第二千七十九話 神運ぶ船(一)
「ば……っ」
断末魔がわずかでも聞こえたのは、それだけ、ケルグ=アスルの生命力、魔法障壁が強力だったという証左だろう。
戦場の北東から差し込まれた都合三度目の神威砲は、壊滅状態のエンデ軍に決定的な楔を打ち込むかのように蹂躙し尽くした。崩れた陣形の空隙を埋めるため、陣形を立て直したのがまずかったのだ。エンデ軍のウィレドたちは、その大半が神威砲の奔流の中で絶命し、亡骸すら残せないまま消え去っていった。生き残ったのは、千名にも満たないわずかばかりであり、この時点でアガタラ側の圧倒的勝利は確約されたも同然だった。その上、エンデ軍の指揮官である大君までもが、神威の光の中で息絶えたとなれば、エンデ軍が潰乱するのも時間の問題だった。エンデ軍の将校と思しきウィレドたちが恐慌状態に陥ったウィレドたちを纏めようとしているが、大君という支柱を失ったものたちをまとめ上げるのは至難の業なのだろう。大きな風穴の空いた陣形が、ゆっくりと、しかし確実に崩壊していくのが見て取れた。
「終わった……よな」
支配者を失い、指揮系統に大きな乱れが生じたエンデ軍は、もはや軍集団としての統率が取れなくなっている。これ以上、彼らが立ち向かってくることは、なさそうに思えるのだが、果たして。
ゆっくりと、息を吐く。多少なりとはいえ、消耗している。マルガ=アスルとの戦闘からこっち、召喚武装を維持し続けていたし、最大三つの召喚武装を同時併用したこともあった。もっとも消耗が激しかったのは、いうまでもなくエッジオブサーストによる時間静止であり、あれさえなければ、もう少しましだっただろう。とはいえ、あのときは時間静止を使う以外にセルクを救う方法がなかったのは、紛れもない事実だ。
完全武装状態ならば、話は別だ。時間静止など使わずとも確実に救えただろう。が、消耗は時間静止の比ではなく、負担も比べ物にならなかっただろう。そもそも、すべての眷属を召喚するための時間がなかったのだが。
「終わったのか? ケルグ=アスルはどうなった……?」
セルクは、混乱真っ只中のエンデ軍内にケルグ=アスルの姿が見当たらないことが気がかりなようだった。彼には、ケルグが先程の光の中に消え去ったようには見えなかったのかもしれないし、あるいは、あの砲撃で死ぬような相手とも想えなかったのかもしれない。おそらくは後者だろう。神の如く崇めていた大君と同格の存在なのだ。それくらいに考えていたとしても、おかしくはない。
もちろん、ケルグ=アスルがマルガ=アスルよりも弱いから、神威砲に耐えきれなかったのではない。両者の実力そのものに大きな差はなかったはずだ。少なくとも、神魔と化し、とてつもなく強化されたマルガ=アスルですら、黒き矛を手にしたセツナの敵ではなかった。そして、セツナの感覚としては、両者の間に大きな実力差はなく、故にたとえマルガ=アスルであったとしても、神威砲の直撃を耐えきれなかったのはまず間違いない。
「死んだよ。いまの光に飲まれて」
「……そうか」
セルクは、それ以上なにもいわなかった。ケルグ=アスルの姿が見当たらないこともあり、セツナの言葉を信用したのだろうが、それはそれとして想うところがあるのだろう。ウィレドたちにとって神に等しい存在であるはずの大君がこうもあっさりと死んでしまったのだ。彼でなくとも、なにかしら考え込まざるを得まい。
セツナは、思索に耽るセルクではなく、部下たちに指示を飛ばしていた二君子に問うた。
「エンデ軍はどうなる?」
「彼らが我らほど大君に忠誠を誓っているのであれば、我らと同じく滅びの道を歩まんとするだろうが……」
「どうやら、そうはならなそうですね……喜ぶべきか、嘆くべきかはわかりませんが」
潰走を始めたエンデ軍に対し、アガタラ軍のウィレドたちは攻撃を加えなかった。それは、サルグとメルグの二君子が早急に命令を発したからであり、その理由が彼の言動にも現れている。エンデ軍との戦闘が終わることそのものは喜ばしいことだが、同種族故にエンデ軍の忠誠心の低さには哀しみを覚えるのだろう。ウィレドとは、元来大君に忠を尽くすものという考えが、アガタラのウィレドたちにはあるようだ。そのことは、大君の死後、弔いのための戦を仕掛けてきた彼らを目の当たりにしているのだから、よくわかる。同時に、彼らの気持ちも少しはわかった。
主君が戦死したのであれば、その敵討ちに打って出るものが一名や二名くらいいてもいいのではないか、と。
無論、それが美徳だと想っているわけでもないのだが。
「余計な手間を掛けずに済むんだ。喜んでおくべきさ」
「……ふむ」
セルクがうなずいた。どうやら思索は終わったらしい。
「問題はなにも解決していないのだがな」
「そうかい? 俺には、なにもかも解決したように思えるが」
とはいったものの、セツナには、セルクがなにを考えているのかわからないではなかった。彼には、決着をつけなければならないことがある。しかしセルクは、セツナが想像していることとは違うことを指摘してきた。
「まず、当面の問題はあれだ」
「……まあ、それはな」
セツナは、サルグが指し示した方角を見遣り、同意せざるを得なかった。
この戦い、セツナたちに圧倒的勝利をもたらしたのは、セツナでもなければ、アガタラのウィレドたちでもない。この戦場より遥か北東、リョハン方面から三度照射された神威の光であり、それを発射した存在なのだ。
そしてその存在は、圧倒的な質量と圧力を誇る巨大な物体とともにこちらに向かってきていた。
星々瞬く空の下、蒼い闇を切り裂くようにそれはあった。光の翼たち。まばゆく輝く光そのものが翼となって広がり、夜の闇を引き裂いている。そして、その翼が発する光が、その巨大な物体を闇の中に浮かび上がらせているのだ。その物体には、見覚えがあった。空に浮かぶ巨大な船だ。それもただの船ではない。船体に流線型の天蓋を被せ、さらに船体の各所から翼を生やしたような姿をしていた。
神軍が運用し、リョハンが方舟の名称で呼び表す飛行船そのものだった。
改めて見ると、その圧倒的な巨大さには息を呑まれるほどの迫力があり、まばゆい光を発する大小無数の翼からは神々しささえ感じられた。まず間違いなく、神の力そのものだった。つまり、神威だ。神威が、光の翼となって船体から噴出し、船体そのものを浮かせているようなのだ。
圧倒されつつも浮かぶのは疑問だ。
こちらに近づきつつあった巨大な物体に神が乗っているのは、わかっていた。神威砲とでも呼ぶべき神威の光線を放ってきたのだ。それ以外考えられない。しかし、まさかその神がリョハンの守護神マリクではない別の神であり、また、方舟に乗ってくるとは想像もしていなかった。方舟の一隻が、ラムレス=サイファ・ドラースの眷属筆頭ケナンユースナルによってリョハンにもたらされたことは知っていたし、マリクが調査に乗り出すという話も聞いてはいた。つまり、方舟が動いているということは、マリクが主導した調査が上手くいったということに違いないのだが、だとしても、理解できないことがある。
マリク以外にリョハンに協力的な神がいるのか、ということだ。
神軍の神ではないことは、間違いない。神軍の神がリョハンに協力するわけもなければ、セツナを攻撃しないはずがないからだ。であれば、神軍に属していない、野に下った神々のいずれかなのだろうが、それがまったく想像もつかない。どうやら、ヴァシュタラを構成していた数多の神々のうち、かなりの数が野に下ったようであり、それらの神々のいずれかがリョハンに協力を申し出てきたとしても、決して不思議なことではないとはいえるのだが。
セツナのみならず、周囲のウィレドたちも、地上のミリュウたちも、方舟の接近に驚き、警戒を強めていたちょうどそのときだった。
『隊長―っ! 聞こえますかーっ!』
「え……?」
混沌とした夜空に響き渡る大音声は、聞き知った腹心の声そのものであり、セツナはただただ驚くよりほかなかった。
「ルウファ……?」
『はいはーい! あなたの第一の部下にして最優秀選手、腹心にしたい男の最高峰、ルウファ=バルガザールですよー!』
あっけらかんとしたルウファの声は、方舟の中から周辺空域に向かって拡散されているようだった。