第二千四十八話 救いの巫女(十三)
救いの巫女エリナ=カローヌが起こした奇跡は、その日のうちにアガタラ中に知れ渡った。
それまで人間に対し嫌悪や憎しみ、怨念を抱いていたアガタラのウィレドたちも、長らく昏睡状態にあった大君が目を覚まし、みずからの声でもってエリナの御業を讃え、彼女自身をして救いの巫女と敬意を示したことで多大な影響を受けたようだった。
大君は、アガタラの支柱だという。
いわばリョハンにとっての戦女神のようなものであり、アガタラになくてはならない、神のような存在なのだ。故にその影響力は極めて強く、大君が白といえば黒も白になり、黒といえば白も黒となるほどだということだった。それほどまでの影響力、権力は、さすがの戦女神にもなく、アガタラの歴史の重みを感じずにはいられなかった。
リョハンが戦女神を中心とする都市国家へと変貌を遂げたのは、せいぜい数十年前のことだ。それからというもの、戦女神こそが至高の存在であり、戦女神こそがリョハンという天地を支える柱であるという教えが一般的となり、いまではだれひとり、その思想、信仰に疑念すら生じることがないというが、しかし、戦女神ファリアの政策に疑問を抱けば、反論や反発を抱くのがリョハンの人間というものだ。そして、そういった意見を無視することができないのが戦女神なのだ。つまり、戦女神はリョハンにおいてある種絶対的ではあるが、完全無欠の存在ではない。
だが、アガタラの大君は、どうやらリョハンにおける戦女神以上の絶対性があるらしく、マルガ=アスルの一声が、大霊宮のウィレドたちの言動を激変させていた。
大霊宮内ですれ違ったウィレドのいずれもが、エリナを救いの巫女として敬い、マルガ=アスルの快復に力を尽くしたことに感謝の言葉を述べた。深々と頭を下げるだけでなく、感極まって涙を流すものまでいて、疲労困憊のエリナが反応に困るほどだった。アガタラ到着後、遭遇したほぼすべてのウィレドがミリュウたちの存在に疑念を抱き、敵意さえ見え隠れしていたのにも関わらずだ。
大君マルガ=アスルの発言がそれほどまでに強い影響を及ぼしたということであるとともに、セルクがいっていたように、大君の容態の快復如何によっては、アガタラの未来に暗い影を落とすというのも道理のように想えた。
確かに、アガタラのウィレドたちが信仰してやまない大君が後継者を指名しないまま死ねば、アガタラは、大いなる悲しみに包まれた後、大混乱に陥ること間違いないだろう。セルクたち御側衆のみならず、大霊宮で働くウィレドたちが大君の快復のためならばどのような手段を講じても構わないと考えるのも、無理のない話だった。
忌み嫌う人間の手を借りてでも、大君を治療し、回復させなければならない――セルクの想いは、エリナに通じ、彼女の召喚武装フォースフェザーの力を限界を超えて発揮させた。故に白化症によって意識を失い、昏睡状態に陥っていたマルガ=アスルは、目をさますことができたのだ。そのためにエリナは精も根も尽き果て、マルガ=アスルに事情を説明する間も、ミリュウの腕の中でぐったりとし続けるしかなかったが。
そんな彼女の様子を目の当たりにしたからこそ、マルガ=アスルはエリナを救いの巫女と呼び、讃えたのかもしれない。
とはいえ、マルガ=アスルは、完全に回復したわけではない。彼自身にも伝えたことだが、ただ、意識を取り戻すことに成功しただけであり、彼の肉体を蝕む神の毒気が消え去ったわけでも、白化症の症状がなくなったわけでもないのだ。そして、フォースフェザーの癒やしの力で、彼の肉体から神の毒気を除去できるものかどうか、確約できるわけもなかった。これまで、何人もの武装召喚師が白化症患者の治療を試みてきた。そのたびに失敗を積み重ねてきている。それがあるからエリナも治療に当たって不安を覚えたのだろうし、まさか、意識の回復だけでも成功するとは想像もしていなかったのだ。
『しかし……マルガ=アスルは斯様に意識を取り戻しました。確かにそなたのいうように、肉体を蝕まれているような痛みを感じぬではないが、マルガ=アスルの意識はここにある。長き夢を見た。悪しき夢をな。だが、巫女様のおかげもあり、現実に舞い戻ってこられたのです』
マルガ=アスルは、寝台に横たわったまま、こちらに顔を向けて、いった。さすがに老齢のウィレドだけあってか、年輪を感じさせる顔立ちをしていた。獰猛というよりは、温和で穏健そうな顔つき。
『巫女様の御力があれば、さらなる回復も望めるのではなかろうか?』
『それは……』
ミリュウは、自分の腕の中で呼吸をするのもやっといった様子の弟子を見つめ、考え込んだ。エリナが精神力を消耗し尽くすほどに酷使して、やっとの想いで意識を取り戻すことができたのだ。これ以上をエリナに負担をかけさせたところで、成果が上がるものかどうか。徒労に終わるだけではないのか。これ以上の酷使は、命の危機に関わりかねない、ということもある。
『約束できませんが、それでもよいと仰るのでしたら、いましばらく、この地に滞在し、大君の治療に当たらせましょう』
ミリュウが考え抜いた末にそういうと、エリナは、彼女の腕の中で少しだけ笑った。疲れきった彼女の笑顔は、残念ながら可憐なものとは言いがたかったが、エリナの気持ちは存分に伝わってきた。
そうして、ミリュウたちは、いましばらくの間、マルガ=アスルの白化症治療に当たるため、アガタラに滞在することとなった。
その際、ミリュウとエリナ、ダルクスだけが滞在し、隊士たちはリョハンに帰還させることはできないかと交渉したものの、許可されることはなかった。
アガタラは、地下の国だ。人間や地上の生き物たちとの関わりを断つことで、恒久的な平穏を獲得し、維持することに成功している。そこからミリュウ隊の隊士だけとはいえ、地上に返すということは、地上と地下の通路を開かなければならないということであり、敵対者に発見される恐れがあるというのだ。さらにいえば、ミリュウたちは信用に値するが、ミリュウ隊の隊士全員を信用できるかというとそうではない、とセルクたちはいった。隊士たちがリョハンに戻るなり、アガタラの所在地を報告しないとは限らないのだ。そうなれば、リョハンの一部の過激派が、皇魔の“巣”を滅ぼすために動き出さないわけがない。
万全に万全を期し、大君の治療が終わるまでは、ミリュウたちをひとりとして地上に送り返すことはできない、というのがセルクたちの出した結論だった。
マルガ=アスルの治療に当たると決めた以上は、その判断に従うしかない。無論、帰ろうと想えば帰れないわけがない。ミリュウは魔法遣いなのだ。ミリュウ隊全員とともに地上に帰還する方法はいくらでも思い付いたし、実行に移せば成功すること間違い無しだった。ただ、アガタラのウィレドたちが極めて温厚で、大君の回復以来友好的になったということもあり、すぐさま脱出する必要がなかった。
リョハンに連絡が取れないのは不安だったし、リョハンそのものが心配ではあったが、マルガ=アスルらアガタラのウィレドとの交流は、リョハンに利益をもたらす可能性も出てきていた。もし、万が一、アガタラとリョハンが友好関係を結ぶことができれば、それだけで強力な味方を得ることになるのだ。マルガ=アスルやセルクたちの言動を見る限りは、その可能性は必ずしも低くはなかった。
もっとも、そのためにはマルガ=アスルの症状が少しでも改善を見せなければならないだろうし、彼が今後示すであろう後継者――つまり次期大君が、人間に対し友好的なウィレドでなければならない。
それは、ひとつの大きな問題でもあった。
ともかくも、そのようにしてアガタラに滞在することになったミリュウたちは、大霊宮で日々の生活を送っていった。