第二千八十二話 エリナ
馬鹿げたこととは、いわない。
いわないが、潔しとも思わなかった。彼は、セツナとの間に横たわる絶望的なまでの実力差を理解しているはずだ。理解していながら、戦いを挑むというのは死ににいくようなものであり、殺されることを覚悟した上で、一矢でも報いようという想いの現れだった。そんなことを褒め称えるつもりもなかった。が、想いを踏みにじるつもりはない。
彼には彼の考えがあり、その考えの終着点としてのけじめの付け方が、それだったのだ。
黒き矛の柄より伝わる冷ややかさが思考を凍てつかせるかのようであり、明瞭化した意識の中、きわめて緩慢な世界が見えた。二君子が驚きとともにセルクを抑えようと魔法を発するのがわかったが、セルクが動くのは、それよりさらに速い。一瞬にして、セツナの懐まで飛び込んできている。遠隔攻撃魔法が通じないのであれば、至近距離から魔法を叩き込み、それによってセツナに手傷のひとつでも負わせようというのだろう。が、セツナは、そういったセルクの思惑さえ見切っている。セルクの攻撃は、セツナには届かない。
なぜならば。
「だめええええええええ!」
哀しみに満ちた叫び声とともに下方から吹き抜けた一陣の風が、物理的な質量となってセツナの眼前へと到達する。栗色の髪が揺れ、視界を彩る。淡い光の文字に包まれた少女の背中。華奢に見えてしっかりと鍛えられていることの証明が、その両腕を広げ、セルクの前に立ちはだかる姿にあった。ミリュウに弟子入りして以来、一日も欠かすことなく修練を続けてきたのだ。一人前とはいいがたくとも、立派な体つきになっているのは当然だった。
エリナだ。
セルクは、セツナに向かって叩きつけようとしていた右手をエリナの眼前で止めた。その顔には驚きが刻まれていたが、すぐさま苦々しいものへと変わる。
「邪魔を……してくださるな……!」
喉の奥から絞り出すような声だった。彼にとって、エリナは命の恩人だという話であり、いまもなおエリナに恩義を感じている彼にしてみれば、彼女を魔法攻撃に巻き込むようなことなどできることではないのだろう。セツナを殺したくて震える手を見れば、彼が冷静さを失っていないこともわかる。つまり、彼が大君の敵討ちのために動いたのも、理性的な判断だということだ。理性的に考えに考え抜いた末、それでも抑えきれない感情が爆発したのだろう。
「します!」
「エリナ殿……!」
「お兄ちゃんは、わたしの大切なひとなんです! どんな理由があっても殺させません!」
エリナの表情は、セツナからは見えない。しかし、いつも明るく楽しいことばかり考えているような彼女が、強く己の感情を打ち出しているところを見れば、なんとはなしに想像がつく。
エリナがどうやってこの高度まで飛んできたのかは、簡単に想像がつく。ミリュウだ。ミリュウのラヴァーソウルは、磁力を操る魔法の刀なのだ。引力によって引き寄せ合うことも、斥力によって対象を弾き飛ばすこともお手の物であり、故に彼女の攻撃範囲は見た目以上に広いのもそのためだ。それから彼女が滞空し続けているのも、ラヴァーソウルの能力だろう。ラヴァーソウルの刃片を用いた疑似魔法が、エリナを包み込んでいるのだ。
「エリナ殿……それは、我も同じこと。我にとっては、大君はこの上なく大切な方だった。我の命よりも重要な……! 故に我は、大君を討ったその人間を討ち果たさねばならぬのです……!」
セルクは、全身を震わせながら、エリナの説得を試みていた。義理堅い彼には、大恩人であるエリナを手に掛けることなどできないのだろう。その義理堅さは、彼の大君への忠誠心の高さにも通じるところがある。故にこそ彼は、セツナへの復讐を果たさねばならない。
「だったら、わたしを殺してください!」
「なにを馬鹿な……!」
「お兄ちゃんが大君様を手に掛けたのは、大君様の白化症が進行してしまったからです。わたしにもっと力があれば、わたしとフォースフェザーに白化症を治療する力さえあれば、大君様は苦しむ必要もなかった……!」
「……白化症の治療法は存在しないと聞いております。エリナ殿のせいでは、ありますまい……」
「でも……!」
「そうだよ、エリナ。君はなにも悪くない」
「お兄ちゃん……」
「大君を殺したのは、俺だ。その事実に変わりはない。たとえあのとき、大君に大君自身の意識も自我も残っていなかったとしても、その存在をこの世から消し去ったのは俺なんだ。恨んでくれて構わない。許してもらおうとも思わない。俺はやらなきゃならないことをやっただけだからな」
だから、自責の念に駆られるということもない。
セツナは、胸を張って、告げた。マルガ=アスル本人や彼の臣民の気持ちもわからないではないし、同情の余地はある。しかし、だからといって自分のしたことが間違いだったとは思わなかったし、そう考えることが彼らのためになるとも思えないのだ。それはただの事実の歪曲であり、欺瞞にすぎない。
あのときは、ああする以外に方法はなく、最善手を取ったつもりだ。
「エリナ。君もまた、やれることをやり抜いたんだ。自分を責めるな。ミリュウも君を最高の弟子と褒めていたぞ」
「でも、でも……」
「納得できない、って気持ちもわからなくはないさ。そのことを胸に、これからも精進し続ければいい。そしていつの日か、今日の自分を乗り越えるんだ。だれだって、そうやって前に進んでいる」
「お兄ちゃんも?」
「ああ。俺も、そうやって、ここに立っている」
失敗と過ちを繰り返し、乗り越えながら、前に進んできたつもりだった。
「それで、どうする。あんたは俺を殺したくてたまらないはずだ。いや、あんただけじゃない。この場にいるアガタラのウィレドは皆、俺を憎んでいる。憎んで憎んで、憎みきっている」
それは、そうだろう。
彼らにとって大君マルガ=アスルは、地底世界の闇を照らす太陽そのものだった。どんな理由があれ、その光を奪ったものを許すことなどできるわけもない。事実、セツナに憎悪のまなざしを向けるウィレドは、セルクだけではなかった。二君子は、強い理性とセルクの説得によって感情を制御しているようだが、いつ爆発してもおかしくはないとセツナは見ていた。それほどまでに、アガタラの国民にとって大君の存在は大きかったのだ。
「だめだよ……」
「エリナ」
「お兄ちゃんも、煽るようなことはいっちゃだめ。これ以上の戦い、本当に必要なの?」
「……いや」
セツナは、きらめく彼女の瞳を見つめながら、頭を振った。彼女を悲しませるようなことはしたくはなかった。
「俺は、もうこれ以上戦うつもりはないよ」
エリナが、ほっとしたようにうなずく。そして彼女はセルクに向き直った。
「セルクさん……」
「我は……しかし、しかし……」
怒りに震える手を拳に変えて、それでも収まりの付かない感情をどうすればいいのか、と彼は考えあぐねている様子だった。苦悶の表情、反応は、彼が復讐に身を委ねることが必ずしも正しいことではないと想っていることの証明にほかならない。冷静なのだ。冷静に、感情論であると、理解しているようだった。だから、彼はエリナを攻撃しなかったし、エリナの声に耳を傾けようという意志が働いている。
そんな迷いの中を漂う彼の肩にメルグの細長い手が触れた。
「セルク。もう、いいでしょう」
「メルグ……」
「……彼は、セツナ殿は、見方を変えればアガタラも大君も救ったといえるのでは、ありませんか」
「大君を救った……だと?」
「ええ」
メルグ=オセルは、セルクの疑問に満ちた声に大真面目にうなずいてみせた。さっきとはまるで立場が逆転したかのように、諭すような口調で続ける。
「大君マルガ=アスルは、あなたもいったように、アガタラの国民を心の底から愛しておられました。そのことは、だれもが知っているはず。故に我々はマルガ=アスルの敵討ちをしなければならなかった。しかし、考えても見てください。大君は、みずからの手で臣民の命を奪うようなことを喜んで行うとお思いですか?」
「馬鹿な。マルガ=アスルがそのような愚考に至るわけがない」
「でしょう。我らが太陽たるマルガ=アスルが、その光によって育まれてきた命をみずからの手で積み上げようなどとするはずがない」
「だが、マルガ=アスルは、デルクら御側衆のみならず、近づいたすべてのものを有無を言わさず殺戮した。そこにマルガ=アスルの意志などあろうはずがない。それは、貴様もわかるだろう。セルクよ」
サルグがメルグから話を次ぐようにして、いった。彼も決して愚かではないということだろう。彼にせよメルグにせよ、セツナとの戦いに全霊を注いだのは、そうしなければやっていられなかったからだ。
「……ああ」
「大君の意識は、既に失われていたのでしょう。彼が滅ぼしたのは、大君ではなく、大君の肉体に宿った別の意志、別の存在であると考えるべきなのではないですか? そして、彼は、マルガ=アスルの肉体によるアガタラ臣民の殺戮という大惨事を止めてくれたのだと、考えられませんか?」
「メルグのいうとおりだな。冷静になって考えてみれば、大君が、己が手で臣民を殺して回るようなことを喜ぶはずがないのだ。もし、大君の意識がわずかでも残っていたとしても、セツナ殿を恨みはしなかっただろう」
「……むしろ、感謝した。か」
「うむ」
「そう考えるのが妥当でしょう」
「……そうか」
セルクは、二君子の説得を受けて、深くゆっくりと息を吐いた。すると、彼の体の震えが収まっていった。怒りの感情は、決して消え去ったわけではあるまい。そんな簡単に収まるようなものではないだろうし、そうであれば、死を賭してでも復讐しようなどとはしないだろう。
「そうやもしれぬな」
セルクが、静かに二君子の言葉を肯定した。
「我は……大きな思い違いをしていたのやもしれぬ。大君の偉大なる御心に触れようともせず、我が小さき頭の中で考えこんでしまったのだ」
「それは、仕方のないことです」
「うむ。致し方なし。大君を失ったのだ。取り乱して当然」
二君子が大いにうなずくと、セルクは苦笑を漏らしたようだった。しかし、決して不快な響きの苦笑ではなかった。
「……セツナ殿。先程までの非礼の数々、許していただけるだろうか」
「許すもなにも。俺は俺にできることをしただけさ。あんたはあんたのできること、しなきゃならないことをしたんだろ。それが不幸にもぶつかりあった。ただそれだけのことだよ」
「……すまぬ。そして、ありがとう」
思わぬ言葉に耳を疑ったとき、セルクは、柔和な笑みを浮かべていた。
「我ら一同、アガタラの民として、大君の肉体を魔の手より解放して頂いたこと、心より感謝申し上げる」
「感謝を」
「感謝を」
『感謝を!』
ウィレドたちの感謝の言葉が大音声となって星空に響き渡り、夜の静寂もなにもが吹き飛んでいったが、セツナはその大音声を清々しい気持ちで聞き届けた。