第二千八十五話 その名は希望
「……本人ねえ」
《そう嫌そうな顔をするものでもなかろう?》
神は、透き通るような聲を頭の中に響かせた。
水晶球に腰を下ろし、ルウファの首を足で挟んでいるのは、少女染みた外見の神だった。いうなれば女神だ。体格は華奢といってよく、身の丈もエリナほどといっていいくらいだ。しなやかな肢体は女性特有のものといってよく、豊かな胸の膨らみも腰から臀部にかけての曲線もしっかりとあった。薄衣を何枚も重ね合わせたような装束にはきらびやかな刺繍が入っていて、その神々しさをより高める効果があるようだった。容貌もまた、美しい。美しいという言葉が氾濫してしまいかねないほどに、神の容姿というのは一様に美しいものであるらしい。なればこそひとびとの信仰を集めることができるというものなのだろうが、それにしても、出会う神出会う神、異なる美しさを持っているのだから、なんともいいようがない。アシュトラでさえ、美貌といっていい容姿をしていたものだ。
水晶球に座した女神は、神々しいまでの美しさと少女のような可憐さを奇跡的な比率で融合させたような容姿を持っている。深いまつげに縁取られた両目は、金色の虹彩を持ち、柔らかな光を発している。少女染みた外見はただそれだけならば特筆するべきものではなかったが、問題は、その異様といっていい全体像だった。
《別段、見知らぬ間柄ではないのだから》
そういって柔らかに微笑む女神の背後には、まるでもう一柱の神が座っているかのように見知った神の頭部があった。意識がないのか、その神は目を閉ざし、頭を垂れている。首は、女神と同じ胴体から生えていて、腕も四本あることがわかる。そうそうの姿は、かつて、クルセルク戦争の折、オリアス=リヴァイアによって召喚された巨鬼、その内部から現れた神マユラそのものだった。
ミリュウがセツナの腕に縋り付いた格好のまま、眉根を寄せた。
「腕が四つって、気持ち悪っ」
ミリュウの言葉にびくりと反応したのは、ルウファだ。
「ミリュウさん、言葉遣いに気をつけてくださいよー」
「なんでよ!」
「なんでって……っていうか、なんでそんなに毛嫌いしてるんですか」
「セツナに馴れ馴れしいからに決まってるでしょ!」
「あー……」
ミリュウの剣幕の凄まじさに、ルウファが納得したような、それでいて諦めにも似たような顔になった。セツナのこととなると暴走しがちなのがミリュウの欠点であり、そうなるとセツナ以外のだれにも諌められないということを理解しているからだ。マユラの足の指先がそんなルウファの頬を撫でるように擦り抜け、頭上、水晶球の上へと移動する。女神はそのままあぐらを組むと、ミリュウを面白そうに見やった。
《ふふ……わたしがセツナと知り合いだということがそんなに気に食わぬか?》
「あったりまえでしょ! あんたなにものよ、いったいセツナのなにを知ってるっていうの!?」
「ミリュウ、抑えてくれ。俺はあいつと口論をしにきたわけじゃない。それにあいつは、一応、俺たちに協力してくれたんだ」
「そりゃあそうだけど……」
セツナは、まだなにか言い足りないといった様子のミリュウの頭を撫でることで、彼女の意気を消沈させた。
《ふふふ、中々に愉快な連中だ。これはしばらく退屈せずに済みそうだ》
女神は、心の底から愉しそう笑っていた。無論、セツナは愉しくもなんともない。
「あんた……マユラだな」
《それはあれの名だ。わたしの名はマユリという》
女神が背後の頭を指差して、告げてきた。マユラとマユリ。同じような名前だ。
「前後で名前が違うのか」
《名も違えば、役割も違う。わたしはあれのように、おまえをいじめたりはせぬ。安心せよ》
と、上から目線でいってきた言葉を素直に受け取るほど、セツナも純粋ではなかった。警戒心をさらに強めたのは、本当にマユリとマユラが同一の存在ではないとは言い切れないからだ。むしろ、この程度の情報で別の意識、自我を持っていると確信できるほうがおかしい。
「マユラってさ、クルセルクで遭遇した神様のことよね?」
「そうだ。最終戦争の最中にも現れやがった」
そして、セツナを煽るだけ煽って消えたことは、いまも覚えている。
マユリがセツナに対し同情的な表情を浮かべてきたのは、どういうわけなのか。自分がマユラとは違う価値観の持ち主であるということを伝えるためか、それともほかになにか理由があるのか。
《あれは……ひとびとを絶望より救うために顕現した神。だが、あれの成す救済は、極端に過ぎる。セツナ。かつてあれがおまえを殺そうとしたのも、それがおまえを苦しみから解放する唯一無二の手段と信じたからだ》
「ありがた迷惑極まりないな」
「本当よ! それになによその言い方! まるで生きている限り苦しみ続けなきゃいけないみたいじゃない!」
ミリュウが噛み付くと、マユリは涼しい顔をした。告げてくる。
《そういっているのだ》
「なっ……!?」
《だれしもひとは、生きる上で苦しみを負う。その苦しみから逃れる方法は、喜びを見つけることだ。希望を見出すことだ。しかし、喜びも希望もない人生ならば、どうなる。人生は苦しみに満ちた海のようなものとなり、どこまでも進もうと果てることのない無明長夜が続く。それは絶望そのものだ》
つまり、セツナの人生は絶望そのものである、とマユリもマユラもいいたいのだろうが。
《なればこそ、あれは、マユラはセツナを救うべく、死を与えんとした。だが、セツナは死なず、生きてここまで歩んできた。数多の苦しみを乗り越え、な》
「あんたは違うっていうのか? 後ろのやつと」
《あれが絶望より救うことを使命とするならば、わたしは希望を与えることが使命。故にわたしはこの船の動力となることを承認したのだ》
「方舟の動力……」
ルウファに視線を移す。
「そ、そうなんですよ。方舟の調査をしていたらですね、中でマユリ様と遭遇しまして。そうしたら、船の動かし方もなにもかも理解しているっていうじゃないですか。だからダメ元で協力を要請したら、受諾してくださったんですよね」
《ルウファは愛らしい上、常に懸命だ。一目で気に入ったぞ》
「そ、そうか」
「……神様に惚れられた気分はどう?」
「え、えーと……」
ミリュウに半眼で見据えられて、ルウファもなんと答えたらいいのか困惑したようだった。そんなルウファの様子を見て、女神はくくと笑う。
《なに、取って食ったりはせぬ。安心せよ》
「安心なんてできるかよ」
セツナが吐き捨てると、ミリュウが同調した。
「そうよ、あんたとマユラのなにが違うってのよ!」
《散々いったつもりだが……いってもわからぬか。だが、口論するつもりはないぞ。わたしはおまえたちの希望なのだからな》
「希望だって?」
セツナは、改めてマユリを見つめ、睨んだ。神々しい光を放つ少女神は、球体の上に立ち、こちらを見下ろしている。双眸からは超然たる金色の光が満ち、神秘的な力が奔流となって場を満たした。神威。神の力。神の毒気。だが、その力がセツナたちに害意を持っていないことは、触れただけでわかるのだ。柔らかく、身も心も優しく包み込むような、そんな力。ルウファがマユリに警戒していない理由が、少しわかった気がした。
マユリには、害意がないのだ。善意しかないと言い換えてもいい。あらゆる行動がそこに帰結している。少しでも悪意があれば、ルウファが反応しないはずはないし、リョハンの守護神たるマリクがなにもしないはずがないのだ。
《そう。わたしの名は希望。おまえたちがこの世を救うつもりであれば、天翔ける翼は必要だろう。わたしがおまえたちの翼になってやろうというのだ》
マユリの発した神威に反応するようにして、彼女の足元の球体が光を帯びた。そして、その発光現象は室内の床や壁に伝播していき、船体そのものが激しく揺れた。だが、その振動がセツナたちを転倒させるようなことはなく、そのことが違和感を覚えさせるのだ。船は揺れているというのに、セツナたちには一切振動が伝わってこない。奇妙な感覚の中、マユリが告げてきた。
《この方舟を用いて、な》
その言葉によって、方舟が地上を離れ始めたのだということを理解した。