第二千八十八話 女神と天侍(二)
ようやく状況が落ち着いたのは、東の空が白み始める頃合いだった。
深夜に始まった報告会は、戦神の座から戦神の間へと場所を移して続けられ、その中でミリュウ隊がなぜ、リョハンへの報告もなく、数十日に渡る雲隠れをしなければならなかったのかについて詳細に語られている。
ミリュウは、彼女が率いる隊による周辺領域調査の調査結果を纏めた報告書を提出するとともに、その直後から今日に至るまでの出来事はすべて、自分に責任があることであり、処罰を受けるのであれば自分ひとりであるべきである、と主張した。そして、この数十日間、ミリュウ隊がどこでなにをしていたのか、事細かに説明している。その説明によって、セツナもまた、知らなかった事実と出くわしたりしたのだが、全体を通してみればどうでもいいことではあった。
ミリュウ隊がリョハンとの連絡を取れなくなった最大の理由は、ミリュウ隊が身を寄せたウィレドの国アガタラが人間を信じていなかったからにほかならない。人間に国の所在地が明らかになれば、軍勢が攻め寄せてくるかもしれないという強迫観念は、ミリュウ隊がリョハンに連絡することを恐れさせた。
実際問題、ミリュウ隊からの連絡があれば、護峰侍団は即座に動いていただろう、とはアルセリア=ファナンラングの意見だ。護峰侍団は、専守防衛の戦闘集団ではあるが、状況次第ではみずから戦力を繰り出すことがある。その場合のもっとも多い理由は、皇魔の“巣”の発見であり、リョハン周辺の皇魔の“巣”は護峰侍団によって徹底的に破壊され、焼き捨てられていた。皇魔の増殖ほど、人間の世の秩序を乱すものはない――そう、だれもが考える。人間ならばだれしもだ。護峰侍団が特別皇魔を敵視しているわけではなく、むしろ、傷ついた皇魔に治療を施したエリナのほうが異様というべきであり、その点では、アルセリアにせよ、七大天侍たちにせよ、同じような反応を示した。
つまり、エリナの皇魔への治療行為およびミリュウ隊のアガタラへの干渉を愚行と見なしたのだ。理知的で視野の広そうなシヴィル=ソードウィンでさえ、その報告には眉を潜めている。いかに武装召喚術の総本山として先進的な部分の多いリョハンといえど、皇魔を理解しようなどという考えを持つには至らないのだ。
それも歴史を考えれば、当然の話だ。
人類は、五百年来、皇魔という天敵の存在によってその平穏を脅かされ続けている。都市が城壁で囲われるようになったのも皇魔が人間と見れば襲わずにはいられない怪物だからだったし、都市間の交流、国家間の交流が激減したのだって、それが原因といってよかった。皇魔さえいなければ、大分断以降の五百年の歴史は、大いに変わっただろうとは世界中の人間の共通認識だと、いう。
皇魔は人間を殺戮する。人間は皇魔を忌み嫌い、恐怖し、天敵と定めた。皇魔の繁栄など許してはならない。いや、存在さえ、認知するべきではない。斃し、殺し、滅ぼし、根絶やしにするべきである、と、だれもが考えている。老人や大人ばかりではなく、子供たちもそう想っているだろう。それほどまでに人間側の皇魔への敵愾心は強烈であり、熱狂的とさえいってよかった。
報告会の最中、シヴィルやカートが眉間に皺を寄せるのも無理のない話だったし、アルセリアが終始不機嫌だったのも、当たり前といえば当たり前の話だったのだ。たとえばここにほかの護峰侍団幹部がいたとしても、アルセリアと同じような反応を示しただろうし、護山会議の議員だとしても同じことだ。
人間は、皇魔を敵と見なしている。
皇魔にかける情けなど持ち合わすべきではない。皇魔は人類の天敵であり、滅ぼすべき邪悪なのだ。
しかし、ミリュウの報告は、そういった従来の価値観に一石を投じるものであり、シヴィルたちが渋い顔をしながらも考え込んだのは、皇魔と争いを続けることに意味を見いだせなくなりつつあったからだろう。
時代が変わった。
少なくとも、かつてこの世を支配していた三大勢力は音を立てて崩れ去った。大地もばらばらに砕け散り、かつての常識は通用しなくなってしまった。皇魔の根絶に注力していれば、神軍に付け入る隙を与えることになるかもしれない。
「協力関係は望めないでしょう」
「そうでしょうね。アガタラのウィレドたちは、戦いを嫌い、地下に逃れたといいます。リョハンと協調することはあっても、戦力としてあてにするのは無理かと」
「……戦女神様は、本気で、そのアガタラのウィレドと手を結ぶおつもりなのですか?」
「手を結ぶ、というのは少々語弊がありますね。ミリュウの報告が事実ならば、アガタラは、リョハンと事を構えることを望んではおらず、わたしたちとしても、わざわざ皇魔の国を滅ぼすために戦力を派遣したくはない」
そんなことをすれば、神軍や近隣の敵対勢力に付け入る隙を与えかねない、と、彼女は言外にいった。
神軍は二度、リョハン制圧に乗り出している。二度とも撃退することに成功したものの、それで諦めるかどうかといえば、疑問の残るところだ。三度、四度、と、投入する戦力を増加させてくる可能性は決して低くない。そういう状況にあって、皇魔の“巣”をいちいち潰して回るのは、あまりに愚かではないのか。
もし、皇魔との間に停戦協定、不可侵条約などを結ぶことができるのならば、それに越したことはないのではないか。
ミリュウの報告は、戦女神にそのように思案させるに至ったのだ。
「リョハンとて、戦力に余裕があるわけではありません。ましてや、神軍の戦力が未知数である以上、常に万全を期しておくべきだとわたしは考えています。となれば、相手が皇魔とはいえ、交渉の余地があるというのであれば、交渉を行うべきだと想うのです」
「相手は皇魔ですよ?」
「ええ、わかっています。人間と皇魔はわかりあえない。五百年来、敵対し、忌み嫌い、憎み合ってきたのです。殺し合ってきたのです。その溝はあまりに深く、広い。埋めることなどできませんし、互いに歩み寄る気も生まれないでしょう。しかし、交渉はできるはずです」
「反対するものも、多いでしょうが」
「当然です。そして、わたしはそういった意見を否定するつもりもありません。皆が納得できる結果になるよう、これから時間をかけて話し合うつもりです。それくらいの時間的猶予はあるでしょうし」
「それならば……はい」
アルセリアも、ファリアの意見に安堵の表情を見せた。ファリアは、かつて難民保護を強権発動によって強行したという事実がある。戦女神は、リョハンの支柱にして絶対の神の如き存在だ。故に戦女神の意見、意向はすべてにおいて優先される。しかし、だからといって戦女神の考えすべてを納得して受け入れられるかは別の話なのだ。実際、難民保護政策はいくつかの問題をはらんでいた上、護峰侍団に被害をもたらすなどして反発を生んだ。ファリアはそういったことからなにも学ばなかったわけではなく、だからこそ、慎重に結論を出そうというのだろう。そして、そのことにアルセリアを始め、この場にいるものたち皆、安心したのだ。
戦女神ファリア=アスラリアは、リョハンの指導者として成長を続けているのだ、と。
ミリュウの報告によって、明らかにされたのはアガタラの存在だけではない。リョハンよりも北に位置する山にもエンデというウィレドの国があるということも、判明した。そして、エンデは温厚で交渉の余地のあるアガタラとはまるで異なる主義主張を持っているということもだ。アガタラに関しては、今後、護山会議で方針を話し合うことが決まったが、エンデに関してはいずれ滅ぼさなければならない可能性が強いという結論に至っている。
とはいえ、先頃の戦いによってエンデ軍は大損害を被っており、リョハン近郊まで進出してくるようなことはしばらくあるまい。そのしばらくというのは、数年、数十年どころのはなしではなく、百年単位でありえなさそうだった。エンデは、その支柱である大君と主戦力の大半をマユリ神の神威によって滅ぼされたのだ。立て直すには、とてつもない時間がかかるだろう。そして、立て直したときには、考え方も変わっているかもしれない。
ともかくも、リョハンにとっての脅威であるふたつの皇魔の国の存在が明らかになり、それに関することでリョハンと連絡を取れなかったことについて、ミリュウは大いに反省し、戦女神に処罰を願った。彼女が自身を処断するように願ったのは、ひとつには、無断で長期間に渡ってリョハンを離れていたこともあるだろうが、離れている間、第二次防衛戦が勃発したことが大きいようだ。
ミリュウは、リョハンにおける最高戦力のひとりだった。
武装召喚師としての優れた実力は無論のこと、リョハンでも有数の実戦経験の多さとそれに裏打ちされた指揮能力の高さ、それになにより高火力高精度広範囲を兼ね備えた疑似魔法の使い手なのだ。戦女神、七大天侍を含めても、実際の戦闘能力において彼女を越えるものはいないだろう。疑似魔法は、ウィレドの強力無比な魔法を完封し、支援もこなすという万能に近い技能だ。魔法遣いとしての彼女を越えるものなど、そうはいない。
だからこそ、ミリュウは責任を感じ、戦女神に断罪を願ったのだが。
「確かにあなたの不在は、リョハンにとって辛いことでした。あなただけじゃない。エリナも、ダルクスも、ミリュウ隊の皆も、リョハンの重要な戦力ですもの。けれど、理由があってのことでしょう。そしてその理由は、エリナの優しさ、慈悲深さによるもの」
ファリアのエリナを見る目こそ、この上なく慈悲深いとセツナは想った。その場にいるだれもが、そう想ったのではないかと考えてしまうほど、彼女のまなざしは柔らかく、慈愛に満ちていた。エリナが感極まって涙を浮かべるくらいだ。
「それなのにあなたを処断すれば、エリナの優しさを踏みにじることになるわ」
「……ですが、わたしたちが無断でリョハンを離れていたのは事実。であるのにも関わらずなんの処分もくださないとなれば、戦女神の沽券に関わるのではありませんか?」
「そうかもしれないわね」
ファリアは、なおも処断を求めるミリュウの目をじっと見つめながら、肯定した。ミリュウがなぜそこまで処断を求めるのか。彼女の苛烈なまでの性格を考えれば、わからないではない。彼女としてみれば、自分が不在の間、リョハンが窮地に陥っていたという事実には、耐え難いものがあるのだ。特にファリアが苦しんでいたと知ればなおさらだ。
「でも、そんなことで揺らぐような沽券なんていらないと想うの。そんなもののためにわたしは戦女神をやっているわけじゃないもの」
「ファリア様……」
「わたしは、リョハンに生きるひとたちのために戦女神でいるのよ。そこにはあなたたちも当然、含まれているわ。あなたたちが無事に戻ってきた。それだけで、戦女神は喜ぶのよ。感激しているの。戦女神とは、そういうものよ」
ファリアが想いを込めた言葉には、皆、心を震わせたようだった。リョハンとは直接関係のないセツナですら感動したのだから、当然だろう。戦女神という立場への覚悟と矜持、そしてリョハンの民への深い愛情が込められた言葉の数々。心が震えないはずがない。
「でも、それでも処断を求めるというのなら……そうねえ。こういうのはどうかしら」
そういって戦女神が提案したミリュウへの処断は、その場にいるだれもが予想だにしないものだった。




