第二千五十七話 二君子(四)
「師匠! あなたの大事な一番弟子がただいま戻りましたよ!」
部屋の扉が開け放たれるなり、驚くほどに明るい声が飛び込んできて、ミリュウは、ダルクスと顔を見合わせた。すぐさま出入り口に目を向けると、なにやら大きな袋を抱え込んで入ってくる少女の姿があった。栗色の髪が揺れる様さえ可愛らしい。
無論、エリナだ。
ミリュウは、机の上に並べていた資料をひとつに纏めると、席を立った。上半身が隠れるほどの大荷物を抱えたエリナの足取りがあまりに不安定だったからだ。ダルクスも慌てて駆け寄っていたが、ミリュウが近づくと、そこで立ち止まった。
「おかえりなさい、弟子ちゃん。元気いっぱいね」
「はい! エリナはいつでも元気いっぱいですよー!」
荷物袋の向こう側から聞こえてくる声には、活気がみなぎっていた。昨夜の疲れ切っていたエリナからは想像もつかないほどの元気に満ち溢れた声音には、ミリュウも少しばかり茫然とするほかない。
「本当、心配したのが馬鹿らしくなるくらい元気でいやんなるわ」
「嫌にならないでください!」
「ならないけど」
エリナの威勢のいい反応には、つい頬が緩む。エリナは、ミリュウにとって心を落ち着かせる特効薬といってもよかった。かつてのセツナの役割を補っているとはいいがたいが、それにしたって、十分すぎるほどの力を発揮しているのは間違いない。エリナがいなければ、ミリュウは今日まで生きてこられたかどうか。
「それにしても、散々歩き回った挙句そんな元気になるなんて、一体どういうことかしら」
「それだけ、アガタラ観光が楽しかったんですよ!」
「そう……良かったわね」
「はい!」
ミリュウは、エリナが両手で抱え込んだ荷物袋を代わりに受け取ってやると、部屋の片隅に置いた。重い荷物袋だ。中になにが入っているのか、まったく想像もつかない。アガタラの各所でエリナのためにと贈呈された品の数々なのは間違いないが。
ふと見ると、エリナは、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔は、まるで太陽のような輝きを発していて、ミリュウは心が洗われるような想いがした。エリナの屈託のない笑顔ほど透き通ったものはない。彼女には悪意がないのだ。いつだって全力で突っ走っている。
ミリュウはエリナを手招きすると、不思議そうな顔で歩み寄ってきた彼女を優しく抱きしめた。なんの心配もしていなかったが、怪我ひとつ見当たらないことに安堵する。やはり、アガタラのウィレドは善良で温厚なのだろう。大君の命令ひとつで人間に手出しせず、それどころか丁重に扱ってくれているのだ。その点についてはなんの不満もない。エリナも無事に帰ってきた。
もっとも、これでエリナが怪我でもして帰ってきたのであれば、エリナとともに行動していた隊士たちの無能さにこそ憤ることになるだろう。彼らは優秀な武装召喚師なのだ。いつだって不測の事態に備えているべきなのだ。
「師匠?」
「おかえりなさい」
「さっきも、いいましたよ?」
「何度いってもいいじゃない」
「それは、そうですけど」
「楽しんできたのね」
「はい!」
エリナの返事を聞いて、ミリュウもう一度、彼女を慈しむように抱きしめた。エリナの華奢で、しかしながらしっかりと鍛え上げられた武装召喚師の体を感じ、体温を感じる。最愛の弟子である彼女にもしものことがあれば、そのときは、きっと正気を保っていられないだろうという確信がある。それくらい、ミリュウはエリナを溺愛していたし、依存しているといっても過言ではなかった。
エリナを抱きしめ終えると、彼女を寝台に招いた。エリナは元気いっぱいそのものだが、体力を消耗しているのは疑いようがない。いつ眠りに落ちても構わないようにしておこうと考えたのだ。エリナが寝台の上に腰を下ろす。そのちょっとした動作を見る限りでも、昨日とは違っている。精神面で充実しているのだ。
「でも、ひとつだけ残念なことがあって」
「なに? なにか問題でも起きた?」
「師匠も一緒が良かったなーって」
「なんだ、そんなこと」
「そんなこと、じゃないです!」
エリナがめずらしく怖い顔で、可愛いことを言ってくる。
「師匠はわたしにとってとってもとっても大切なひとなんです! だから、どんなときでも一緒がいいなーって」
「うふふ……可愛いこといってくれちゃって。そうね、今度の休養日には、あたしも御一緒させてもらおうかしら」
「はい!」
「あなたもね、ダルクス」
一瞥すると、武装したまま部屋の片隅に佇んでいた黒い戦士は、少しばかり驚いたようだった。こちらを見て、兜の奥の目をぱちくりとさせたように思えた。
それから、ミリュウは、エリナから今日一日でどこを回ったのか、なにを見て、なにを体験したのか、いろいろと聞いた。
アガタラ中を歩き回り、へとへとに疲れ果てながらも、昨日よりは遥かに活気を帯びたエリナの様子を見て、ほっとする。肉体的にはなにもせずにゆっくりと休むことが正解だ。筋肉を解したり、美味しいご飯を食べたりしながら、静養することのほうが体力の回復には効果的だろう。しかし、精神面ではそれが正しいとは、言い切れない。
特にエリナは、ここのところ大霊宮にこもりっぱなしだったのだ。黄金の宮殿は美しく、過ごしやすい場所ではあるのだが、いかんせん、どこもかしこも代わり映えのしない景色ばかりであり、それは湯殿にいっても同じだった。なにもかもが黄金づくしで、数日もすれば飽きてしまうものだ。なにより精神的に疲労し尽くしていたエリナには、気分転換こそが必要だったのだ。
外の空気を空い、あざやかな景色を見て回る。ただそれだけで、心は晴れ、気持ちも変わる。もちろん、それだけでどうにもならないことだってある。しかし、エリナの精神疲労はそれほど深刻なものではなかった。アガタラの各地を見て回るだけで回復し、それ以上に元気をみなぎらせられるくらいには軽いものだったのだ。
エリナは、文臣ファルクの案内により、アガタラの各地を観光している。アガタラは五つの区画からなる広大な地底都市だ。中心に大霊宮を抱き、南方に黒甲地、西方に白風丘、北方に朱天街、東方に青流河がある。それぞれ特色の強く出た地区らしいが、ミリュウは大霊宮以外、情報でしか知らない。エリナは、それらの地区を巡り、アガタラを満喫してきたということだ。
黒甲地ではウィレドの農場で農作業を体験し、牧場では乳牛の搾りたての乳を飲んだ。白風丘では、どこからともなく風が吹く丘を走り回り、転げ回ったといい、青流河では周りの制止も振り切って、川に飛び込み、皆を慌てさせたともいった。それから朱天街に赴き、茶屋で休憩しようとしたとき、驚くべきことに二君子が現れたというのだ。
まずサルグ=オセルが絡んできたそうだが、メルグ=オセルが仲裁に入ってくれた、という。サルグ=オセルとメルグ=オセルのひととなりが、少しだけ明らかになった。
「二君子がねえ」
「サルグ=オセルさんは人間嫌いって感じでしたけど、メルグ=オセルさんのほうはそうでもなかったです」
「エリナ。あなたの正直な感想を聞かせてくれる?」
「感想、ですか?」
きょとんと、エリナ。ミリュウの真剣そのものの質問に驚いたのだろう。
「ええ。なんでもいいの。サルグ=オセルとメルグ=オセルから感じたことなら、なんでも」
ミリュウは、エリナの感性を信じていた。彼女はどんな相手でも真正直に向き合う。その純粋な目線ならば、ミリュウには見えないことも見えるのではないか。
そんな風に彼女は考えた。