第二千八十七話 女神と天侍(一)
方舟は、夜のうちにリョハンへと到着した。
アガタラの大樹からリョハンまで、直線で結んだとしても馬車で数日はかかる距離だ。その距離を一時間もかけることなく移動できるのだから、やはり空中輸送というのは偉大だ。しかも、マユリによると方舟の飛行速度はさらに引き上げることができるという。大海原を船で移動するよりも安全かつ高速で移動することのできる手段を確保できたのは、セツナたちの今後にとってとてつもなく大きな出来事だった。
(まあ、マユリは信用できないが)
移動中、ミリュウやエリナ、アスラに囲まれて会話を弾ませるマユリ神の楽しそうな様子を見ていると、一概にそうとも言い切れなくなってはいるのだが、女神がミリュウたちと仲良くしているからといって信用するのは少しばかり早計だろう。セツナは、マユラを悪神の一種だと想っている。マユラが直接セツナに害をもたらそうとしたという事実があり、最終戦争真っ只中、セツナを嘲笑うためだけに現れたという現実がある。身体を同じくするマユリが、マユラの影響を一切受けていないとは、考えにくいのだ。
とはいえ、マリクが信用に値すると判断したのも事実だ。ルウファの話を聞く限り、リョハンの守護神はマユリ神と長時間に及ぶ話し合いを行い、その上で、女神を信用するという判定を下したというのだ。マリクは、疑うまでもなくセツナたちの味方だ。いまは、彼の判断を信じるしかなかった。
方舟はリョフ山頂、つまり空中都の一角に接舷すると、甲板の柵を橋のように伸ばした。セツナたちはその橋を足場にして移動し、空中都に帰り着いたのだ。
方舟の接舷地点には、護峰侍団の武装召喚師たちが集まっていて、ミリュウ隊の帰還を確認すると声を上げて喜んだ。皆、ミリュウ隊が消息不明のまま、あまりにも時間が経過していたため、生存を半ば諦めていたのかもしれない。
ミリュウ隊の隊士たちが同僚たちに駆け寄るのを眺めていると、その隊を率いていたらしい護峰侍団の隊長格らしき人物がセツナたちに歩み寄ってきた。女だ。気の強そうな顔立ちとキビキビした所作、周囲の隊士たちの緊張ぶりから、彼女のひととなりの一部が垣間見える。長い前髪で右目を隠しているのだが、顕になった左目の鋭さは、熟練の武装召喚師であることを想起させるのに十分過ぎた。鍛え上げられた体には護峰侍団の制服を纏っている。
四番隊長アルセリア=ファナンラング。
「護山義侍殿、アスラ様、捜索任務が成功したこと、心よりの御礼と感謝を申し上げます。戦女神様も七大天侍の皆様方も、我々も、この日をどれだけ待ちわびていたことか。そしてミリュウ様、ミリュウ隊の皆との無事の帰還、護峰侍団を代表してお喜び申し上げます」
「感謝は受け取るが、感謝されるほどのことじゃないよ。俺は俺のためにミリュウとエリナの無事を確認したかったんだ」
「だって」
「お兄ちゃん……」
嬉しそうにセツナの腕を掴んで離さないミリュウと感極まった声を上げるエリナのふたりに囲まれたまま、セツナは、アルセリアが驚くのを見逃さなかった。どうやらミリュウの様子に驚いているようなのだが、その理由は想像がつく。アスラの言葉だ。アスラは、ミリュウが変わった、といった。実際には、セツナの不在を乗り切るために自分を偽っていた、という面が強かったようだが、その偽りの仮面がリョハンにおけるミリュウ=リヴァイアの人物像になっていたはずだ。セツナの腕に縋り付いて終始にやけっぱなしの彼女を見れば、驚くのも無理のない話だった。
「ま、ミリュウ殿には長らくリョハンと連絡すら取らなかったことの説明責任を果たしてもらわなけりゃならんし、それは俺とは無関係の話だがな」
セツナが至極当然のことをいうと、ミリュウが掴んでいたセツナの腕を離した。
「ちょっ……」
「なんだ?」
「無関係ってどういうことよ!?」
「当たり前の話だろ」
噛み付きそうなくらいの剣幕のミリュウにわざとらしく涼しい顔をして見せ、セツナは告げた。
「ミリュウ隊がなぜ長期に渡って消息を絶っていたのか、なんてこと、俺が知ったことかよ」
「なんでよー」
「その反応こそおかしいだろうが」
「えー、だって、あたしのことよ?」
ミリュウが困ったような顔をして、自分を指差す。その挙措動作のどれをとっても年齢を感じさせないくらい可憐であり、つい頭をなでてやりたくなるのだが、こらえる。
「うん」
「あなたの愛しいミリュウのことなのに」
「愛しかろうとなんだろうと、それはそれだろ」
「うう……愛しいのは否定しないのね。好き」
「師匠……」
「え、えーと……」
「こんな真夜中だ。ちょっとおかしくなってんだよ」
「は、はあ……」
納得していいものかどうかわからないとでもいいたげなアルセリアの微妙な表情を見て、セツナは肩を竦めた。満足げなミリュウとそんな彼女を眺めるアスラ、エリナのどこか羨ましそうなまなざしは、いつものことではあった。
ともかくもリョハンの空中都に帰り着いたセツナたちは、アルセリアらに引き連れられて空中都の中心部へ足を向けた。
空中都は、どこまでいっても静寂に包まれていた。
頭上には満天の星空があり、春の訪れを微塵も感じさせない寒さがセツナ一行を包み込んでいる。それはそうだろう。真夜中だ。誰もが寝静まるような時間帯であり、アルセリアたちが出迎えに来てくれただけでもありがたいと感謝しなければならなかった。アルセリアたちが防寒着を用意して待っていてくれたからこそ、セツナたちはなんの不自由もなく、寒空の下を歩くことができたのだ。
セツナ一行のうち、ミリュウ隊の隊士および御者は、アルセリアの部下に連れられ、護峰侍団の施設へ行った。ミリュウ隊の隊士は皆、アルセリア率いる四番隊に所属しており、周辺領域調査任務時以外は、アルセリアの指揮下にあるという話だ。つまり、本来あるべき場所に帰っていったということだ。
残されたセツナたちはというと、帰還の報告と消息不明の理由およびアガタラでの出来事を説明するべく、戦女神の待つ戦宮に向かうことになった。アルセリアの提案だが、セツナもミリュウも最初は否定的にならざるをえなかった。真夜中だ。いくらセツナたちが無事に帰還したからといって、眠っているはずの戦女神を叩き起こすのは無礼も甚だしい。そう、セツナたちは考えたのだが、アルセリアによれば、戦女神はセツナたちが空中都に向かっているという報せが入ってからというもの、戦宮で待ち続けているということであり、むしろ、戦宮に報告にいかないほうが失礼に当たるとの話だった。
その空中都への帰還を報せたのは、どうやらマユリ神らしい。
マユリ神は、いうまでもなく神だ。人間とは比べ物にならない力を持ち、魔法をも超越した御業を用いることができる。方舟を浮かせることもできれば、数千の皇魔を一瞬にして焼き払うことだって容易い。マユリ神の半身とでもいうべきマユラ神は、その絶大かつ圧倒的な力でもって地平の果てまで薙ぎ払ったことがある。それほどの力を持った神ならば、遠距離の対象と念話することくらい容易いのだ。もっとも、マユリ神によれば、人間のような微弱な精神力の持ち主と念話するには、ある程度の近距離でなければならず、遠距離念話が可能な相手は限られているとのことだ。彼女が空中都のだれに念話を送ったのか、その説明でわからないはずがない。
マリクだろう。
マリクも、神だ。神という絶大な精神力の持ち主ならば、遠距離念話も余裕に行えるはずだ。そして、マユリから報せを受け取ったマリクは、すかさずファリアに報告した。ファリアがマリクからの念話に跳ね起きる様は、容易く想像できた。それから、ミリュウたちの帰還を心待ちにしているだろうことも。
戦宮に辿り着くと、門番を務める護峰侍団の武装召喚師たちが、アルセリアの姿を見て緊張感を漲らせ、敬礼した。さらにミリュウ、アスラと七大天侍が続くものだから、彼らの緊張感は極致に達したようだった。リョハンの救世主であるセツナ自身もまた、彼らの緊張感を煽っただろうことはいうまでもない。
ファリアは、戦宮の中心、中庭であるとことの戦神の座にいた。七大天侍のうち、シヴィル=ソードウィン、カート=タリスマの二名が彼女の護衛として側に立っている。戦神の座の四隅に置かれた魔晶灯の光が、彼女たちを淡く照らしていた。三人が三人、分厚い防寒着を着込んでいるのは、戦宮が寒さ対策などなにひとつしていない建物だからであるのとともに、空中都がひたすらに寒い場所だからだ。ヴァシュタリア最高峰の峻険リョフ山の頂に位置する空中都の冬は、ひとの住むべき環境ではないくらいに寒いのだ。それでもリョハンのひとびとは空中都での生活を何百年も続けているのだから、慣れというのは凄まじい、というべきか。
「おかえりなさい」
ファリアは、セツナたちに気づくなり、そういって迎えてくれた。
「無事に帰ってきてくれてよかったわ、ミリュウ、それにエリナも……怪我ひとつなさそうで……」
「ああっ、ファリア! ただいまー!」
ファリアに駆け寄ったミリュウの野放図なまでにあっけらかんとした挨拶には、セツナも口をあんぐりと開けざるをえない。ファリアが朗らかに微笑み、彼女を抱擁する。立場もなにもあったものではないが、公的な場ではない以上、どうでもいいことなのかもしれない。
「うふふ、なんの心配もいらなかったみたいね」
「あったりまえじゃない!」
「本当……良かったわ」
「ううん。そういいたいのはこっちよ。ファリアこそ、無事でよかった」
そういって力強く抱き締め合うファリアとミリュウの間には、この二年あまりの間に築き上げられた信頼関係が見えるようだった。セツナがいない間、ふたりがどれだけの気苦労をして、分かち合ったのか、彼には想像もできなかったし、自分がいないことの不安や負担がどのようなものだったのかさえわからなかった。だからといって、そのことに向き合わないわけではない。向き合うための時間はあるはずだ。
ふたりが抱擁を終えると、エリナがファリアの前に駆け寄った。思い切り頭を下げる。
「ファリア様、只今戻ってまいりました。お騒がせして、申し訳ありません!」
「エリナが謝ることじゃないわ。全部、あたしの責任よ。この一連の出来事に関するすべてね」
「師匠、でも……」
「なに、ミリュウ隊の指揮官はあなただったの?」
ミリュウがエリナの顔を覗き込むと、エリナがたじろいだ。
「そ、そういうことじゃなくて」
「ふふ、わかってるわ。あなた、責任感強いものね。でも、隊の行動方針を決めるのはあたし。あなたの勝手で隊が動くことなんてありえないし、ましてやこの数十日、リョハンと連絡を取れない状況を甘んじて受け入れることなんであるはずもないわ。全部、あたしが決めたことよ」
「ミリュウ。なにがあったのか、話してくれるわね?」
「もちろんです、戦女神様」
ミリュウがいつになく畏まった様子で応えたのは、七大天侍としての責任を果たすためだろう。そういうときまでおちゃらけていられるほど、彼女は子供ではない。
冷え切った世界で、ミリュウによる説明と報告が行われ、ファリアたちを大いに驚かせた。




