第二百四話 魔女魔龍
「残念」
ウルは、支配の糸が一本、ぽつりと切れたことを認識した。彼女が下した命令を実行しようとしてしくじったに違いない。
糸、というのは感覚的なものだ。最大で十本の糸を用い、他人の意識を支配する。そういう感覚が、彼女の中にはあった。もっとも、実際に糸を使うわけではないし、目に見えるものでもない。しかし、彼女は被支配物との繋がりを常に感じており、それはまるで見えざる魂の糸だった。
糸は、最大で十本、彼女の魂から伸びていく。普通の人間ならば、一本の糸で十分に操ることができた。意識を拘束し、精神を制圧することができた。しかし、ランカイン=ビューネルのような強烈な自我の塊は、一本や二本ではとても支配することは難しく、結局、半数以上の六本を使わなければならなかった。おかげで彼は従順な狗と成り果てたものの、彼女が自由に扱える糸は四本になってしまった。つまり現状では最大でも四人までしか支配できないのだ。
カイン=ヴィーヴルは、優秀な武装召喚師だ。死ぬまで支配し続けなければならない。支配を弱めることも、解くこともできないのだ。彼の支配を緩めるのはあまりに危うい。彼はただでさえ凶悪な人格の持ち主であり、支配していない限り、だれのいうことも聞きはしないだろう。だからこそ、ウルが彼の魂を拘束する必要があった。それだけの価値があったのかは、ウルにはわからない。
もっとも、残り四本の糸は自由に使えるということは、大抵の人間は支配下に置くことができるのだが。
そしていま、四人の敵兵を支配下に置き、ついさっき、ひとりが死んだ。残り三人は、仲間との戦いに興じている。突然仲間に襲い掛かられた敵兵たちの狼狽ぶりには、溜飲が下がるものだった。
ザルワーン兵たちが目の当たりにしたのは明確な裏切り行為であり、説得にも応じようともしない連中に対しては、剣を取って応戦するしかないのだが、仲間なのだ。即座に攻撃に移れるはずもない。しかし、ザルワーン兵が逡巡している間にも、ウルの操り人形たちは彼らに襲いかかる。なんの躊躇もなく剣を振り回し、槍を叩きつける。兵士たちがどれだけ呼びかけても、聞く耳も持たなかった。当然だろう。人形たちは、ウルの支配下にあり、ウルの命令こそが絶対正義なのだと思い込んでいる。だからこそ迷いなく、味方を攻撃することができるのだ。
彼らは操られているという実感さえないのかもしれない。
ウルは、手近にいた兵士を支配すると、再び敵指揮官の元に向かわせた。フォード=ウォーンという名は、最初に支配した兵士から聞き出している。第五龍鱗軍の副将らしい。総大将となった前翼将エイス=カザーンは別方面の部隊を指揮しているようだ。あちらは数で圧倒できるだろう。心配する必要もない。
また一本、糸が切れた。
指揮官の元へ向かわせた兵士ではない。前線で仲間とやり合わせていた兵士が、仲間によって殺されたのだろう。
ウルは冷ややかに笑うと、つぎの傀儡人形を探した。
「武装召喚」
カイン=ヴィーヴルは、三度目の武装召喚術を行使した。
敵軍を混乱させ、自軍にとって有利な状況を作り上げた火竜娘を送還したのは、これ以上炎を用いると、予期せぬ火事を引き起こしかねなかったからだ。ここに至るまで何度となく放った炎が家屋に燃え移らなかったのは、幸運に過ぎたのかもしれない。無論、計算して撃ってはいる。が、すべてが計算通りに行くことなどそうあるものでもない。
カインが改めて召喚したのは、一振りの刀だ。竜人。魔龍窟の武装召喚師が基礎として学ぶ呪文によって召喚されるそれは、性能的に特筆すべき所のない召喚武装だった。特徴がないのが特徴ともいうべき刀は、基本性能においては通常兵器よりも格段に優れている。切れ味は抜群だったし、なにより火竜娘や地竜父よりも感覚の強化率が高かった。
肥大した感覚が、市街地の各所に配置された兵士の居場所を告げてくる。左前方、人家の屋上に五名。弓兵が矢を引き絞っている。反対側の家の屋根にも兵士たちが隠れており、地上の兵士たちは盾を構え、その背後には槍兵がいる。長槍。闇雲に突撃すれば、手痛い反撃を食らう。
敵兵は後方にも数えきれないほどいるのだが、それらは火竜娘の炎によって陣を乱されており、自軍兵士たちの手柄となるだけだ。
矢が一斉に解き放たれる音が聞こえた。直線ではなく、放物線を描いて迫ってくる矢の数は五本。カインは、横倒しになって落ちるように馬から降りた。器用に着地しながら矢をかわす。矢はカインを狙っていたのか、馬はかすり傷ひとつ負わなかったようだ。
馬を置き去り、前方の敵部隊へ向かう。目標を見失った弓兵がつぎに射掛けてくるまでの短時間で間合いを詰めるのだ。盾兵は眼前。盾の隙間から伸びてきた槍を竜人の一閃で切り飛ばし、ぎょっとした盾兵に足払いを決めて転倒させると、カインは倒れた兵士を飛び越えた。
「敵はひとりだ!」
「囲め囲め!」
カインが着地したのは敵軍の真っ只中だ。槍兵も盾兵も前後に散開し、カインを挟撃する陣形を作る。彼は左に飛んだ。矢が地面に突き刺さる。弓兵の高い命中精度が、仇になっているのだ。弓が放たれた瞬間に動けば、間違いなく回避できる。射線上の味方に当てるわけにはいかない以上、弓兵はカインの立っている地面を狙うしかない。
それでも、普通ならば脅威にしかならない。敵弓兵の居場所は地上からは見えず、どこからともなく飛来する矢を避けきるなど、不可能に近い。勘で回避するなど論外だ。やはり、こういう場面では竜人が役に立つ。
西側の敵兵は全部で五百ほど。そのうちの半数が、カインの後方でガンディア兵との戦闘を行っており、大半が死んだはずだ。たかだか二百人そこそこを相手に、千人の軍勢が押されるはずもない。地の利を活かせば、寡兵でも戦えたのかもしれないのだが、火竜娘がそういった作戦もぶち壊したようだ。立ち上る火柱が混乱を呼び、統率を乱した。
カインが敵兵を哀れんだのは、愚かな指揮官の愚かな作戦によって死ぬことになるからだ。まともな指揮官ならば、もっと上手く市街地を利用して戦っただろう。マルウェールに入った当初に目撃してきた障害物を利用し、敵の進軍経路を限定することで、三倍の兵力差を覆し得たかもしれないのだ。
部隊をふたつに分けたのも失敗だろう。ただでさえ少ない兵力をさらに少なくするなど、正気の沙汰ではない。仮に五百人が三千人の大軍勢とぶつかっていれば、ひとたまりもなかったのだ。もみ潰されていたに違いなかった。
(五百でよく持ったほうか)
カインは、前後の敵兵を一瞥すると、進行方向から迫ってくる軍靴の音に耳をそばだたせた。数が多い。残りの全兵力を投入してきたのかもしれない。盾兵と槍兵の挟撃陣の層をさらに厚くするように投入される兵士たち。家屋の上には弓兵が群れをなして布陣していく。騎馬兵はいない。狭い通路だ。馬では立ち回れない。
カインが馬に乗って戦えたのは、火竜娘の性能のおかげだった。火球を吐き出すだけで敵陣は乱れ、馬を突っ込ませることができたのだ。よく調教された軍馬だ。火を見ても怯えず、熱気に曝されても文句もいわない。ただ愚直に、カインの手綱捌きに応えてくれた。
(いい馬だ)
後方を見やると、馬は難を逃れるように消えていた。ガンディア兵のだれかが拾ってくれるだろう。
「カイル=ヒドラ……!」
憎しみに満ちた叫びに目を向けると、兵士の陣形を割って、ひとりの男が進み出てきた。大刀を担いだ大男。憤怒に満ちた形相は、ほかの兵士たちとは一線を画すものがあった。
「貴様さえ来なければ……!」
「逆恨みだなあ、それは」
大刀を抜いた男に対し、カインは竜人を構えて、冷笑した。