第二千五十話 アガタラの日々(二)
アガタラは、いくつかの問題を抱えている。
ひとつは、大君の病だ。
アガタラの統治者にして支柱、神に等しい存在である大君が白化症を患い、意識を失ったことは、アガタラの民にとって重大な問題として認識され、だれもが一日も早い快復を祈り、願っていた。故にエリナがフォースフェザーの力によって大君を昏睡状態から回復させると、それだけで歓喜に包まれ、エリナが忌み嫌っているはずの人間であるということさえ忘れ、救いの巫女として敬い、尊びさえしたのだ。
以来、ミリュウたちはエリナの関係者ということで丁重に扱われ、皇魔への認識を改めなければならないと想うほどだった。
もっとも、その問題はなにひとつ解決していない。
大君マルガ=アスルは、昏睡状態より回復したものの、いまだ病床にあり、白化症との戦いの日々を送っているのだ。意識を取り戻したことで、大君を頂点とするアガタラの国政は正常化の一途を辿っているものの、このままでは、またいずれ白化症に意識を侵され、昏睡状態に陥るのは目に見えている。故にマルガ=アスルは、エリナに治療の続行を願い、エリナもこれを了承した。以来、治療に当たっているものの、回復の目処は立っていない。
当然の結果だといえた。
これまで、数多の武装召喚師が白化症の治療を試み、失敗している。それらはいずれも治癒に特化した召喚武装を用いたものであり、エリナのフォースフェザーは治癒に特化した召喚武装ではないのだ。治癒能力こそ持っていて、マルガ=アスルの意識を取り戻すことには成功したが、それ以上の成果は挙げられていなかった。エリナがこのまま治療行為を続けても、白化症から回復させることはできないだろう、と、ミリュウは見ている。
エリナ自身は、マルガ=アスルの治療を諦めておらず、まだまだ続けるつもりのようであり、ミリュウは彼女の気の済むまでやらせるつもりになっていた。リョハンのことは気になったが、ミリュウたちが不在でも防衛戦力は事足りるだろうし、自分たちが必要になるような大きな問題など起きないだろう、と考えてもいる。ミリュウ隊の隊士たちには可哀想だとは想ったが、これも将来の偉大な武装召喚師のためだと想って諦めてもらうほかない。エリナの成長は、将来的にリョハンに好影響を及ぼすに違いないのだ。
大君の病そのものは完治していないものの、大君の体調は、万全になりつつある。まるで白化症に冒されているとは思えないほどの快活さで、日々、治療の合間を縫ってはアガタラの政に口を出し、御側衆を慌てさせている。
セルクら御側衆は、マルガ=アスルがそこまで回復できたのは、一重にエリナのおかげであり、ミリュウたちに感謝してもしきれないと毎日のようにいってきた。そして、十日以上に渡って治療を続けるエリナを女神のように敬っていた。
大君の病に関しては、それ以上の進展はない。
もうひとつ、後継者問題がある。
アガタラは、大君を頂点とする社会が形成されている。
大君は、リョハンにおける戦女神に等しいかそれ以上の存在であると考えればいい。アガタラのウィレドにとっての光であり、まさにアガタラという地底世界を支える柱なのだ。大君が病に倒れればそれだけでアガタラの未来は暗黒に閉ざされるといい、実際、マルガ=アスルが病床にあったころ、アガタラのウィレドたちはどうしようもなく暗い空気に包まれ、夢も希望もないといった日々を送っていたという。だからこそ、マルガ=アスルを回復させたエリナを救いの巫女として受け入れるだけでなく、心の底から称え、敬っているのだ。
たとえばリョハンがそのような状況になれば、まったく同じような現象が起きたに違いない。リョハンの戦女神が不治の病で倒れ、その病をウィレドが癒やしたとなれば、だ。リョハンの民は、手放しでそのウィレドを賞賛しただろうし、敬いこそするかもしれない。
リョハンにとって戦女神はそれほどまでに大切な存在だったし、アガタラの大君もそれと同程度かあるいはそれ以上に重要な存在だったのだ。
そして、リョハンが戦女神の後継者問題で揺れたように、アガタラも大君の後継者問題で揺れている、という。
ウィレドは、人間よりも長命の種族だ。百年以上生きるのはざらであり、二百年から三百年もの長い年月を生きるウィレドも少なくないという。しかし、五百年も生きるウィレドは殆どおらず、多くはそれまでに天寿を全うする。大君もその例に漏れない。大君という役割以外、一般のウィレドとなにひとつ変わらないのだから、当たり前だ。
大君には、その寿命が尽きる前に後継者を選定するという大事な役割がある。大君が次代の大君を選ぶことにこそ意味があり、そうすることで、すべてのウィレドが納得するのだ。アガタラのウィレドはほとんどすべてが血縁で結ばれているのだ。王家、王族のような特別な血筋は、すべてのウィレドに流れているといってもいいらしい。どうやって繁殖するのかはわからないが、どうやらそういうことのようだ。
故にこそ、大君になる可能性はすべてのウィレドにあるといい、大君みずからが後継者を選定しなければならないのだ。
アガタラには、君子と呼ばれる二名の後継者候補がいた。
君子は、大君が次期大君に相応しいウィレドに与える役であり、君子に選ばれたものの中からつぎの大君が選ばれることになっている。つまり、アガタラの次期大君は、その二名の君子のいずれかに絞られているということであり、特に問題もなさそうに思えたが、どうやらそうではないらしい。
「後継者候補が二名いて、そのいずれかを大君に選ぶだけのなにが問題なのかしら? 大君は意識を回復され、いまは精力的に活動されているでしょう?」
後継者を選ぶことになんの問題もないはずだ、と、ミリュウはセルクに問うた。それは、エリナの体調を考え、治療を休んだ日のことだった。エリナは、ミリュウ隊の隊士たちとアガタラの市街地を散策するため、大霊宮を離れていた。毎日大霊宮の自室と大君の居室を行き来するだけでは、息が詰まるだろうというミリュウの配慮であり、気分転換のためだ。
一方、ミリュウは、ダルクスとともに大霊宮に残っていた。セルクに話があると、呼ばれたからだ。
「それが、問題になるやもしれぬ」
「どういうこと?」
君子は二名。アガタラの東部区画青流河に居を構えるメルグ=オセルと、西部区画白風丘に住むサルグ=オセル。いずれも元御側衆であり、大君マルガ=アスルの寵愛と薫陶を受け、君子に任じられたという話だった。二名とも、マルガ=アスルが回復するやいなや大霊宮に飛んできたというが、ミリュウたちは顔を見たこともなかった。
いずれも他のウィレド同様人間嫌いであり、ミリュウたちと顔を合わせるとどうでるかわからないということもあり、顔を合わせずに済むように手配されたというわけだ。いくらセルクたち御側衆でも、君子の行動を止めることはできず、彼らがもしミリュウたちに手を上げるようなことがあっても、どうしようもないからだということだ。もっとも、そのようなことがあれば、ただちに君子の役を取り上げられるだろうが、人間嫌いも度を越せば、自分の立場など気にはしないだろう、とセルクはいった。アガタラのウィレドの中には、いまもなお人間への嫌悪や憎しみを隠さないものがいるようであり、二名の君子もそうらしい。
「我が貴殿らと出逢ったとき、覚えているか?」
「ええ。もちろん。エンデの連中に敗れて、落ちてきたのよね」
「口惜しいことだがな」
セルクが苦い顔をした。
十数日以上に渡る逗留の成果か、ミリュウは、いまやウィレドの些細な表情の変化すら理解できるようになっていた。
「エンデは、ここより遥か北に都を持つ。我らが地下に身を隠したのとは逆に、あれらは山の上に国を作った。天に近い場所にいたいというのは、我らの習性故、わからぬことではないが……」
「北の山……ねえ」
エンデがあるのは、リョハンの周辺領域よりも遥か北に位置する山に違いない。でなければ、これまでの周辺領域調査で発見し、調査部隊が攻撃を加えている可能性があるからだ。リョハンの周辺領域調査は、リョハンの安全のため、皇魔の“巣”を滅ぼすこともその任務に入っている。
「そうだ。エンデは、普通、その山を降りることがない。山を降りるということは人里に近づくということ。彼らが山の頂に国を作ったのは、人界に関わりを持たぬようにするため。我らが地下に潜ったのと同じだな。わざわざ人界と関わりを持つなど、人間どもに攻め入られる口実を作るようなものだ」
「つまり、エンデがあれほどの人数を繰り出してきたのは、おかしなことなのね」
「通常、ありえぬことだ」
床の上に胡座をかいたセルクが、厳しい顔をさらに厳しくした。大霊宮天守内の一室。ミリュウとダルクス、セルクの三名だけが室内にいる。
「いくら世界が変わり果て、人界の秩序が崩壊したからとはいえ、山を降り、勢力を拡大する好機と捉えるのは慎重極まりないケルグ=アスルとも思えぬ愚かな振る舞い」
「ケルグ=アスル?」
「エンデの大君の名だ。ケルグ=アスルは先代大君テトラ=アスルの思想を受け継ぎ、エンデの維持と安定のみに注力してきたはずだ。それがいまさら勢力拡大を望むなど、少々考えにくい」
「絶対にありえない、っていえるの?」
「いや……いえぬな。だが、人間との争いを嫌って山に籠もった連中が、人間との争いの火種となりかねないことをするとは思えぬのだ。貴殿らリョハンの人間が、エンデの連中の襲来を目の当たりにすれば、黙ってはおられまい?」
「まあ、そうね」
ミリュウは、静かに肯定した。その通りというほかない。リョハンの勢力圏内に皇魔の軍勢が押し寄せてきたとなれば、防衛のため、戦力を出さざるをえない。
「となれば、エンデとリョハンの間で戦争が起こることになりかねん。いくらエンデの連中とて、ヴァシュタリアに対し独立不羈を貫いたリョハンに闘いを挑もうなどと想うはずもない」
「そこまでは知っているのね?」
「地下に籠もっているからといって、情報収集を怠るわけにはいかぬ。それでは時代に取り残されかれぬからな」
「そのわりには、武装召喚術のことは知らなかったみたいだけど」
「まさか、治癒魔法に匹敵するものとは知らなんだだけのことよ。リョハンが武装召喚術なる業でヴァシュタリアの支配を脱却したことは、よく知っている。故にこそ、エンデの行動は異常といわざるを得ぬのだ」
三大勢力の一角たるヴァシュタリア共同体、その圧倒的戦力をものともせず、独立し、自治を勝ち取ったリョハンと対決するなど、ウィレドにも考えられないことだ、と彼はいうのだ。実際、彼の考えは、正しい。ただでさえ圧倒的な軍事力を誇るヴァシュタリアから独立自治を勝ち取り、維持し続けたリョハンの戦力は、並大抵ではないのだ。少なくとも、ウィレドの国だけで対抗しえるものではあるまい。その程度の戦力ならば、ヴァシュタリア軍に攻め滅ぼされたに違いないのだ。
「……なにか思い当たるフシはあるのかしら。君子の話との繋がりがわからないのだけれど」
「君子は元来、もっとも相応しい一名のみが選ばれることになっている。それが我らの父祖伝来の掟であり、絶対の法理だった」
セルクは、難しい顔をして、続けた。ミリュウたちの頭の中に浮かんだ疑問を察するように。
「マルガ=アスルは聡明であり、歴代の大君の中でも特に優れたる指導者だが、ひとつだけ難点があるとすればそこなのだ。マルガ=アスルは、後継者たる君子を二名、選出してしまった」
苦渋に満ちた声は、彼がその選択を誤りだと想っているからなのだろう。
「メルグ=オセル、サルグ=オセルの両名は、確かに大君に相応しい実力と器を兼ね備えている。だが、本来であれば、君子に選ぶ段階でどちらか一名に絞り込むべきだったのだ。マルガ=アスルは、それができなかった。その結果、両名は、どちらが後継者に相応しいか、相争うようになった。そしてその争いは、大君が病臥されてより激化しているのだ」
「……まさか」
ミリュウは、はっとセルクの目を見つめた。紅く輝く双眸からは、感情を窺い知ることはできない。
「セルク。あなたは、どちらかがエンデの連中を呼び込んだっていうんじゃないでしょうね?」
「そうだ」
彼は、ひそやかにうなずいた。
「それ以外、考えられぬ」