓兵が配置されている。狙い撃てるのなら、矢の雨を降らせる必要はない。
生き残った敵兵の中に、あの老人の姿があった。彼だけが、矢傷ひとつ負っていない。どのようにしてあの矢の雨の中を走り抜けてきたのかもわからず、とても人間技とは思えなかったし、老人のすることでは断じてなかった。だが、目の前の現実は事実として受け止めなければならない。対処さえすれば問題はないのだ。
「先頭の老人が敵将だ! 狙い射て!」
ロックの叫び声に、周囲の弓兵たちが慌てて動き出す。しかし、ロックたちの居場所からでは、老人を狙い撃つことは不可能に近い。射線上の建物が障害物となっている。弧を描くように射てば、建物をかわして上手く当てることも可能かもしれないが、それだけの技量を持つ弓兵がガンディアには不足している。ただ脆く弱いだけではないのだ。力も技も、なにもかもが足りない。
そんな兵士たちも使い方次第では戦力になる。さっきのような矢の雨を降らせるのに大した技量はいらない。必要なのは人数であり、幸い、ガンディアの兵力は少なくはなかった。もっとも、ログナー攻略戦で出た欠員を補充しきれぬままザルワーン侵攻に踏み切ったのには疑問も残るのだが、なにやら理由があるということだった。どうやら、ロックには関知できない事情らしい。
ロックの叫び声が聞いたのだろう、弓兵の矢が老兵に集中し始めた。大量の矢が、息つく暇もなく老兵へと殺到する。だが、老兵は立ち止まらない。それどころか、前方から迫り来る矢のことごとくを切り落としてみせたのだ。
ロックは、老兵の剣技の凄まじさに思わず見惚れた。まるで剣舞を踊るように、老兵は市街を進む。盾兵の充満する通路へ。矢は老兵に追い縋る。さすがに後方からの射撃には対処できなかったのか、数本の矢が老兵の背中に刺さった。鎧を貫いている。それでも、彼は止まらない。盾兵に躍りかかっていた。盾兵たちは老兵を押し包もうとする。剣が閃いた。盾兵が三人、盾ごと腕を切り飛ばされ、仰天した隙に首を刎ねられた。
あざやかな手並みだった。
まるでそこだけが別世界の出来事のように思えてならないほどに劇的で、美しいとさえ感じられる。まばゆいばかりの剣閃が、自軍兵士たちを簡単に切り倒していく。盾が意味をなさず、鎧もボロ布のように切り裂かれる。ありふれた剣ではない。そして、ありふれた剣技でもなかった。凄まじい技量と膂力、体力に反射――どれをとっても一線級であり、ガンディアの弱兵では相手にならないだろうと彼は悟った。このままでは、陛下から預かった大事な兵士たちの命を無駄に散らせることになる。
動悸がする。
胃が捩れ、吐き気がした。
老兵の剣が閃くたび、矢が折れ、盾が割れた。槍が砕かれ、兵士の体が鎧ごと切り裂かれた。返り血を浴びても、老兵の動きは鈍くならない。むしろ、体のキレが良くなってきているのが目に見えてわかる。このままでは手が付けられなくなるのではないか。状況はこちらが押している。戦況は覆らない。勝てる。だが、彼を放置することはできない。被害は大きくなる一方だ。
ロック=フォックスは、胸に手を当てた。傷ひとつ負っていない胸甲に触れたところで、なにがあるでもない。鼓動は高鳴るばかりで、嘔吐感は収まる気配を見せない。
「敵奇襲部隊、残り一名」
冷酷な宣告は、老兵の率いてきた部隊の兵士たちがひとり残らず死んだことを示していた。矢の雨で大半が死に、わずかに残ったものたちも弓兵に撃ち殺されたのだろう。敵はたったひとり。そのたったひとりに苦戦を強いられている。
(苦戦?)
ロックは、自嘲するしかなかった。こんなものを苦戦と呼んでいいはずがない。
「ぼくが行こう」
「軍団長みずからが?」
「待ってください。敵はもうあの老人だけです。兵士たちに任せておけば、すぐにでも」
(すぐにでも?)
ロックは、部隊長の発言に目を細めた。すぐにでも、なんだというのか。見ていれば見ているほど、兵士が死んでいくだけではないのか。脆弱なガンディア兵。ログナー軍の訓練法を参考にしてロックが考えた強化訓練にもついてこられないような連中が、ログナー軍人を見下しているのだ。
彼は、部隊長の目を見据えて、いった。
「あの老人が死ぬまでに何人、兵士が死ぬ?」
「そ、それは……」
兵士が口ごもるのを見たとき、彼は、やっと動悸が収まったのを認識した。吐き気も消えた。思考は明瞭、なんら問題ない。
「ガッシュ!」
名を呼ぶと、後方から慌ただしい靴音が聞こえてきた。その反応は、ガッシュ=ウェボンに違いない。ガッシュ=ウェボンは、ガンディア方面軍第三軍団副長であり、ロックが心を許せる数少ない人物だった。
「なにかありましたか?」
彼がそう尋ねてきたのは、後方で兵士たちの指示に忙しかったからだろう。伝令を飛ばさなければならないし、各所からの報告も纏めなければならない。彼によって纏められた情報を聞くのが、ロックの楽しみのひとつだった。
「指揮は任せた。ぼくは征く」
「了解しました。では、御武運を」
ガッシュは、詳細を尋ねては来なかった。心地よいほどの反応に、ロックはついつい笑みをこぼしてしまった。が、彼がこれから赴くのは死地に等しい。悲鳴が聞こえている。血の臭いが、こちらにまで漂ってきている。いや、これは敵奇襲部隊を殲滅したせいかもしれない。どちらにせよ、市街地に満ちた血の臭いは、数日は消えないだろう。
「ああ」
それだけをいって、ロックはエイス老人の元へ向かった。家屋の屋上から屋上へと飛び移ることで、最短距離で現地に向かう。大声で、指示が飛び交っている。老人を包み込むように展開しろという声には賛同するのだが、包み込んだところで、盾ごと切られてしまえば同じことだ。彼の剣は切れ味だけでなく、破壊力も抜群らしい。その上、疲れを知らないときている。超人といっていいのではないか。
ロックは、そんな超人に挑もうというのだ。身震いがした。死ぬかもしれない。
老兵の戦場へと到達したとき、ロックは、彼の背後に転がった死体の数に慄然とした。既に何十人ものガンディア兵が、彼の剣の餌食となっていた。負傷したもので生き残っているものはいない。傷を負ったものは、次の瞬間には殺されているのだろう。一撃で仕留め損なえば、二撃目では必ず殺す。それが男の流儀らしい。たとえ腕を切り落とし、戦闘不能になっていたとしても殺す。殺すことだけが、彼の頭の中にあるのかもしれない。
屋根の上から、地上に飛び降りる。着地の衝撃は思った以上の痛みとなったが、ロックは気にも止めなかった。戦えさえすればいい。最初から、勝てる見込みのある相手ではない。ただ、脆弱な兵士たちよりも腕に覚えのある自分が戦うほうが、いくらかはましだろうという判断にすぎない。
老兵が、こちらを振り返った。視線が交錯した瞬間、ロックは、自分が愚かな判断をしてしまったことに気づいた。死を覚悟したものではない。既に死んだものの目をしていた。恐怖がロックの体を強張らせる。寒気がした。
ただ目が合っただけだ。なにかをされたというわけではない。声をかけられたわけでも、睨まれたわけでもない。ただ、視線が交わっただけなのだ。それなのに、ロックは恐怖を覚えてしまった。自分でさえこうなるのだ、ガンディア兵が、こんな男と対峙してまともに戦えるはずがなかったのだ。
古びた甲冑を纏い、大量の血を浴び、背には矢が刺さったままだ。手に握られた剣からは、血が滴り落ちている。絵に描いたような修羅だ。漂う気配からして尋常ではない。
「我が名はエイス=カザーン。第五龍鱗軍の前翼将ぞ。おぬしの名は?」
声に覇気があった。耳朶に届いた瞬間、心の奥底まで震わせるような重低音。老人が歴戦の猛者であるということをまざまざと見せつけられているような錯覚さえ抱く。幾多の死線を潜り抜けてきたのだろう。数多の戦果を上げてきたのだろう。ガンディア兵など取るに足らぬ雑魚だと想っているに違いない。そんな雑兵共に部下が殺されて、口惜しいのかもしれない。だからこそ、こんな無謀な策に出たのだろうか。結果、彼ひとりが生き残っている。
馬鹿げた話だ。
ロックは、静かに息を吐いた。ゆっくりと、空気を吸う。戦場の空気。血の臭いがまじり、吐き気がするようなものに成り果てている。だが、深呼吸には変わりない。恐怖に竦んでいた体は、いまはもう正常に動いている。目を合わせたままでも動ける。恐れを振り払ったわけではない。受け止め、飲み下したのだ。
「ぼくはガンディア軍ガンディア方面軍第三軍団長ロック=フォックス。総大将ではないが、この首にはそれなりの価値はあるはずだ」
「ふむ……」
エイス=カザーンの目が鈍く光った。まるで幽鬼のようだった。
「では、貴公の首を頂き、手土産としよう」
いうが早いか、彼は地を蹴った。剣を振り被り、こちらへと殺到してくる。ロックは、その場から動かなかった。背後には死体があり、気楽に後退できないというのもあったが、距離を取ったところでどうにかなる相手だとも思わなかったのだ。距離を詰めればどうにでもなる、ということでもない。腰を落とし、帯剣の柄を握りしめる。間合いは、瞬く間になくなっていく。
「はあっ!」
裂帛の気合とともに振り下ろされた渾身の一太刀を、ロックは、抜き放った剣の腹で受け止めた。右手は柄を握り、左手で刀身を支える。素手ではない。皮膚に刃が食い込むようなことはないが、エイスの斬撃の重さと鋭さは、ロックの両腕でも支えきるのは困難だった。しかし、諦めない。踏ん張り、エイスの刃を受け止め続ける。押し負けそうになるが、彼は歯噛みして敵を睨んだ。剣の向こう側、エイスの双眸が強く輝いている。ロックの剣の刀身が、音を立てて割れた。エイスの剣が、ロックの額へと落ちてくる。
「無念……」
老人のつぶやきが聞こえ、彼の剣がロックの兜に激突した。兜は割られず、剣は力なく地に落ちる。いや、落ちたのは剣だけではない。老人の肉体も、地面に崩れ落ちていった。背に大量の矢が突き刺さっている。
ロックは、折れた剣の柄と刀身を握ったまま、なにが起きたのかわからず呆然となった。冷や汗が、いまさらのように背中を伝う。震えが来た。吐き気もだ。飲み下したはずの恐怖が、一気に復活して全身を駆け巡っている。それでもその場で倒れなかったのは、軍団長としての意地と誇りと見栄があったからだろう。
「軍団長! ご無事ですか!」
「ロック軍団長! お見事です!」
「軍団長が注意を引いてくれたおかげです!」
屋上から顔を覗かせた弓兵たちがつぎつぎと投げてくる言葉のおかげで、彼は、いったいなにがどうなったのかを理解した。
ロックがエイスの斬撃を受け止めていた隙に、弓兵たちが矢を放ったのだ。動かない的に当てるのは、ガンディア兵にだってできないはずもない。とはいえ、わずかな好機をものにしたのは事実であり、ロックは考え方を改める必要が出てきたのかもしれないとも思った。
そして、息絶えたエイスの亡骸を見遣る。老将の背には無数の矢が突き立っており、絶命するのも当然という状態だった。それでも、彼は最後までロックを殺す気でいたのだ。最後の最期まで、戦い抜こうとしていた。死をなんとも思っていない。むしろ、死の先にこそなにかがあると信じたのだろうか。
(いや……違う)
彼はただ、死んだだけだ。そこに意味を見出す必要はない。
ロックは、感傷を振り払うと、折れた剣を鞘に収めた。刀身のほうはどうしようかと思ったが、この場に捨てるのもどうかと考え、持ち帰ることにした。
エイスの剣を見下ろす。
剛剣と呼んで差し支えのないような剣は、刃毀れひとつなかった。