第二千六十八話 神ならざる魔なるもの(一)
床、壁、天井が激しく揺れ動き、調度品の数々が転倒する。震動対策など考えられてもいない建物だ。そしてその震源が凄まじい勢いで激しさを増しながらこの部屋に向かっている最中だということがわかれば、このような惨状になるのは当然といってもよかった。
セツナは、エリナを左手に抱え、ミリュウに抱きつかれた格好のまま、呪文を唱えた。ミリュウ、エリナも素早く術式の構成を始めている。武装召喚師が不測の事態に陥れば取るべき行動はひとつしかない。武装召喚術の行使だ。
「武装召喚!」
セツナが武装召喚術を発動し、爆発的な光の中から出現した黒き矛を手にした瞬間、彼は、一瞬にして圧倒的に強化された感覚により、上方からの凄まじい圧によって天井が崩壊する様を幻視した。超感覚による未来視だ。幻視した刹那には、彼は動いている。エリナを左腕に、ミリュウを右腕に抱えたまま、前方に向かって跳躍しながらさらなる召喚の呪文を唱えたのだ。
「武装召喚!」
セツナの連続的な武装召喚術の行使には、さすがのミリュウもエリナも驚いたようであり、ふたりがほぼ同時にこちらを一瞥したのがわかった。呪文の詠唱が止まる。が、セツナは、ふたりに説明しようともせず、召喚の完了を認めた。メイルオブドーターがセツナの上半身を覆った瞬間、彼の意志に応じるままに背甲から黒き蝶の翅が出現する。中空での加速と姿勢制御。迫りくる震源を振り向く。天井が激しく震撼していた。なにかが、ここへ至るまでのすべてを破壊しながら突き進んできているようだった。
そして、黄金の天井が大きくひしゃげたかと想うと、爆砕した。強烈な外圧によって砕け散り、黄金の建材がばらばらに吹き飛び、粉塵が瀑布の如く降り注ぐ。その粉塵の真っ只中、寝台を貫くようにして降り立つなにかを目の当たりにして、セツナは、つい両腕に力を込めた。ミリュウをエリナを手放すわけにはいかないからであり、ふたりを庇いながらどこまでのことができるのかと想ったのだ。
きらきらと輝く粉塵の中で、それはゆっくりと上体を上げた。肥大した左腕を寝台に突き刺したままの姿勢。真っ赤に燃えるように輝く双眸がこちらを捉える。瞬間、粉塵が吹き飛び、視界が明瞭なものになった。
「そんな……!」
エリナが絶句したのは、天井を貫いて落下してきたそれを目の当たりにすれば、当然の結果だった。
それは、ウィレドだった。隆々たる巨躯を誇る漆黒の悪魔。だが、左半身が白く変色し、さらなる異形に変容してしまっていて、ウィレド本来の姿からかけ離れていた。年輪の刻まれた顔には見覚えがある。いや、顔を見るまでもなく、身に纏う金色の長衣を見れば、そのウィレドがだれであるかなど一目瞭然だ。このアガタラにおいて金色を纏うことが許されたウィレドはただの一名しかいない。アガタラの大君マルガ=アスル。異様なほどに肥大した左腕は、爪先から腕の付け根まで完全に白化している。いや、左腕だけではない。首筋から進行した白化症は、マルガ=アスルの後頭部へと至っているようだった。つまり、脳までも白化症に冒されているようだった。
つい数時間前の会見時には、そこまで進行していなかったはずだ。だが、目の前に現れたマルガ=アスルの姿が偽りであるはずもない。白化症に意識を乗っ取られたマルガ=アスルは、もはや神の尖兵と化したのだ。神人ならぬ、神魔となったのだ。
「こうなる可能性くらい、考慮していたよな。ミリュウ、エリナ」
「でも……!」
「これじゃあ、なんのためにエリナが治療してきたのか、わからないじゃない!」
エリナの気持ちや、ミリュウのいいたいこともわからないではなかったが、いまはそんなことをいっている場合でも、そんなことに囚われている場合でもなかった。
「エリナの治療が、多少でも白化症の進行を抑制したのなら話は別だがな」
マルガ=アスルが寝台を叩き潰した左腕を引き抜くと、こちらに向き直った。凄まじいまでの殺気が神経を逆なでにするように駆け抜ける。皇魔特有の気配が何倍にも引き上げられているのだ。雑音ののうに意識に引っかかり、五感の正常な作用を阻害する。最悪の気分だった。
「聞く限りじゃ、まったく効果がなかったんだろ?」
「うん……」
「だったら、こうなるのも仕方がない。だれが悪いわけじゃない。エリナ、君もな」
「お兄ちゃん……」
「どうするの?」
「こうなった以上、やるしかねえだろ!」
叫ぶ。マルガ=アスルが大口を開けた。口内にどす黒い闇が見えたかと想うと、その奥底に白いなにかが見えた。白化した部位。口内に昏い光が膨れ上がる。セツナは、ふたりを抱えたまま、後ろに向かって飛んだ。狭い室内。飛び回れる距離などたかが知れている。
「大君!」
その瞬間、頭上から飛び込んできた声は、デルクのものだった。天井に開けられた大穴からデルクを始めとする御側衆の面々が飛び降りてきたかと想うと、マルガ=アスルが視線をそちらに向けた。口腔内に満ちた光が、苛烈な光芒となって視界を貫く。デルクたちは、反応すらできなかった。反応すらできないまま光芒に飲み込まれ、光の奔流の中で蒸発するように消えて失せたのだ。
「嘘でしょ」
「デルクさん!?」
「嘘もなにも、白化症に冒されたものがどうなるかなんて、ふたりだって知ってるだろ」
マルガ=アスルが口から吐き出した光線によって側近たる御側衆の三名を消し滅ぼした事実は、彼がもはや自制心のかけらもない怪物へと成り果てたことを示していた。天井がさらに破壊され、大穴が開いている。そこからウィレドたちがつぎつぎと飛び降りてくると、マルガ=アスルの異形化した左腕が猛威を振るった。振り上げられた左腕がウィレドの一体を掴むと、軽々と粉砕して見せる。さらに左腕のいたるところでさらなる変容が起き、無数の触手が生えた。ウィレドたちが大君と叫び、彼を抑えようとしたのも束の間、つぎつぎとその触手に貫かれ、絶命していく。
「神の徒となり、尖兵となった以上、自制なんて聞きやしねえのさ」
「でも、どうしていまなのよ。ついさっきまでなんの問題もなさそうだったじゃない」
「ミリュウ。おまえのいったことがすべてだろ」
セツナは、ミリュウを一瞥した。彼女の悲嘆に満ちた表情は、エリナの苦労を知っているからのものなのだろうが。
「なさそうだったんだ。実際には問題だらけだったってだけの話でな」
「そんな……!」
(エリナの治療は、白化症で昏睡状態に陥っていた大君の意識を回復させた。つまりそれが白化症の進行状態をわかりにくくさせたんだろうよ)
口には出さず、セツナは、そう結論づけた。エリナの召喚武装の治癒能力は、白化症患者に自我を取り戻させるという点では素晴らしいものかもしれない。特に大君のように要職についたものが白化症に冒され、意識を失うような事態になれば、政治的停滞のみならず、国そのものに大打撃を与えかねない。事実、エリナの活躍によって意識を取り戻し、体力を回復させたマルガ=アスルは、アガタラを正常化させていったのだ。
だが、その結果、マルガ=アスルの病状が外からわからなくなってしまった。
マルガ=アスルが健康そのもののように振る舞えば、周りも安心しきる。もしかすると、フォースフェザーの治療が白化症の抑制をもしているのではないか。そんな淡い期待を抱く。しかし、実際にはそうではなかった。白化症は、健康そうにみえたマルガ=アスルの肉体を蝕み続けていたのだ。
そしてそれは、どうやらセツナとの会見以降、加速度的に進行したようだ。
(俺か)
マルガ=アスルの双眸が、セツナを捉えていた。
(俺が原因か)
背後で部屋の扉が開いた。
「なにがありましたか!?」
アスラ=ビューネルの声が聞こえた瞬間、セツナはそちらを振り向き、飛び寄った。そして、状況を見て愕然とする彼女にエリナを押し付け、隣に立っていたダルクスにミリュウを預ける。有無を言わせぬ迫力にふたりは無言でうなずくだけだった。即座に振り向くと、眼前に大君の左腕が迫っていた。