第二千六十一話 予期せぬ再会(一)
日が、流れていく。
ミリュウたちは、数十日に渡ってアガタラでの生活を送っていた。
ほぼ一日中大霊宮に籠もっていることがほとんどだが、大霊宮内には、武臣用の訓練施設もあり、そこで体を動かすこともできるため、ミリュウたちが鍛錬を怠け、武装召喚師としての腕前が落ちるというような事態は避けられた。そうでなければ、大霊宮に篭もるような生活を受け入れるわけもない。アガタラやウィレドのことよりも、リョハンの武装召喚師としての自分たちの立場のほうが余程重要であり、大切なのは当たり前のことだ。
それでもアガタラでの滞在を続けるのは、アガタラが温厚なウィレドの国であり、話し合う価値があるとミリュウも想い始めていたからだ。交渉の余地がなかったり、価値が見いだせなければ、エリナがどういおうと強引にでも連れ帰っただろう。
エリナは相変わらず救いの巫女として崇め奉られながら、毎日のように大君マルガ=アスルの治療に当たっている。そして、その数十日に及ぶ献身的な治療の甲斐があってか、大君の病状はというと、大きく回復した、と御側衆がアガタラ中に喧伝するほどにまで改善していた。いまでは治療の前後に政の場に顔を出し、御側衆らに指示を出したり、国民からの陳情に直接耳を傾けたりしているくらいだ。御側衆による喧伝もあながち大袈裟ではない。
もっとも、エリナの召喚武装フォースフェザーによる治療がマルガ=アスルの肉体を蝕む白化症の原因を取り除いたわけでも、症状が軽くなったわけでもなんでもないのだ。単純にマルガ=アスルの体力が回復しただけのことであり、ウィレドの生来の生命力の強さに依存した結果に過ぎない。白化症によって昏睡状態に陥っていた患者の意識を回復させることに成功した召喚武装による長期的、集中的な治療を行っても、白化症の根本原因を消し去ることはできないということの証明といっていい。エリナは、毎日それこそ意識を失う寸前までフォースフェザーの能力を駆使し、大君の治療に当っていた。一瞬たりとも気を抜かなければ、手を抜くということさえなく、いつだって全力だったのだ。それでも、白化症は治るどころか悪化する一方であり、大君の左翼のみならず翼の付け根から肩甲骨の辺りまで白く変容していた。ただ、白化症の進行によって生じるはずの痛みを感じないのはフォースフェザーの治療効果であるといってもいいようであり、その点は成果と見ていいだろう。
とはいえ、エリナは、自分の力不足と嘆かざるを得なかった。彼女は、本気で大君の病状を改善するべくアガタラに滞在し、毎日毎日終わりの見えない治療を続けているのだ。手応えもなく、光明も見えない。それでも、白化症に苦しむひとびとの事を想えば、エリナはいくらでも力が湧いてくるという。白化症には治療法は存在せず、発症したものは、苦しみ、のたうち回った挙句、神の尖兵とならざるを得なくなる。そしてそうなれば、討ち果たさなければならないのだ。もし、フォースフェザーが白化症の特効薬の如く力を発揮するようなことがあれば、そういった種々の問題を無血で解決することができるようになるということであり、革命的とさえいえた。
ただし、マリク神がいった通りであれば、生半可な方法では白化症を治療することなどできないはずであり、いまのところフォースフェザーが白化症の治療に役立っていないのも仕方のないことだといえた。それでも諦めたくないエリナの想いを汲んで、ミリュウはアガタラでの長期滞在を受け入れていた。先もいったように仮にフォースフェザーにそのような能力が備わっていて、白化症の治療に成功したとすれば、今後も大いに役立つからだ。それに、エリナ自身の成長速度には目を見張るものがある。それもこれも、ここ数十日、ほとんど休むことなく治療に当たっているからであり、日々の鍛錬以上に武装召喚術を酷使しているからにほかならない。肉体的にも精神的にも消耗し続けることで、凄まじい修練をしているのと同等の効果が得られているのだ。それは、エリナの将来や彼女の属するリョハンの今後にとって大いなる利益となる。
エリナの天性の才能は、だれもが認めるところなのだ。
彼女が急速に成長を遂げているのも、才能の表れといっていい。凡庸なものならば、いくら武装召喚術を酷使したところで、ただ消耗し、疲労するだけで終わるだろう。しかし、才能に満ち溢れ、力の使い方を理解しているエリナは、同じ酷使でも、成長に繋げることができるのだ。そのことは、日夜エリナのことを見守っているミリュウの目には明らかだった。彼女は目に見えて成長している。
アガタラに入る以前といまではまるで別人ではないかというくらいの成長速度であり、ミリュウも負けてはいられないと想うほどだった。もっとも、エリナがどれだけ才能に満ち溢れ、成長速度が凄まじくとも、ミリュウたちに追いつくのは当分先の話だ。一朝一夕に追いつけるようなものではないのだ。
ともかく、エリナの治療は、大君の健康状態を維持する上では大いに役立っていたし、それだけで病状が改善したと勘違いするほどのものではあったのだが、エリナが納得していないように、根本的な解決にはなっていなかった。白化症は未だ進行中であり、痛みこそごまかせているものの、いずれ大君が神の徒――つまり神魔と化すだろうことは明白だ。
そうなれば、後継者問題、内通者問題どころの騒ぎではなくなるだろう。
アガタラはいま、いくつかの問題を抱えている。そしてそれらの問題は、すべて一本の糸で強く結ばれているといってもよかった。
ひとつは、大君の病状に関する問題。これはエリナが日夜治療に当たることで、御側衆を始めとするアガタラのウィレドたちは解決するものと信じているようだ。実際にはそうなる可能性は高くはないのだが。
ひとつは、後継者問題。大君マルガ=アスルが数年前に選定した二名の君子、サルグ=オセルとメルグ=オセル。いずれを本当の君子に任ずるのかが大きな問題となっている。問題になったのは、君子二名を選んだだけでマルガ=アスルが病床に伏せ、半年もの間意識を失っていたからだ。意識を回復したいまとなっては、大君の判断を待つのみであり、大した問題にはならないだろう、と、だれもが見ている。しかし――。
(内通者……ねえ)
ミリュウは、寝台の縁に腰を落ち着けたまま、もはや見慣れた黄金色の部屋の壁をぼんやりと眺めていた。穏やかな空気が流れているのがわかる。時計の針の音も聞こえなければ、なんの物音もない。雑音がないということは、それだけミリュウにとって苦痛の時間が始まるということなのだが、いまは、この上なく落ち着いていられた。常に頭の中を反響している無数の声が聞こえないからだ。耳を澄ませているからだろう。柔らかな寝息がすぐ下から聞こえてきている。
見下ろすと、ミリュウの太ももを枕にして眠るエリナの横顔があった。可愛らしい横顔だった。見ているだけで心が穏やかになるのがわかる。ミリュウの心がこうも安定していられるのは、ほとんどすべてこの愛しい弟子のおかげといってよかった。彼女がいなければ、頭の中を跳ね返り続ける声によって意識をずたずたに引き裂かれ、我を見失っていたに違いない。
エリナがミリュウの膝枕を堪能しているのは、今日が久々の休養日だからだ。ほぼ毎日、休み無しで働く救いの巫女に対し、御側衆のウィレドたちは恐縮しっぱなしだった。エリナの体調を考慮し、休めるときに休んでほしいといってくるほどにだ。それくらい、エリナは献身的であり、大君の治療に全力を尽くしていた。そんな彼女の姿を見れば、だれであれ感銘を受けるものなのだろう。御側衆のみならず、大霊宮で働くウィレドたちは皆、エリナを大君のつぎに尊崇するようになっていた。
まるでエリナを女神のように敬い、エリナがなにかを欲すればすぐに手配し、エリナのもとに持ってきた。飲み物、食べ物だけでなく、衣服からなにから、エリナが発した言葉を自分たちなりに咀嚼した上で理解し、行動に移すのだ。別にエリナが彼らになにかを要求したということは一度もなかったし、むしろエリナはそういう気遣いにこそ恐縮する性格だった。しかし、それもこれもエリナの人徳のなせる業であるといえば、不承不承、納得したようだったが。
エリナは、そうやってアガタラでの確固たる地位を築いていく一方、ミリュウはというと、セルクの要請してきた内通者探しが遅々として進められていなかった。
まず、普段はエリナの治療に付きっきりであり、動くに動けないというのがある。いくらアガタラのウィレドたちは温厚で、大霊宮内ほど安全な場所はないとはいえ、エリナをひとりにしておくことなどできるわけもない。かといって、ミリュウ隊の隊士たちをエリナの護衛につけるわけにもいかなかった。エリナが治療にあたっているのは大君であり、大君の居室は広いとはいえ、何人もの人間を立ち入らせられるような空間ではないのだ。エリナを含め、ミリュウとダルクスの三人でも多いくらいだった。
となれば、内通者探しを隊士たちに任せられるか、というと、そういうわけにもいかなかった。
内通者探し初日、メルグ=オセルと対面し、真正面からぶつかり合うことになった結果、ミリュウはひとつの疑問を抱いていた。
『サルグとわたしのいずれかがエンデと通じている、と、セルクは考えているのですね』
メルグ=オセルの柔和な表情が幾分、冷ややかになったのを覚えている。
『馬鹿げたことだ。サルグもわたしも、大君によって見出され、君子に選ばれたもの。アガタラを愛し、エンデを憎む気持ちに変わりはありませんよ。サルグが武に傾倒しているのも、将来的にエンデと戦争する可能性を考えれば当然のこと。エンデが攻め込んできたとき、武に突出した戦力がなければ、勝てる戦も勝てなくなりますからね。そんな彼がエンデと結ぶなど考えられません』
メルグ=オセルは、語り続けた。
『確かに……大君があのまま亡くなられた可能性を考えれば、それまでに対抗馬たるもう一名の君子を暗殺し、君子を自分ひとりに絞るべく、エンデと手を結ぶということは考えられないことではない。しかし、それはわたしかサルグが大君になることを第一に考えていた場合の話です。わたしもサルグも、君子に選ばれた事自体、幸運以外のなにものでもないと思っています。ましてや、大君になりたい、などと想ったこともない。大君とは、アガタラの太陽そのもの。我々にそのような役割が相応しいのかどうか、日夜考えてばかりなのです』
故にエンデと手を結んでまで対抗馬を蹴落とそうとするはずがない、と、メルグ=オセルは主張した。彼の声には、胡散臭さやそこからくる軽さはなく、真に迫っていた。自分たちがアガタラを裏切ることなどありえない。彼はそう主張し続け、セルクの推察が間違っているのだ、と結論づけた。
『セルクが我々を疑っていることについては、この胸にしまっておきましょう。しかし、彼がまた、我々の周りを嗅ぎ回るようなことがあれば、そのときは、アガタラの誇りにかける、と彼に伝えておいてください』
メルグ=オセルとの対話は、それで終わった。
大霊宮に帰還後、ミリュウは事の次第をセルクに伝えたが、セルクは
不意に扉が軽く叩かれ、ミリュウは、はっと顔を上げた。室内にはミリュウとエリナしかいない。ダルクスは、自身の修練のため、大霊宮内の訓練所に赴いていた。そのダルクスが戻ってきたのかもしれない。
「ダルクスなら開けていいわよ」
ミリュウがいうと、扉が開き、ダルクスの厳しい漆黒の鎧が姿を見せた。が、彼は室内に入ってくるどころか、通路の先を示してくる。
「なに?」
ミリュウが疑問を浮かべると、彼は顎で部屋を出るよう促してきた。ミリュウは、きょとんとした。彼がそのように自己主張の激しい仕草をしてきたことがなかったからだ。
なにがあったというのか。
妙な胸騒ぎに、ミリュウはエリナを見下ろし、彼女の髪を撫でた。起こしたほうがいいかもしれない。