第二千七十七話 真意(三)
エッジオブサーストの召喚は、ケルグ=アスルがセルクを攻撃し、その場にいたすべてのものの注意がそちらに集中した瞬間に行っている。
セツナの場合、武装召喚の四文字を口ずさむだけで武装召喚術が発動することもあり、周囲の皇魔たちに警戒されることなく、隙を伺うことができたというわけだ。これがただの武装召喚師ならば、そうはいくまい。武装召喚術の発動には、長たらしい呪文の詠唱が必要不可欠だ。セルクたちが深刻なやり取りをしている間、小声とはいえ呪文を唱えていれば、注目を集め、警戒されるに決まっている。その点、セツナはなんの前置きもなく武装召喚術を発動できるのだから、かつてファリアや他の武装召喚師たちがセツナを指して卑怯者呼ばわりしたのも納得がいくというものだ。
その卑怯な力がどういう理由で自分に備わっているのかは、まったくわからない。クオンも同じ力の持ち主だということになにかしらの因縁を感じずにはいられないが、かといって、それが答えになるかというとそうではないだろう。アズマリアのゲートオブヴァーミリオンによる召喚が原因ならば、ファリアの父メリクス=アスラリアもまた、セツナ、クオンと同じ力の持ち主だったはずだ。しかし、そのような話はファリアから聞いたことがなかった。もしそうであったなら、セツナが初めて彼女の目の前で黒き矛を召喚したとき、大騒ぎになっただろう。
そんなことを思いながら、セツナは、メイルオブドーターの翅を羽撃かせた。
なにもかもが静止した世界で動き回ることができるのは、セツナただひとりだ。ケルグ=アスル目指して直進するセルクも、そんなセルクを撃ち落とすために投げ放たれた魔力光も、乱れ飛ぶ魔法の数々も、地上にいるミリュウたちも、森も、大地も、空気さえも、エッジオブサーストの支配下にある。時間静止を維持し続ける限り、それらが再び動き出すことはない。つまり、その間、なにもかもセツナの思い通りなのだ。
とはいえ、エッジオブサーストの能力による時間静止には、制限があった。時間が静止しているものにはなんらかの変化を加えることができない、ということだ。つまり、時間静止中に一方的に攻撃を加えるようなこともできなければ、時間静止中の物を動かしたり、なにかいたずらを仕掛けるといったこともできない。できることがあるとすればただひとつ。
(自分が動くこと。ただそれだけさ)
ただそれだけのために多大な精神力を消耗するのだから、ニーウェがその扱いに慎重になったのもわからないではない。そして、ニーウェが攻撃を回避したり、あるいは間合い外からの接近にのみ利用したのも、当然といえるのだ。
もちろん、セツナもそういう限定的な使い方しかできないため、あまり使用してこなかった。
ちなみにセツナは、黒き矛を腰の帯に差し込むことで空いた両手に、エッジオブサーストの二刀を握っている。無論、この状態では攻撃などできないが、時間を静止させるためには両手に持つしかないのだから仕方がない。解除ならば問答無用でできるのだが。
立方体めいたエンデ軍の陣形の目の前、虚空で静止したままのセルクの前方へと移動したセツナは、全周囲の状況を把握すると、即座に時間静止を解除した。瞬間、時が再び動き出すのと同時に背後から驚嘆の声が聞こえ、また、眼前に魔力の光の束が迫っていた。メイルオブドーターの翅を目の前に広げ、魔力光を受け止める。甲高い激突音が響き、衝撃が翅を突き抜けてセツナの全身を揺さぶる。だが、痛みはない。翅が魔力光の衝撃を分散させ、弾き飛ばしたからだ。視界を覆っていた翅を開放したとき、不快気な顔をしたケルグ=アスルが目に飛び込んできた。
「なんの真似だ? 人間」
「そうだ、なぜ邪魔をする!」
「まあ、なんだ。あんたに死なれちゃあ、ちょっと後味が悪いんでな」
背後からの声には目もくれず、セツナは、エッジオブサーストを送還すると、帯に差していた黒き矛を引き抜いた。
「そんな程度のことで、我の邪魔をするな!」
「そうだぞ、人間。人間風情が、我らの崇高な戦いの邪魔をするものではない。貴様ら人間は、我らを天敵と恐れ、膝を抱えて震えていればよいのだ。いずれ我らの天下が来るのだからな」
「いつの時代の話だか」
セツナは、ケルグの挑発的な言葉には耳を貸さず、頭を振った。
状況は、大きく動いている。セルクが動き、ケルグ=アスルが反応したことで、両軍の将兵が一斉に戦闘状態に入ったのだ。
当初、セルクに集中していたエンデ軍の魔法攻撃は、アガタラ軍の総攻撃が開始されると、セルク担当とそれ以外に分散するようになっていった。凄まじいとしか言い様のない魔法攻撃の応酬の真っ只中にセツナはいる。もちろん、最前線に突如出現したセツナに対しても、エンデ軍の魔法攻撃が及んでいたが、いつの間にかセツナに追いついていたラヴァーソウルの刃片が魔法障壁を展開しており、セツナが魔法攻撃を食らうことはなかった。ミリュウの疑似魔法は、ちょっとやそっとの魔法攻撃ではびくともしない。最初に放たれた特大魔法さえも防ぎきったのだから当然だろう。
地上から常にセツナを見守ってくれているミリュウの配慮に感謝し、技量に深く感心した。感心するまでもないことではあるのだが、二年ぶりの再会は、さらに磨き抜かれた彼女の武装召喚師としての力量を見せつけられてばかりだったのだ。感心もしよう。
さらにいうと、彼女はセツナの意図を完全に理解したようだった。ラヴァーソウル刃片をセルクの周囲にも展開し、彼をエンデ軍の魔法攻撃から守っていた。跳ね返される数多の魔法が、ミリュウが操るラヴァーソウルの力を見せつける。
そんな熱と冷気、電光や颶風が飛び交う中、セツナは、背後の天魔に向かって語りかけた。
「あんたは、アガタラにとって最良の判断をしたんだ。そのことを伝えようと想ったまでのこと」
「最良の判断だと?」
「そうさ。あんたがアガタラにエリナを招き、大君の体調を回復させた。白化症は癒えなかったが、神の毒を消し去ることは不可能。仕方のないことだ。エリナが悪いわけでも、あんたが悪いわけでもない。ただ、それによって時間を稼ぐことができたのは、疑いようのない事実だ。そうだろ」
「時間を稼いだ? なんのことだ」
「大君が神魔と化すまでの時間のことさ。そしてあんたが稼いだその時間が、アガタラを生き延びさせることに繋がったんだ。俺が、マルガ=アスルを斃すことができたのも、そのおかげなんだ。あんたのやったことは無駄じゃない」
彼にとっては喜ばしいことではないのは、重々承知だ。だが、そこに言及しなければ始まらない。
もし、セルクがエリナに治療を受けることなく死んでいれば、アガタラはどうなっていたか。確かに彼のいった通り、警鐘は鳴らされ、君子たちはエンデに対抗するために全力で動き出したかもしれない。しかし一方で、マルガ=アスルは回復することもないまま白化症に苛まれ、早々に神魔と化して暴れまわり、アガタラのウィレドたちを皆殺しにしたに違いなかった。大君の弔い合戦のために命を投げ捨てることができるのが、アガタラのウィレドたちだ。神魔化し、自我を失ったマルガ=アスルに殺されることさえも本望と考えるのではないか。いや実際、そのような発言をしていたのだから、間違いない。
アガタラが滅亡を免れ得たのは、セルクが幸運にもエリナたちと巡り会い、彼女の治療によって生き延びたからにほかならない。その結果、物事は彼の思惑とはまるで異なる方向に進んでしまったのだろうが、結果としてはこちらのほうが遥かにましだったのではないか、とセツナは考える。
その結果として、アガタラのウィレドたちは、大君を殺された怒りと憎しみ、また弔いの想いからセツナたちを討ち果たすべく行動を起こしたが、それはそれだ。あのまま戦闘が続いていれば、アガタラは滅亡を免れ得なかったとはいえ、結果的にそうはなってはいないのだ。それもこれも、セルクの行動があってこその結果であり、彼がもし、なんの行動も起こさなければこうはならなかっただろう。
アガタラは神魔と化したマルガ=アスルによって滅ぼし尽くされ、そのマルガ=アスルも、リョハンの武装召喚師たちによって討ち果たされただけのことだ。
もちろん、セツナの言葉ひとつで彼が納得するかというと、まったく別の話だ。彼がアガタラの将来のためとはいえ、エンデに通じ、その軍勢を引き入れたという事実も変わりはしない。しかし、だからといって、セルクをむざむざ死なせる必要もあるまい。アガタラの二君子はそう判断し、動いたのだ。
そして、セツナが彼を助けたのは、ひとえに、地上にいる彼女の気持ちを考えてのことだった。もし、エリナが彼やアガタラのウィレドたちになんら特別な感情を持っていなければ、見捨てたかもしれない。その程度のことでしかない。
だが、その程度のことがひとを突き動かす。
「なに? 貴様如き人間風情が、マルガ=アスルを斃した……だと?」
ケルグ=アスルの表情が一変した。不快げながらも余裕に満ちた様子だったはずが、一気に憤怒の相へと変わる。美しい顔面に幾重もの皺が刻まれ、表面が紅潮していく様子が見て取れた。
「戯言を!」
「あんたの攻撃だって、俺には届かなかったんだ。マルガ=アスルを斃すことくらい、造作もないさ」
「マルガ=アスルを馬鹿にするものは、このケルグ=アスルが許さん。ウィレドの中でもっとも輝かしき翼をその薄汚い口で穢すなど……!」
「あんたは、小さいな」
セツナは、ケルグ=アスルの憤怒の顔を見つめながら、吐き捨てるようにいった。アガタラの大君マルガ=アスルに感じた器の大きさ、度量の広さがまったく感じ取れない。同じ大君という立場にあっても、こうも違うものかと想うほどに、セツナには彼が小さく見えていた。
マルガ=アスルは、太陽と呼ぶに相応しい人格者だった。それは、セツナが居合わせた会見の際の言動からも、ミリュウやエリナから聞いた話からも、わかっている。アガタラのウィレドたちが神の如く崇め奉り、彼の弔いのために命を捨てられるのも当然と思えるほどだった。
しかし、ケルグ=アスルは、どうやら彼とは比べ物にならないほどの小物のようだった。
彼は、敵国の大君マルガ=アスルを高く評価し、尊敬してさえいるようだが、その言動から溢れ出る器の小ささまではいかんともし難かった。セツナはこれまで様々な種類の支配者を目の当たりにしてきた。当然だが、全員が全員、名君賢王と呼ばれるような人物ではなかった。暗君もいただろう。だが、ケルグ=アスルほどあからさまに器の小ささを感じたものはいなかったように思えるのだ。
「なにが小さい!」
「器だよ」
「貴様……!」
ケルグ=アスルが荒れ狂う嵐のような形相になった。セツナは、その反応を見て、ますます彼の小ささを認識し、確信へと至る。挑発とさえいえないような拙い言葉でこれだ。怒りが溢れすぎて、制御不可能なほどになっているのではないか。しかし、ケルグ=アスルは叫ぶのだ。
「人間如きが我の器を図れるなど、思い上がりも甚だしいぞ!」
「そういう言動にあらわれてんだよ」
ケルグ=アスルが、激怒のあまり周囲の側近と思しきウィレドたちさえも吹き飛ばすほどの魔力を放散するのを涼しい顔で見つめながら、彼は、告げた。
「だから、気づかない」
「なに――」
ケルグが怒りに顔を歪ませながらもセツナの言葉に疑問を感じた瞬間だった。遥か北東に光が瞬いたかと想うと、莫大な量の光が極太の光芒となってセツナの視界を白く塗り潰した。