第二千四十九話 アガタラの日々(一)
大霊宮は、大君の住まいであり、アガタラの中心だ。防衛上の観点から迷宮のように入り組んだ内部構造をしているものの、ミリュウたちに開放された区画は、大君の居室がある天守の内部であり、天守との行き来に迷うことはなかった。ただし、大霊宮内部を歩き回ろうとするとウィレドの道案内が必要であり、大霊宮の外へ出ようとすればそれだけで大騒ぎだったりした。
とはいえ、ミリュウたちの生活というのは、苦もなく、不都合もなかった。大君を回復させた救いの巫女とその従者ということで、とてつもない好待遇を受けたのだ。ある意味当然だと想う反面、人間嫌いの皇魔がまさかそこまで感激し、感動の中で手厚く対応してくれるなど考えられるわけもなく、ミリュウたちは、アガタラの日々の中で面食らうことしばしばだった。
衣食住のうち、もっとも住も食もなにひとつ困らなかったのは、アガタラが人間の文化の影響を限りなく受けているからだ。大霊宮の作りそのものが人間の建造物を模し、そこに防衛のための手を加えているといった感じであり、基準がウィレドの体格に合わせているという以外、問題はなかった。食もそうだ。人間の見様見真似で始めたという農業は、いまやアガタラのウィレドたちにとってはもっとも人気の仕事であるといい、農作業に従事するウィレドたちが巫女様のためにとできたての野菜や穀物を捧げ物として送りつけてくるものだから、それらを調理したものを食べるだけで十分に腹が満たされた。
唯一の難点は、服だ。
こればかりは、人間とウィレドではまったく価値観が違っていた。
強靭な外皮に覆われたウィレドは、そもそも衣服を身に着ける必要がないのだ。むしろ、なにかを身につけるということは怯懦の証とされ、傷一つない漆黒の肉体を曝すことこそが美徳とされた。にも関わらず大霊宮の門番など、要所要所に配置された兵が鎧兜を着込んでいるのは、それもまた人間の文化の影響であるといい、先代の大君ナルガ=アスルが命じて以降、そうするのが慣例となったとのことだった。そしてそれは、大霊宮で働くウィレドたちの誇りとなり、いまでは、衣服鎧兜を身につけられるのは、一部の限られたウィレドだけという風になっているという話だった。
そして、そういった特権階級のウィレドのための衣服は、当然、ウィレドの体格に合わせて製作されたものであり、ミリュウたちの体格には絶望的に合わなかった。もっとも、セルクが地上に捨て置かれていた馬車と馬車の残骸を持ち運んできてくれたため、事なきを得ている。周辺領域調査は数日以上に渡る長期任務のため、馬車にはそれ相応の荷物が積み込まれているのだ。
つまり、ミリュウたちのアガタラでの生活そのものには、なんの問題も生じなかった。
ミリュウは、エリナ、ダルクスとともに大君の居室と自室を行き来するだけといっても過言ではない日々を送っていたが、部下の隊士たちは、大霊宮内部の探索や、アガタラの各地をセルクに案内されて歩き回ったりしたようだった。さすがに大霊宮の一室に閉じ込めておくのは可哀想だと想ったのか、それとも、別の意図があるのか。いずれにせよ、一室に閉じ込められ、不満や鬱憤を溜め込むよりは、幻想的なアガタラの光景を目に焼き付け、気分転換するほうが健康的ではあるだろうし、隊士たちの不安を押さえ込むにも効果的だろう。
ミリュウ隊に属するだれもが、マルガ=アスルの治療にしばらくの間力を貸すというミリュウの方針に理解を示したわけではないのだ。半数以上が、要件が終わったのであれば、すぐにでもリョハンに戻るべきだと主張し、ミリュウも、それも正しいと認めた。認めざるを得まい。そもそも、皇魔に力を貸すこと自体、本来あるべきことではないのだ。それを曲げてまで力を貸し、結果が出ている。これ以上の協力は不要であり、ただちにリョハンに帰還するべきだという正論には、反論の余地がなかった。
それでも、ミリュウはエリナの意向を汲みたかったし、彼女の可能性を追求したかったこともあり、隊士たちの意見を封殺した。もし万が一、アガタラのウィレドたちがリョハンにとって害をなす存在であれば、そのときは、ミリュウが命を賭してでも滅ぼし、リョハンの安全を確保すると約束して。
そこまでいえば、隊士たちも意見を引っ込めざるを得ない。調査隊の隊長はミリュウであり、ミリュウの意向こそが、隊の意向なのだ。従いたくないのであれば、隊を抜ける以外にはなく、隊を抜けるということはいま約束されている安全を捨て去ると同義だ。護峰侍団の優秀な武装召喚師たちには、それがどういうことか理解できただろうし、だからこそ、彼らは唯々諾々とミリュウに従うことにしたのだ。
それには、アガタラのウィレドがミリュウたちに対し、極めて友好的で温厚な態度を見せていることも大きいだろう。人類の天敵たる皇魔が人間に対し謙るなど、普通、考えられるものではない。皇魔とは残忍で狡猾、非道というのが一般常識であり、定説だった。人間を見れば襲わずにはいられず、殺し尽くさずにはいられないのが皇魔なのだとだれもが想っているし、そういう生き物であると信じて疑わない。
だが、アガタラのウィレドたちは、エリナが大君を救ったからとはいえ、人間に対し、殺意はおろか敵意さえ見せず、むしろ、こちらが身構えてしまうくらいに卑屈だった。
当初こそ、ウィレドたちの態度の激変ぶりに疑念を抱いていた隊士たちも、数日もすれば、疑っていたことすら恥じるようになった。いずれのウィレドも、心から、大君の回復を喜び、いまもなお大君の治療に尽くすエリナに感謝していることが伝わってくるからだ。
「彼らの気持ち、少しはわかる気がするんです」
隊士のひとり、ケーリア=バスガルンが、馬の尾のように結わえた髪を揺らしながら、ウィレドたちへの感想を漏らした。
「もし、先代様が大君のように回復なされたなら、きっと、彼らのように泣いて喜んだでしょうから」
先代戦女神ファリア=バルディッシュのことだろう。
二代目戦女神ファリア=アスラリアの祖母であり、先代の戦女神であったファリア=バルディッシュは、“大破壊”よりも以前にこの世を去っている。天寿を全うしたのだ、と、いう。老齢だった。確かにその通りなのだろうが、だれもが、ケーリアのようにも考えたことだろう。もし、戦女神様を治療することができたならば、と。戦女神が体調を回復させ、立ち直ったならば、人間宣言など撤回し、支柱として返り咲いてくれるに違いない。そうすれば、リョハンは再び平穏と安寧に包まれるのだ――と。
リョハンも、アガタラと同じだ。
戦女神と大君。
成り立ちと歴史の重みこそ違うものの、本質的には同じようなものなのだ。
「だから、わたしは反対はしませんが……」
その夜、ケーリアがミリュウにだけ聞こえるように囁いたのは、エリナがマルガ=アスルの治療に専念していることについてだった。
「いつまでも続けられるものでもないですよね」
「ええ。そのへんは、わかっているわ。あたしも、この子もね」
ミリュウは、彼女の太ももを枕にして眠る弟子の髪を撫でながら、告げた。ケーリアのいうとおりだ。成果の上がらないことを無限に長く続けることに意味はない。大君の病状に改善が見られないのであれば、治療を打ち切る以外にはないのだ。
エリナの武装召喚師としての修練になっていることは、間違いない。彼女は、大君の治療を続ける中で、これまでにないほどの速度で成長を遂げていた。それこそ、ミリュウの課してきた修練が生温かったのではないかと勘違いしてしまうほどの成長速度は、彼女自身の類まれな才能と毎日限界まで能力を酷使し続けていることによる相乗効果にほかならない。普通、訓練というのは、余力を残すものだ。たった一日の訓練ですべてを使い切り、翌日以降使い物にならなくなっては成長もなにもあったものではない。故にミリュウは、訓練の予定を組む際、ある程度の余裕をもたせるのだが、それが常識的な判断というものだろう。いち早く成長させるために無理をさせるなど以ての外であり、無意味で無駄なことだ。
そんなミリュウのごく常識的な考えを凌駕するかのようなエリナの成長ぶりには、彼女も言葉を失うほかなかったし、それだけの無理をしながらも音を上げるどころか、泣き言ひとついわない彼女の責任感の強さには感動すら覚えたものだ。ただ、だからといってこのまま無理をさせ続けるつもりはなかった。いくら毎日の限界を越えるような武装召喚術の行使が彼女の成長に繋がっているとはいえ、エリナの心身に負担がかかっていないわけがないのだ。折を見て休ませるつもりだった。そうでもしなければ、エリナは休むことなく無理をし続け、やがては体を壊すだろう。それだけは避けなければならない。体を壊せば、それまでの経験、成長がすべて無駄になりかねないし、なにより、エリナのためにならない。
マルガ=アスルの容態よりもエリナのことのほうが大切なのは、ミリュウにしてみれば当然のことだった。
とはいえ、マルガ=アスルの容態についても決して無視しているわけではない。ほぼ毎日、エリナとともに大君の居室に赴き、エリナによる治療行為を見守っているのだ。気にしないわけにはいかなかったし、一向に良くなる気配のない白化症の様子を見て、頭を抱えたくなってもいた。
エリナは、成長している。日々、フォースフェザーの治癒能力を限界以上に引き出すということを繰り返すことで、精神的、技術的な面で劇的な成長を遂げているといってもいい。その分、フォースフェザーから引き出される力も増加傾向にあり、治癒能力も最初に比べて大きく強化されているようだった。ただの怪我や負傷程度ならばあっという間に治療してしまうだろう。しかし、白化症には、なんの効果も及ばさなかった。少なくとも、白化症に冒されたマルガ=アスルの左翼は白く変色し、変容したままであり、元の黒い翼に戻る気配さえないまま、日々が過ぎていく。
何日も何日も、毎日数時間以上に渡って治療に当たっているのだが、なんの成果も上がらないのだ。
やはり、召喚武装の能力でも白化症の根本原因を除去することはできないのではないか。
エリナに付き添うことしかできないミリュウは、弟子の頑張りを理解しながらも、そう考えるほかなかった。
そして、そうであれば、成果のでない治療行為を続けることに意味などないのではないか、と思わざるをえない。エリナの成長には役立っている。ただの訓練、修行よりも、彼女の能力を引き出し、精神と技術、両方の成長を大きく促進していることは確かだ。しかし、そんなことは、別に急ぐ必要のないことだ。なにもいますぐ彼女を一流の武装召喚師に育て上げなければならない、という状況にはなかった。むしろ、地に足をつけ、じっくりと時間をかけて鍛え上げていくべきなのだ。
ここに長々と留まる理由など、どこにもない。
とはいえ、日々、大君の治療に当たるエリナを見ていると、大君のことは諦め、リョハンに帰還しよう、などとはいえなかった。
いえないまま、日々が過ぎた。
すると、アガタラがいくつかの問題を抱えているということも知れてきた。