第二千八十六話 希望女神
「な、なに?」
船体が激しく揺れているにも関わらず、自分たちがまったくもって無事なことに違和感を覚えたのか、ミリュウがセツナの腕をぎゅっと掴んだ。空いていた左腕にしがみついたのは、エリナだ。彼女も突然の異変に驚いたらしい。
《船を浮かせたのだ。わたしの必要性を理解させるためにな》
マユリが面白がったのは、ミリュウとエリナの反応だろう。マユリは、退屈を紛らわせることを主眼に置いて行動しているようなのだ。
「船を浮かせて、どこへ向かう?」
《リョハンだよ。それがおまえたちの希望だろう? それとも、何十日もかけて地上を歩くほうが良かったか?》
「そんなことはないけど」
「別に何十日もかけずに済む方法ならあるが……まあ、このほうが楽ではあるな」
《だろう。これがわたしの恩恵だ》
「ありがたいこって」
セツナが適当に相槌を打つと、マユリは、可憐な少女の容姿を思う存分利用するかのようにはにかんできた。
《ふふ……もっと褒め称えてくれてもよいのだぞ。わたしはおまえたちの希望なのだからな》
「……あんたを信用したわけじゃないっての」
《いますぐに信用せよ、などと都合のいいことはいわぬ。されど、おまえたちにはわたしが必要なはずだ。わたしがいなければこの船は使えないのだからな》
「神様にしか動かせないってことか」
想像通りではあった。
船体から出現していた光の翼は、すべて神威の塊だった。光の翼がどういう原理で発生しているのかは不明だが、神威――つまり神の力と方舟の飛行能力が無関係ではないという証左ではないか。
《なんでも神威を動力としているそうだ。神の力を動力とする空飛ぶ船を作るとは、人間とはなんとも傲慢な生き物よ。そうは思わぬか》
「神様自体傲慢なんだから、構いやしねえだろ」
《……そういう考え方もあるか》
なにやら納得したような顔をしたマユリに、セツナはむしろ困惑を覚えた。マユリとは、意思疎通があまりうまくいっていない感じがある。
「神様にしか動かせないみたいですけど、神様ならマリク様がいますよ?」
セツナとミリュウにのみ聞こえるように囁いてきたのはエリナだ。その意見の意味するとこはこういうことだ。信用できるかもわからない神に頼るよりは、信頼の置けるマリクに頼るべきだ、といいたいのだ。エリナらしい素直な考え方ではあった。
「マリク様はリョハンを離れるわけにはいかないでしょ」
《故にマリクもわたしに助力を願い出たのだよ》
予想だにしないマユリの発言は、エリナの囁き声がはっきりと届いていたことの証明だった。しかし、驚くようなことではない。召喚武装を手にしただけで増大する人間の聴覚などよりも遥かに優れた感覚を持つのが神なのだ。驚くべきは、女神の発言内容そのものだ。
「マリクがあんたに頭を下げたってのか?」
《ああ。なあ、ルウファ》
「え、ええ。それは事実です。ですから、安心して乗っていられるんですけど」
ルウファがどぎまぎしながらいったのは、水晶球に座り直したマユリがその細い足の爪先で彼の頬を撫でるようにしたからだ。もっとも、肉体を持たざる神の爪先がルウファの頬に触れることはなく、彼はその行動そのものに狼狽したのだろう。
マユリの一挙手一投足は、神様とは思えぬものであり、行儀作法もなにもあったものではないが、むしろ、神様だからこそ礼節にかけていると考えるべきなのかもしれないと想い直す。人間は、社会を構成する上で礼儀作法を必要とし、子供の頃から叩き込まれる。が、生まれながら人間の上に立つ存在である神が礼儀作法など教わるはずもないのだ。
「むう……マリク様が、ねえ……」
「マリクが信用したのか……」
《なんだ? なにか疑問でもあるか?》
マユリが水晶球の上にあぐらをかき、小首を傾げた。頭部に身に着けたきらびやかな宝飾品が漆黒の髪とともに揺れる。
「疑問だらけだよ。あんたのどこを信用しろってんだか」
《先もいったが、最初から信用しろ、などとはいわぬ。信頼とは、一朝一夕に築き上げられるものではないだろう。それを一番よく知っているのがおまえたち人間ではないのか》
「……むう」
そういわれれば、ぐうの音も出ない。
確かにマユリのいうとおりだと考えざるを得まい。信頼とは、様々な積み重ねがあって初めて形になるものだ。出会って早々、信頼できるかどうかを判断するのは早計だろう。マユリがマユラとまったく異なる考えで動いているのかどうかを確かめるのも、信頼同様、一朝一夕にできるものではあるまい。
とはいえ、マユリの背後で眠る神マユラのことがある。マユリは、マリクが信用したほどの神かもしれないが、マユラはそうではあるまい。
「つまりあんたは、これから俺たちと信頼関係を構築する気があるっていうんだな?」
《そういっている。わたしは希望。この滅びに瀕した世界で、絶望に抗わんとするおまえに手を差し伸べるのは、至極当然のことだ。摂理と言い換えてもいい》
「……後ろのやつは、そんなこと考えてもいなさそうだが」
セツナが半眼になって告げると、マユリも目を細め、背後を一瞥した。マユリと胴体を同じにするもう一柱の神は、目を閉じ、眠り続けているように見える。マユラが覚醒中、マユリが眠り続けていたようにだ。つまりこの神々は、ふたつでひとつの神と考えていいのだろう。どちらかが眠っている間はどちらかが覚醒している、ということだ。
《あれも、おまえに手を貸すこと自体は否定しないだろう。あれもおまえの行き着く先には興味があるはずだ。たとえそれが絶望的な末路だったとしても、な》
「だから、セツナはあたしが幸福にするっていってるでしょ!」
「わたしもいます!」
「では、わたくしはお姉様を幸せにいたしましょうか」
「あら、ありがと。じゃあ、あたしとセツナの幸福な日々のために協力してくれるわよね」
「当然ですわ」
「うふふ、さすがはあたしの妹ね」
「お姉様……」
ミリュウたちの突拍子もないというか話の腰を徹底的に破壊するようなやり取りに憮然としていると、マユリは、むしろ面白おかしそうに頬を緩めた。退屈しのぎには、ぴったりかもしれない。
《……確かに、おまえは幸せものだ。おまえを想う女たちがいるかぎり、おまえが不幸に堕ちることはないだろう。だが、絶望と不幸はまったく別のものだ。おまえは己の運命を知っているか? セツナ=カミヤ》
マユリはあぐらを解くと、水晶球の上から跳躍し、ルウファの目の前に降り立った。重力を完全に無視した悠然たる着地は物音ひとつ立たない。ルウファがびくりとしたのは、マユラのほうの顔がちょうど彼の目の前に位置したからに違いない。
《魔王の杖の担い手よ》
「俺の運命?」
セツナは、きょとんとした。そして、せせら笑う。
「んなもん、他人が勝手に決めることじゃあねえだろ。俺の運命は俺が決める。俺は俺だ。ほかのだれでもない。俺なんだよ」
《ふふ。案ずるな。わたしはおまえの味方だ、セツナ。わたしがおまえに希望を与えよう。わたしそのものが希望となって、おまえに光明を見せようというのだ。わたしは、そのためにここにいるといっても過言ではないのだからな》
「希望希望希望希望……それしかいえねえのかよ」
《それがもっともおまえの必要としているものだろう。呪われしものセツナよ》
マユリは、ゆったりとした足取りで近づいてくると、セツナの顔に触れようと腕のひとつを伸ばしてきた。しかし、ミリュウの腕がそれを払おうとする。もちろん、実体を伴わない神の腕を通過しただけだが、ミリュウは気にした様子もない。
「あんたねえ、さっきからセツナのこと好き放題言い過ぎよ! あたしたちの信頼を勝ち取りたいなら、少しくらい自重なさい!」
「あ、あの、師匠、マユリ様も神様ですよ……?」
「神様だからなんだってーのよ! マリク様ならともかく、どこの馬の骨ともわかんない神様を敬う理由なんてあるわけないでしょ!」
「で、でも……」
ミリュウの物凄まじい剣幕に、エリナは困り果てながらも宥めようと必死だった。エリナにしてみれば、ミリュウにもしものことがあってはいけないという思いがあるのだろう。ミリュウには、自分のことよりもセツナのことを優先するきらいがある。もちろん、自分がセツナとともに幸福を掴むに越したことはないが、彼女の置かれている境遇は、彼女にある種の諦観を覚えさせているようだった。それを理解しているのは、セツナくらいのものではないか。
とはいえ、エリナの気持ちもわからないではない。セツナもミリュウをなだめようとしたそのときだった。
《道理ではあるな。それに、おまえのいいたいこともわからないではない。わかった。セツナをからかうのもここまでにしよう》
「……偉くあっさり引き下がったわね」
「からかってたのかよ」
《そう怒るな。久々に人間と話をして、少しばかり調子に乗ってしまっただけだ》
「神様なのに?」
《神属にも、人間を天上より見下すだけのものもいれば、人間との会話、触れ合いを好むものもいるという程度の話だ》
「ふうん……寂しがり屋なんだ?」
ミリュウがセツナの腕を抱きしめたまま、マユリの顔を覗き込むようにした。マユリがミリュウの急接近にたじろいだのは、予期せぬ反応だったからだろう。
《……そういうことにしておいてもいい》
「そうなのね。わかったわ、話し相手になってあげるから、ちゃんということを聞くのよ?」
《……む?》
「なに? 文句あるわけ?」
《いや……特にはないが、なにか釈然としないような……》
ミリュウの当然のような物言いと、マユリの不承不承といった様子の反応を見て、セツナは、ミリュウの底知れなさを思い知ったような気分になった。エリナとアスラがそれぞれに感嘆の声をあげる。
「師匠、凄い。神様も手玉に取っちゃうなんて」
「さすがはお姉様!」
「いやまあ、確かにそうかもしれんが……」
「でしょでしょ! あたしに任せておけば、こんなもんよ!」
(なんつーか、マユリが世間知らずなだけなんじゃねえかなあ)
などと想いつつ視線を巡らせると、マユリの背後で困惑気味のルウファや、ミリュウの言動に肩を竦めるダルクスなど、様々な反応が見て取れた。ミリュウ隊の隊士たちは、一様にミリュウの度胸に度肝を抜かれているといった様子だった。
セツナも、絶大な力を持った神属を相手に物怖じひとつしないミリュウの度胸というか、感性には、言葉を失うしかなかった。