第二千五十一話 アガタラの日々(三)
「どうしたものかしらね」
ミリュウは、自室に戻るなり、寝台に身を投げだすようにした。大きな金色の寝台に敷かれた敷布団は、ウィレドの強靭な肉体、体重に合わせられており、人間の体重では深く沈み込むことがないくらいにふかふかだった。アガタラの日常で最大の楽しみがこのふかふかの布団で眠ることといってもいいくらいに想えるのは、そのためだろう。地上にも、これほど寝心地のいい布団は存在しない。もし、地上に帰還することになった場合、願わくば敷布団だけでも持って帰りたいくらいだった。
自室といってはいるが、もちろん、ミリュウが所有している部屋ではない。アガタラ大霊宮天守内の一室をミリュウとエリナのために開放されているだけのことだ。ダルクスやほかの隊士たちは、数人ごとに部屋を貸し与えられている。
ミリュウとエリナの部屋は、ほかと比べて特別広く、また、特別高級そうな調度品が並んでいる。豪奢な寝台もそうだ。特別扱いを受けているのはもちろんミリュウではなく、エリナだ。大君みずからが救いの巫女と指名したのだ。大君に仕えるウィレドたちにしてみれば、丁重に扱わないわけにはいかないのだろう。そのおかげもあり、ミリュウたちは、日々の生活に大きな問題もなく、満足さえ感じていた。
とはいえ、いつまでもこの地下世界にこもり続けていられるわけもない。
ミリュウたちは、空中都市リョハンの武装召喚師なのだ。中でもミリュウは七大天侍と呼ばれるリョハン最高峰の武装召喚師にして、戦女神の使徒としての使命がある。いくらエリナのためとはいえ、長々と使命を忘れ、リョハンを離れている場合ではない。皇魔の国がどうなろうと知ったことではない、というのは、ミリュウの本音だ。たとえ大君の容態が悪化し、その結果アガタラが壊滅的な被害を出したとしても、人間の目から見ればどうでもいいことだ。皇魔は皇魔だけで問題を解決するべきであり、人間が干渉する余地はない。
皇魔の召喚から五百年以上の月日が流れた。その間、皇魔がどれだけの人間を殺してきたのか。数え切れぬほどの命が皇魔によって奪われ、無数の都市や地域が皇魔によって滅ぼされている。人間もまた、数え切れない皇魔の命を奪っているのだから問題ない、とはいえないのだ。もはや、両者の間の溝は埋めようがないほどに深く、広がりきっている。
アガタラのウィレドは、召喚当時、人間に歩み寄ろうとし、そのために共通語を覚えた、という。しかし、異界の存在であり異形の怪物であった彼らは、その外見だけで人間から拒絶され続け、ついには騙し討にあった。それ以来、アガタラのウィレドは人間に歩み寄ろうという考えを捨て、地下へ逃げた。地上には、人間が溢れている。どこもかしこも人間だらけであり、地上に国を作ろうものならば、人間の干渉を受けざるを得なくなる。ウィレドが人間に負けることなどありえないが、人間と敵対するのも、彼らにとって本意ではなかった。故に遥か地中に国を作ることで、地上との干渉を絶とうとした。
その判断は正しく、数百年来、アガタラは人間の干渉から逃れ続けることに成功した。
今日、その人間との不干渉という掟は破られることとなったが、それも彼らにしてみれば致し方のないことなのだろう。アガタラにとって大君の存在はこの上なく大きい。しかも、その大君は後継者候補を二名、選出してしまっていたのだ。大君自身が後継者をどちらか一名に絞らなければ、大君が万が一逝去した後、大混乱が起きかねない。
まず間違いなく、後継者争いが起きるだろう、とセルクは見ている。
「あたしたちになにができるっていうのよ」
ミリュウは、黄金色の天井を見つめながら、ぼやいた。室内には、彼女以外にダルクスがいる。彼をこの部屋に招き入れるのは滅多にないが、いまは特別だった。セルクの話を聞いたのは、ミリュウ以外、ダルクスしかいないからであり、隊士たちは皆、エリナとともに出かけているからだ。ダルクスは、壁にもたれかかるようにして、立っている。相も変わらぬ重装備だが、それが彼にとっての体の一部と想えば、見慣れるものだ。
セルクは、このアガタラが抱えている問題をミリュウに打ち明けると、協力を要請してきたのだ。問題とは無論、後継者問題のことだ。二名の君子のうち、どちらが次の大君に相応しいのかを決めるのは現大君マルガ=アスルであり、そこはセルクたちが口出しできる領域ではないため、大君の判断に任せるほかはない。しかし、大君が昏睡状態に陥っている間に君子のどちらかがエンデと秘密裏に繋がった可能性が極めて高い以上、その判断を誤らせるわけにはいかないのだ、と彼はいった。
もし、次の大君がエンデと繋がっているものとなれば、アガタラの政にエンデの思惑が絡んでくるに違いなく、エンデの意向が反映されれば、これまでの数百年の安寧を失わざるを得なくなるだろう。なぜならばエンデは、形の上でこそ人界との干渉を拒絶しているが、実際は、地上に勢力圏を広げることを夢見ているからだ。エンデのウィレドたちは、地上より人類その他多くの種族を排除し、ウィレドのみの楽園を築き上げることを夢想し、アガタラにもそのために協力するようにいってきたことがあるのだという。
もちろん、アガタラはエンデの要請を拒んでいる。だからこそ、アガタラは平穏を維持することができているのであり、これからもその方針が変わることはない。ただし、つぎの大君がエンデと繋がっている君子になれば、話は別だ。そのものは、必ずやアガタラとエンデの結びつきを強め、エンデの地上侵攻に協力することになるだろう。
セルクは、なんとしてでもそれを阻止しなければならない、と考えている。そしてそれは、必ずしもアガタラのためだけではない、と彼は力説した。地上の人間、特にアガタラにほど近いリョハンの人間にとっても、エンデとアガタラの地上侵攻を回避することは得策であり、ミリュウたちとセルクたちの利害は一致するはずだ、というのだ。
「確かに利害は一致するわよ。でも、ねえ」
ダルクスがゆるりと頭を振った。彼も、当惑している。
セルクは、ミリュウたちに二名の君子のうち、どちらがアガタラを裏切り、エンデと繋がっているのか調べ上げることに協力して欲しいといってきたのだ。ミリュウは即答を避け、考える時間を求めた。セルクは、あまり時間はない、という。なぜならば、大君マルガ=アスルは、容態の安定しているいまのうちに後継者候補を絞り込むと明言しているからであり、マルガ=アスルが君子を一名に絞り込んでからでは遅いからだ。君子が一名に決まってからでは、セルクたちでは覆しようがなくなる。君子は本来、次期大君そのものであり、その存在は神聖不可侵、セルクたち大君の御側衆にも触れ得ざるものとなるのだ。
マルガ=アスルがなにを血迷ったのか、君子を二名、選出したことが君子の神聖性を失わせ、セルクら御側衆が付け入る隙ができている。が、それは大きな間違いだ、とセルクはいう。大君が最初から君子を一名に絞っていれば、後継者問題など起きようもなかった。ましてや、大君が昏睡状態の間も、大きな混乱が起こることもなく、人間の手を借りようと考えることもなかった。すべては、大君の優柔不断が招いた事態であり、そのことは、セルクたちも苦々しく想っているようだ。君子を二名選出するという前代未聞の事件を起こした大君が昏睡状態に陥ったのだ。御側衆も頭を抱えただろう。
そしてそのために二名の君子のどちらかが焦ったのだろう、と、セルクは考えている。後継者が選定されぬまま大君が命を失えばどうなるか。二名の君子は、君子の座を返上し、御側衆を含め、すべてのウィレドの合議制の上でつぎの大君を選ぶことになる、というのだ。大君によって後継者である君子に指名されるのは通常一名であり、その場合は大君が命を失ったとしても君子の役割を返上する必要はなく、そのまま大君を受け継ぐことができるのだが、複数名の場合はそうはいかないらしい。
故に、二名の君子のうち、いずれかが、大君が回復しないことに焦りを覚えた結果、エンデと手を結んだのではないか。エンデの武力をもってアガタラの支配者となるか、あるいは単純に競合相手を排除し、君子を自分だけのものにすることで、後継者としての君子の座を確実のものとするためか。いずれにせよ、アガタラの法理を無視する行いであり、許されることではない。
そのようなやり方で大君の座につくようなものの元では、アガタラの平穏は長くは持たないだろう。なにより、弱みを握られた大君は、エンデの地上侵攻に協力せざるを得なくなるのだ。アガタラの民はそのほとんどが争いを嫌う平和主義者であり、博愛主義者だ。そのため、武官になろうとするものは少なく、セルクのように武臣として取り立てられるものも多くはない。地下に隠れ住んだのも、人間に勝てないからではない。争いを嫌ったからにほかならないのだ。
エンデのために地上侵攻に協力するなど言語道断であり、そのためにもエンデの内通者ともいえる君子を見つけ出さなければならず、そのためにもミリュウたちの協力が必要だ、とセルクはいった。
「あたしたちになにができるっていうのかしら」
ミリュウは、自分にできることを考えながら、ぼんやりと天井を眺め続けた。
エンデがアガタラやそれ以外のウィレドの国々と協力し、地上侵攻を開始するとなると、リョハンにとっても面倒なのはいうまでもない。セルクに協力し、内通者を見つけ出すことでアガタラを安定化させ、エンデの地上侵攻を諦めさせることがリョハンにとっても利益となることはわかっている。確かに利害は一致するし、大君の治療中、暇を持て余している隊士たちを動かすのも吝かではない。
しかし、アガタラは、ウィレドの国なのだ。
密偵のようなことを行うには、人間はあまりにも目立ちすぎる。
では、いったい、なにができるというのか。
セルクはなにをミリュウたちに期待しているのか。
彼女は、あまりにも柔らかすぎる布団に包まれながら、ただひたすらに考え続けるのだった。