第二千四十七話 救いの巫女(十二)
白化症で意識を失っていたものが目を覚ますという、まさに奇跡のような出来事を目の当たりにして、ミリュウは、ただただ茫然とした。
確かに、これまでただの一度も白化症の治療にフォースフェザーを用いたことはなかったし、試そうとしたこともなかった。エンジェルリングを始めとする様々な召喚武装が試行し、失敗に終わったこと、神の力ですら白化症を治療することはできないという絶望的な事実があったからだ。試しても無駄だろう。だれもがそう考えていたし、そこに疑問を持つものはいなかった。まさか、フォースフェザーの癒やしの力が白化症患者にある程度の効果があるなど、リョハンの武装召喚師だれひとり想像だにしなかったのだ。
そもそも、フォースフェザーの治癒能力は、必ずしも優れたものではない。生命力を活性化させ、対象の持つ治癒能力を強化するという程度のものなのだ。エンジェルリングのように治癒能力に特化した召喚武装ではない以上、それも仕方のないことだったし、十分な性能だった。それがまさか、白化症に効果があるなど、だれが想像できるだろう。
エリナ自身、驚きを隠せない様子だった。多量の汗をかくほどに力を込め、フォースフェザーの力を引き出せるだけ引き出しているとはいえ、彼女自身、まさかうまくいくとは想ってもいなかったのだ。当然だ。これまで白化症の治療は、不可能と思われていた。マリク神が不可能に限りなく近いといい、マリアの必死の研究も実を結ばなかった。その前提がいま、裏返ったのだ。
白化症で重体に陥り、意識を失っていたはずのマルガ=アスルが目を開き、視線を巡らせたのだ。意識を取り戻したのだ。
「おお……!」
「大君!」
「大君が、意識を取り戻されたぞ!」
「エリナ殿……! なんとお礼を申し上げればよいか……!」
「いえ……その……」
興奮に包まれる御側衆に対し、エリナは、申し訳無さそうな、なんともいえない顔をしていた。彼女の視線を辿り、理解する。セルクたちウィレドは、大君が意識を取り戻したこと、それだけで大喜びし、すべてが解決したかのように安堵したが、実際にはなにも解決していないことがわかったからだ。
マルガ=アスルの左翼は未だ白化したままであり、白化症が治療できたわけでもなんでもなかったのだ。フォースフェザーの癒やしの力により、昏睡状態に陥っていた意識こそ回復したが、根本的な解決はできなかったということだ。
そのとき、不意にエリナが掲げていた腕から力が抜けるのを目の当たりにしたミリュウは、即座に彼女に駆け寄り、崩れ落ちようとする体を抱きとめた。エリナの華奢ながらもしっかりと筋肉のついた体は、汗でびっしょりと濡れていた。こちらを仰ぎ見た顔に前髪が張り付いているのも、そのためだ。目に力がないのは、脱力しているからにほかならないが。
「し、師匠……」
エリナの声は、震えていた。力が入らないのだ。単純な理由だ。マルガ=アスルの治療に熱中するあまり、力を使いすぎたのだ。召喚武装の制御には、精神力を消耗する。大きな能力を使おうとすればするほど消耗は激しく、深刻なものとなる。エリナの場合は、いままでにない力を引き出したのだから、立っていられなくなるのも必然だった。
ミリュウは、エリナの疲労困憊の顔を見つめながら、叱ろうとして口を開いた。しかし、口から出た言葉は、そういった想いとはまったく別のものだった。
「無茶しすぎよ。まるでセツナみたい」
「お兄ちゃんみたい……かあ」
エリナがにやけたのは、結局のところ、それが彼女にとって褒め言葉にしかならないからだ。エリナにとってセツナは、ただの憧れではない。到達するべき目標なのだ。そんな彼に似ている、などといわれれば、彼女が喜ぶのも無理のない話だ。そしてそれがわかっていて、そういってしまうのだから、ミリュウは己の甘さに苦笑を禁じ得ない。
「喜ぶんじゃないの。怒ってるんだからね」
「え、えへへ……」
「あとで説教するからね」
「はい」
エリナのどうにも嬉しそうな表情を見ていると、こちらまで口元が綻んでしまうのは致し方のないことだろう。締まらないが、こういうときくらいは、それでいいはずだ。
「これは一体……どういうことだ?」
低くも威厳に満ちた声が、ミリュウの意識を現実に戻した。顔をあげると、マルガ=アスルが口を動かしていた。マルガ=アスルは、ただ目を覚ましただけではなかった。ちゃんと、意識を取り戻すことに成功したのだ。
確かに白化症の治療そのものには失敗した。しかし、白化症が原因で意識を失ったはずのものが、自我を取り戻し、みずから考え、言葉を発するくらいに回復したということは、これまでに一度もなかったことであり、ミリュウは、誇るべき成果だと想ったのだった。
「なにゆえ、そなたらは騒いでおる。それにそこな人間どもは……?」
彼の疑問ももっともだったが。
「おおおおおお」
「大君、大君……!」
「本当に目覚められたのですな!」
「おお、おお!」
騒ぎ立てる御側衆が冷静さを取り戻すまでは、状況を説明することはできなかった。
かくして、アガタラの大君マルガ=アスルは、意識を取り戻すことに成功した。
半年間に及ぶ昏睡状態から目覚めたばかりだというのに、マルガ=アスルは元気そのものといってもよかった。これも、ウィレドであるが故の生命力の強さのおかげだろう。これが人間ならばそうはいくまい。いや、人間ならば意識を取り戻すことさえできなかったかもしれない。ウィレドと人間では、生物としてなにもかもが違いすぎるのだ。
マルガ=アスルの回復は、セルクを始めとする大君の御側衆を大いに喜ばせた。それこそ、しばらくの間騒ぎが収まらないほどで、大君が彼らを制するまで話をするのも困難な状態だった。それはつまり、アガタラのウィレドたちにとって、大君マルガ=アスルがどれほど重要な存在だったのか、ということだ。セルクがエリナをして救いの希望と称するのも無理からぬことだと思えたし、彼らが歓喜に咽び泣くほどの姿を見て、ミリュウもなんだかほっとしたものだった。
確実に失敗すると想っていたことが、多少なりとも成果を出したのだ。これは喜ぶべきことだろう。少なくとも、ウィレドたちを失望させ、ミリュウたちと敵対するような、そんな最悪の結末を辿ることはなくなったのだ。
それだけではない。
セルクらの説明によって事情を理解したマルガ=アスルは、エリナを救いの巫女と呼び、敬意を示した。人類の天敵にして、人間を忌み嫌う皇魔が、人間に対し敬意を示すことなど、そうあることではあるまい。数多の皇魔が属していた魔王軍でさえ、ユベルに心底忠誠を誓っていたものがいたかどうか。そもそも魔王はその異能によって強制的に支配していたのだから、尊敬の念など抱きようはなかったかもしれない。
それを考えれば、皇魔に名指しで敬意を示され、最敬礼でもって讃えられたエリナは、人類史に残る役割を果たしたといえるのではないか。
身贔屓全開でそのように想ったミリュウではあったが、同時にマルガ=アスルの容態が必ずしも思わしくないという事実にも気づいていた。
マルガ=アスルは、意識を取り戻しただけであり、元気なのも彼がウィレドであり、驚異的な生命力を持っているからにほかならない。白化症はいまも彼の肉体を蝕んでおり、時折生じる痛みが、彼の表情を歪めたのだ。
ミリュウは、さんざん悩んだ末、マルガ=アスルの体に起きている異変について、知りうる限りのことを話すことにした。
そして、白化症には現在、決定的な治療方法が見つかっていないということや、リョハンの守護神にいわせれば、そんなものはありはしないということも伝えた。
それはある種、絶望的な宣告ではあったが、事実を知らぬまま、白化症に蝕まれ続け、いつか神魔に成り果てるよりはいいだろう、とミリュウは判断したのだ。マルガ=アスルは、ミリュウの話を聞いて、納得したようにうなずき、こういった。
「なれば、いましばし救いの巫女の御力をお貸し願えるか?」
マルガ=アスルは、エリナのフォースフェザーに白化症治療の希望を持ちたかったのだろう。
ミリュウは返答に戸惑ったが、考え抜いた末、応じることにした。
すべては、エリナのためにほかならない。