第二千八十話 神運ぶ船(二)
方舟から拡散されたのは、紛れもなくルウファ=バルガザールのあっけらかんとした声であり、セツナは、驚きを隠しきれずにいた。マリクが主導となって行われる手筈になっていた方舟の内部調査のため、七大天侍に声がかかるというのは想像できなくもないが、まさか彼が方舟の内部調査を担当し、なおかつどうやら方舟の起動と操縦に成功したということには、驚愕するしかないだろう。しかも、方舟からは強大な力の発信源が確かに存在するのだ。それは神属と呼ばれる存在の気配であり、先程まで、三度に渡って発射された神威砲の力の源だ。ルウファが乗っているということは、その神属がルウファに対して友好的だという証拠でもあるのだ。そればかりは、さすがのセツナも想像だにしないことだった。
満天の星空の中、悠然と佇む空中要塞が如き飛行船の姿には、セツナを含め、その場にいるすべてのものが気圧されていたし、多くのウィレドたちは新たな敵性存在の出現かと動揺を隠せない様子だった。しかも、船内から聞こえてきたのが人間のあっけらかんとした声だったのだ。驚きは何倍にも膨れ上がり、混乱を呼びかねない。
『とりあえず、敵対勢力を攻撃しておきましたけど、あれでよかったですかねー?』
「……十分すぎるよ」
セツナは、あまりにも野放図なルウファの声に頭を振った。考え込むのが馬鹿らしくなるほどの底抜けの明るさは、ルウファ=バルガザールという人物をよく表している。彼は、かつてセツナが率いた隊において、明るく楽しい雰囲気造りに一役も二役も買っていた。彼がいなければ、《獅子の尾》――いや、セツナを中心とする人間関係は空中分解していたのではないか。そう、セツナは彼を評価している。
「よく、俺の意を汲んでくれた」
『そりゃあ、《獅子の尾》副長ですから』
誇らしい声だった。彼が船内のいずこかで、胸を張っているのが想像される。
『隊長とは、阿吽の呼吸なんですな』
「《獅子の尾》……か」
懐かしい名だと、思わざるをえない。
ガンディア王立親衛隊の一隊にして、ガンディア最強の戦闘部隊。黒き矛のセツナ率いる武装召喚師部隊は、ガンディアに幾多の勝利をもたらし、栄光をもたらした。それもいまや昔の話。もはやガンディアという国は失われ、隊もまた、解散した。ルウファは、未だセツナのことを隊長といってくれるが、セツナ自身は彼を部下だとは想っていない。ルウファは、リョハンの七大天侍のひとりなのだ。彼の上司は戦女神であって、セツナではないのだ。少し寂しいが、それが現実だ。そして、その現実を理解した上で隊長と読んでくれるルウファには、感謝するしかない。
『それで、そちらの方々は敵ではないんですよね?』
彼が言及したのはアガタラのウィレドたちのことだが、セツナは、少しばかり考え込まざるを得なかった。
「……どうかな」
『どうかな……って、どういうことです?』
予想通りのルウファの反応は、笑い話にもならない。
実際問題、よくわからない状態ではあった。当初、アガタラは、エリナが協力した関係もあり、友好的な間柄といってよかった。しかし、マルガ=アスルの神魔化とその討伐によって、関係は解消されるどころか反転、敵対する羽目になっている。そしてそのままなし崩し的に交戦状態に入ったと想った途端、エンデの横やりが入った。結果的にアガタラ軍のエンデ打倒に協力する羽目になったものの、よく考えれば、セツナたちとアガタラのウィレドたちの関係が好転したわけでもなんでもないのだ。
セツナがアガタラの大君マルガ=アスルを討った事実は変わらないし、彼らアガタラのウィレドたちが果たそうとした敵討ちは、中断したままなのだ。彼らの恨みは晴れておらず、エンデの大君を斃し、エンデ軍を撃退したからといって、それで済むようなことではあるまい。
『敵だというのなら、いますぐ攻撃しますよ。さっきみたいにばばーんと』
ルウファの妙に軽々しい一言にセツナは思わず肩を竦めた。
「おいおい」
『へっへー、この船はいま、俺の言葉ひとつで自由自在ですからね』
そういってルウファが上機嫌に笑った直後だ。
《うふふ……》
聞きなれない、美しい女の声が脳内に直接響いた。それは明らかに幻聴などではなかった。黒き矛とメイルオブドーターによって強化された超感覚が、幻聴を捉えるわけもない。脳裏に響く声。それは紛れもなく、神の聲にほかならない。
「いまの笑い声は?」
『ああ、言い忘れてましたけど、この方舟、神様の力を動力源にしてるみたいなんですよね』
「それはなんとなく察したが……つまり、その中に神様がいるってことだろ?」
『はい! で、いまの声が、その神様の――』
《早く会いにくるといいぞ、セツナ》
まるでセツナのことをよく知っているような口振りで、女神はいった。セツナは、その妙に馴れ馴れしい声色に警戒を強めた。神属にも様々な考え方の持ち主がいて、一概に敵とはいえないし、ルウファが安心している以上、そういう心配はいらないのだろうが、自分のことをよく知っている神様にはいい思い出がなかった。アシュトラにせよ、ラジャムにせよ、決していい記憶ではない。
「俺のことを知っているようだな」
《そなたを知らぬ神がこの世におるわけがなかろう。黒きものよ。魔王の杖の護持者よ》
「……まあ、そうか」
女神の透明で美しい声を聞き、セツナは納得するほかなかった。そういわれれば、返す言葉もない。黒き矛カオスブリンガーは、別名魔王の杖と呼ばれる存在であり、そのうちに秘められた絶大な力には、神々もが注目していた。至高神ヴァシュタラを構成していた神々の一柱ならば、知らぬわけもない。アシュトラのように、ヴァシュタラ時に垣間見たというクオンの記憶の中から、セツナのことをよく知っているはずなのだ。
『ま、神様のことはおいておいて』
《おいておくのか? 寂しいことをいうものよ》
『まあまあ……それで、どうしましょう?』
「どうもこうもねえよ」
セツナは、ルウファと女神との会話を打ち切ると、こちらの会話に注意を集中させていたアガタラのウィレドたちのうち、セルク、サルグ=オセル、メルグ=オセルの三名に目を向けた。すべてのウィレドが彼らの命令に従っているところを見ると、二君子と武臣筆頭の三名が、現状、アガタラの最高権力者と考えていいようだった。
「あんたらは、どうしたい?」
「どう……?」
「このまま、大君マルガ=アスルの弔い合戦を続けるかどうかってことさ」
「……それも考えた」
サルグ=オセルが、苦渋に満ちた表情をした。厳しい悪魔めいた顔が大きく歪む。
「我らは、大君マルガ=アスルという偉大なる太陽に照らされ、生きてきた。我らにとってはマルガ=アスルこそがすべてであり、マルガ=アスルに恩を返すために生きてきたといってもいい。そのマルガ=アスルが殺されたとあれば、命を賭してでも仇討ちに走るのが、アガタラのウィレドというもの。故に我らは全戦力を投入し、貴様を追った。そして、貴様に挑んだのだ」
「……それが、愚かだというのだがな」
「なんだと」
「聞き捨てなりませんね」
メルグ=オセルがセルクを睨み据えた。
「我々は、大君の無念を晴らすためにこそ、命を燃やす覚悟でここまできたのです。途中、エンデの横やりが入り、あなたの見事なまでの覚悟も見ましたが、だからといって我々の決意を愚弄していいということにはなりませんよ」
「何度でもいおう。そういうところが、愚かなのだ」
「貴様!」
「あなたは!」
「待て待て」
「くっ……」
「邪魔をするのか、人間……!」
「まあまあ、怒るのは相手の言い分を聞いてからでもいいだろう。言い分を聞いて、納得できないことなら、そのときこそ怒ればいいさ。その場合は、邪魔はしない」
セツナが両者の間に入ると、さすがの二君子も動きを止めざるを得なかった。彼らも、セツナが尋常ではないことは理解しているのだ。
「……わかった。セルクよ、貴様の存念をいえ」
サルグ=オセルに促されると、セルクは、大きくため息を付いた。
「貴様らは、大君からなにを受け取った。この数百年の長きに渡り、我らの生活を太陽の如く照らし、見守り続けてくださったマルガ=アスルから、なにを受け取り、ここにいる」
「なにを……」
「受け取ったもの……ですか」
「大君が我ら臣民に注いでくださったものは、なんだ。なにが我らの生活を支え、なにが我らの日常を潤してくれた。そんなこともわからぬから、貴様らは敵討ちだ弔い合戦だのと無駄で無意味なことをする羽目になるのだ」
「無駄でも無意味でもない!」
「そうですよ、セルク。これは我々の一存で決めたことではありません。皆、一緒になって考えだした結論なのです」
「だから、愚かだという」
セルクが吐き捨てるように、しかしどこかに愛情を秘めているような言い方で、告げた。
「大君は、マルガ=アスルは、我らを愛してくださったのではなかったのか。我らは、大君の偉大なる、太陽の如き慈愛の中で生きてきたのではなかったのか」
「それが、どうしたというのだ」
「そうです。それは皆も知っていること。だれもが、大君の愛に報いるべく、いま、この場にいるのです。すべては、大君の大いなる愛への感謝を示すため!」
「それが間違いなのだ」
そう断言するセルクの表情は、辛辣極まりないものだ。対峙する二君子が反発するのもわからなくはない。一方で、セツナはセルクにも同情しかけている自分に気づく。この場にいるだれもかれも、大君マルガ=アスルを心の底から尊敬し、アガタラという国を愛しているのは疑いようがないのだ。言葉のひとつひとつ、吐き出される感情のひとつひとつから伝わってくる。痛いほどの熱情。
愛国心。
かつての自分を見ているような、そんな気分になっていた。
「大君は、我らを滅びに追いやるため、愛を与えてくださったわけではない。先代大君の時代から、我らがアガタラを照らすのは、大いなる愛だった。そして、その愛の光こそ、地下に身を潜めた我らの生きる力そのものとなった。大君は、貴様らの死など、喜ぶものか。むしろ嘆き、悔やむだろう。貴様らに生きることの尊さを解かなかったことをな」
「……生きよ、というのか。我らに」
サルグ=オセルが振り上げていた拳を下ろした。怒りに燃えていた目を細め、うなだれる。
「大君を護れなかった我らに、生き恥をさらせというのか」
「死にたがるのもわからなくはない。大君を護れなかったその事実は、我にとっても貴様らにとっても拭い去り難い痛みであり、汚点だ。だが、己の汚名を注ぐために、ただそのためだけに大君の死を利用することほど、大君を穢すものはないと知るべきだ」
「……あなたの仰りたいことは、よくわかりました。確かに、我々がこのまま彼と戦おうというのは、大君のためではなく、大君のためという大義名分をかざした自分のためなのかもしれない。そして、そのために死に、アガタラが滅びれば、あなたのいうように大君の名を穢すことになりかねない」
メルグ=オセルもまた、怒りの矛を収めたようだった。
「そうだ。大君マルガ=アスルが愛を受け継ぐのであれば、死ぬべきではない。なんとしてでも生き延び、平穏なるアガタラの歴史を積み重ねていくべきだ。そうだろう、サルグ、メルグよ」
「……貴様のいうとおりやもしれぬ」
「わかってくれたか」
「うむ」
セルクの問いに、サルグは厳かにうなずいた。そして、口を開く。
「だが、ひとつだけ疑問がある」
「ふむ?」
「貴様がいうように、大君の意志を尊重することが生き続けるということならば、なぜ、貴様は率先して死のうとした」
「……なんだ。そのようなことか。あのとき、それこそがアガタラのためと信じたからだよ」
セルクのまなざしは、憑き物が落ちたように透明で、清々しいものだった。