第二千五十五話 二君子(二)
お茶を啜り終えたファルクは、器を卓の上に置くと、鋭いまなざしをサルグ=オセルに注いだ。
「大君こそ、このアガタラにおける太陽。長い間眠り続けていた大君が、巫女様の御力によって目覚められた。アガタラの民が安息を取り戻せたのも、すべてはここに御座す巫女様のおかげ。そして巫女様は、いまもなお、大君の病を根本的に治療するため、日々力を尽くしてくださっておられるのです。そのことを踏まえた上で、人間だからと排斥なさるのであらば、我ら御側衆、大君に成り代わり、刃を以て立ち上がりますぞ」
ファルクが凄んでみせたものの、サルグ=オセルは取り合おうともしなかった。鼻で笑う。
「……ふん、よくいう。刃を持つのはセルクら武臣どもだろうが」
「文臣とて、大君の御恩人のためとあらば、立ち上がりましょう」
ファルクが椅子から腰を浮かせ、翼を広げてみせる。威嚇のつもりなのか、どうか。対するサルグ=オセルは、ふんぞり返ったまま、微動だにしない。エリナたちが固唾を呑んで見守る中、両者のにらみ合いが続く。ふと気づくと、茶屋前の騒ぎを知ったウィレドたちによる人集りができており、店前の大通りがウィレドたちで埋め尽くされていた。
事態が動いたのは、予期せぬ第三者の介入によって、だ。
「おやおや……なにやら騒ぎと聞き、駆けつけてみれば、サルグ=オセルとファルクではありませんか」
涼やかな声は、頭上から降ってきた。見上げると、ウィレドが一体、悠々と舞い降りてくるところだった。まさに悪魔の降臨といった有り様だが、サルグ=オセルのように配下のものたちを率いていないだけ、迫力はあまりない。しかし、漆黒の翼を広げる銀衣の怪物が紅い双眸を輝かせながら舞い降りる様は、幻想的というよりも悪夢の様相を呈しているとしか言い様がないのもまた、事実だ。
「それに人間の方々も勢揃いのようで……」
「メルグ=オセルか」
苦々しい口調で、サルグ=オセルがいった。彼の反応は、敵対者に向けてのものというよりは苦手意識のある相手に対するもののように思えた。
メルグ=オセルといえば、無論、もう一名の君子だ。サルグ=オセルと同じ白銀の装束を身に着けていることから、ウィレドの価値観においては銀は金に次ぐものであると認識していいようだ。メルグ=オセルは、サルグ=オセルに比べるとかなり華奢な体格に見えた。もちろん、人間と比較するまでもない巨体ではあるのだが、日頃の鍛錬がサルグ=オセルよりも少ないらしいことが彼の体の筋肉のつきかたから想像できる。サルグ=オセルは、武力こそすべてという考え方の持ち主であり、自身もその理念にそって肉体を鍛えているとのことだが、メルグ=オセルはそうではないというのだ。
ともかくも、大君マルガ=アスルが後継者候補に選んだ二名の君子が揃ったことになる。両者は昔から折り合いが悪く、特にここのところ会話さえすることがないという話は、セルクやファルクら御側衆から聞いていた。エリナが君子が揃ったことで緊張を覚えたのは、そのためだ。両者の間に流れるただならぬ空気が緊張感を助長する。
ファルクは、そんなメルグ=オセルの介入を喜んだ。文臣である彼にとっては、武を重んじるサルグ=オセルよりもメルグ=オセルのほうが話しやすいのかもしれない。
「おお、これはメルグ=オセル。ご覧のとおり、我々はここで少しばかり休憩しようとしていたところなのですが」
「そこへサルグ=オセルが現れ、難癖をつけられた、と」
地に降り立つなり、メルグ=オセルはファルクの台詞を引き継ぐようにして、苦笑した。すると、サルグ=オセルが彼を睨んだ。見つめ合うと、サルグ=オセルとメルグ=オセルの体格差がはっきりとする
「難癖とは物は言いようだな」
「違いますか?」
「違うな。俺は、道理を問うている」
「道理?」
メルグ=オセルは、その切れ長の目を細め、サルグ=オセルを見据えた。両者間の空気が一層、剣呑なものになっていく。微妙な関係らしいということは知っていたが、それにしても、仲が悪すぎるのではないか。両名がアガタラの次期大君候補といわれる君子という役割にあることは、エリナも知っていることだ。後継者同士仲良くすればいいのに、とエリナは想うのだが、どうやらそういうわけにはいかないようだ。
サルグ=オセルが強く肯定する。
「そう、道理だ。ここはアガタラ。我らの楽園であり、地上と断絶された世界であるべき場所。だというのに、地上を住処にするものたちがうろついているのだ。許されることではあるまい」
「なにを仰るかと想えば、そのようなことですか」
「そのようなこと、だと」
「そうでしょう。馬鹿げた話です」
「貴様……」
サルグ=オセルは、胸の前で組んでいた腕を解くと、身を乗り出した。そんなサルグ=オセルの反応を見て、メルグ=オセルは悠然とした態度で、語る。
「彼らは、巫女様とその従者の方々です。アガタラを闊歩していても、なんら不思議ではないでしょう。なにせ、我らが大君を長い眠りから呼び覚ましてくださった大恩人なのですから」
「人間だぞ」
「だから、どうだというのです?」
メルグ=オセルは、サルグ=オセルがどれだけ凄もうとも、まったくもって意に介さなかった。まるでそよ風の中に佇んでいるかのような涼し気な様子で、告げるのだ。
「サルグ=オセル。あなたは、あのまま大君が眠り続けていてもよかった、とでも仰るおつもりですか」
「……馬鹿なことを」
「でしょう。あなただって、大君がお目覚めになられたことには、喜んでおられたはずだ。大君は、我らの偉大なる父。太陽そのものといっても過言ではない。太陽の眠りは、明けぬ夜と同じ。遠い朝をひたすらに待ち、焦がれ続けた我らには、救いの巫女の御業に感謝こそすれ、恨み言をぶつける道理はないはずです」
「……ふん」
サルグ=オセルは、そっぽを向くと、顎で部下たちに指示を出したようだ。彼の部下であろうウィレドたちがつぎつぎと翼を広げ、茶屋前から飛び立っていく。そして、サルグ=オセル自身も翼を広げると、こちらを見た。メルグ=オセルでもファルクでもなく、エリナをだ。紅く輝く双眸の中には、敵愾心こそあれど、殺気は見当たらなかった。
「俺は人間を認めない。が、貴様には感謝を述べておく。有難う」
「あ……はい」
エリナは、予期せぬサルグ=オセルの言葉に驚くしかなかった。驚いている間に彼は飛び立っていて、エリナの返事が彼に届いたかはわからないまま、サルグ=オセルと部下たちの姿は朱天街の空から消えていった。エリナは、彼らの姿が南西の彼方に消えるまで見届けるしかなかった。
やがて騒ぎが収まると、野次馬のウィレドたちも安堵したように散っていき、茶屋の前には穏やかな静寂が訪れた。
「彼も、昔は素直だったんですけどねえ」
メルグ=オセルが当然のように空いている席に腰を下ろし、店主に茶を注文する。そのあまりにも自然な振る舞いから、彼が純粋に茶を飲みに来ただけなのだと知れる。
「はあ……」
「巫女様、気を悪くなさったのなら、申し訳ない。彼の代わりにわたくしのほうから謝らせていただきます」
「い、いえ……別にそういうのは、いいんです。ここはウィレドさんの国で、人間が自由気儘に歩き回るほうが良くないことで」
「それこそ、勘違いでしょう。あなた方は我が国の大恩人なのです。大恩人に対し、種族がどうの、過去の行き違いがどうのと喚くのは、お門違いも甚だしい。我らは、あなた様に心の底から感謝しているのですから」
メルグ=オセルは、人間への敵意を一切見せない笑顔でもって、エリナに感謝を示してきた。サルグ=オセルと対峙したときとはまるで違う、柔らかな気配だった。だれもが彼のようであれば、皇魔と人間が手を取り合うことも難しくないと想起させる。
「先程も申し上げたとおり、マルガ=アスルは我らが太陽。いま太陽を失えば、アガタラは無明の暗闇覆われ、絶望に包まれていたことでしょう。わたしやサルグ=オセルでは、太陽になり変わることもままなりませんから」
メルグ=オセルは、少しばかり残念そうな表情で、いった。大君後継者である君子の身でありながら、大君の後継者たりえない自分の力量不足を嘆く彼の気持ちは、少しだけわかる気がした。
メルグ=オセルの穏やかで慇懃な口調や仕草は、サルグ=オセルよりも余程親しみやすく、エリナもすぐに打ち解けていった。