第二千四十五話 救いの巫女(十)
大君の居室、その下の階に控えていたのは、御側衆と呼ばれる側近中の側近たちだ。
セルクが何度となく名乗っていたように、セルク自身、御側衆のひとりであり、彼がそれほどの立場にありながら飛び回っていたのは、彼が武臣だからだという話も、道中に聞いた。
控えていた三体のウィレドはいずれも文臣、つまり文官であり、アガタラの政を司る立場にあるということだ。故にセルクのように飛び回るのではなく、大霊宮にあって政をしていたというのだろう。しかしながらセルクら武臣と彼ら文臣の立場はまったく対等であり、どちらが上とか下とかはないという話だった。セルクも文臣たち対し終始強気だったのも、そのためのようだ。
文臣たちはそれぞれデルク、メルク、フォルクと名乗った。御側衆の筆頭は、デルクだそうであり、大君が病臥してからというもの、デルクが大霊宮およびアガタラの一切を取り仕切っているという話も聞いた。
文臣が三名いるように、武臣もセルクを含め三名いるといい、それぞれ部下を率い、大君の病を癒やす手段を探して地上を飛び回っているようだ。そんな彼らが今日に至るまでリョハンの武装召喚師たちに見つからなかったのは幸運というほかないだろう、と、ミリュウは考えていた。
もし、ミリュウ隊以外の周辺領域調査部隊や護峰侍団の部隊がウィレドたちと遭遇していれば、どうなったことか。たとえウィレドたちに害意がなくとも、交渉の余地なく戦闘に入り、激戦が繰り広げられたことだろう。
そう思えば、セルクを見つけたのがミリュウたちで良かった、と心底想う。別に皇魔がどこで野垂れ死のうが知ったことではないが、皇魔を救うというこの経験がエリナを大きく成長させるに違いないと確信を持てたからだ。
セルクいわく、神の御業を源流とするウィレドの魔法を用いても、大君の病を癒すことはできなかった、という。それほどの病状がエリナのフォースフェザーで癒せるのかどうかわからない。しかし、治療しようと試み、病に立ち向かうことは、エリナの武装召喚師としての技量を磨くことに繋がる。師匠としては、弟子を成長させるためならば、多少の無茶も構わないという考えがミリュウの中にあった。
もっとも、エリナの純粋な気持ちを汲んだ、ということのほうが動機としては大きい。
もし、エリナがセルクの申し出を受けようとしなければ、彼に助力することはなかっただろう。先もいったが、皇魔がどうなろうと、人間のミリュウとしては知った話ではないのだ。
階段を昇りきると、最小限の武装したウィレドたちが控える扉の前に出た。両開きの黄金扉には、神秘的な紋様が彫り込まれており、その紋様はさながら複雑で精緻な魔方陣のようだった。ミリュウは、その扉の紋様に意識が吸い込まれるような感覚を抱き、目を細めた。じっと見つめ、形状を記憶に留める。自分の記憶力など当てになるものではないが、覚えておいて損はあるまい。そんなふうに考える。
「大君は眠られたままか」
「は……」
「やはりか」
デルクは、護衛の兵の反応に厳しい声でつぶやくと、扉の前に立った。そして、こちらを一瞥し、そっと扉に触れる。扉の紋様に光が走ったかと思うと、両開きの扉が音もなく左右に並行移動し、開いていく。どうやら、魔法によって開閉する仕組みになっているらしい。侵入者対策だろう。扉が開くと、室内が垣間見えた。やはり、黄金尽くしの部屋のようだ。ウィレドは、黄金が好きらしい。
デルクたち文臣が先に室内に入り、その間、ミリュウたちは部屋の前で待たなければならなかった。大君に容態を確認するためだろう。奇跡的に快復している可能性も、皆無ではない。だが、室内から帰ってきた反応は、希望に満ち溢れたものではなかった。
「セルク、エリナ殿を」
デルクの要請により、大君の容態が判明する。つまり、病臥しているということだ。
「うむ。では、エリナ殿、こちらへ」
「師匠」
「ええ。行きましょう」
うなずき、エリナと手を繋いだまま、居室内に足を踏み入れる。当然、ダルクスも護衛として付き従った。
大君の居室は、支配者の部屋にしては小じんまりとしていた。人間の個室ならば広いといってもいいだろうが、ウィレドの体格を考えれば、狭いというべき部類に入るだろう。半球形の天井、柱、壁、床に至るまですべてが黄金でできていて、強い光があれば目がくらむほどにまばゆく輝くに違いないと想像できるほどだった。幸いにも、大君の居室の光源は抑えられており、反射する光も目に痛いほどではなかった。
調度品の数々も、大きな寝台も、黄金で作られていた。その黄金の寝台の上にふかふかの布団が敷かれていて、一体の痩せ細ったウィレドがその長身を横たえている。大君マルガ=アスルに違いない。デルクら文臣は、寝台の前で跪いており、セルクも彼ら同様に跪いた。
「大君マルガ=アスルであらせられる」
セルクにいわれるまでもなくわかっていたことではあるが、黄金の寝台の上で仰向けに眠るウィレドの姿を目の当たりにしたとき、ミリュウは、どうするべきものかと考え込まざるを得なかった。
魔法でも治療できないという病を患い、意識を失ったというマルガ=アスルの容態には、ミリュウも見覚えがあったのだ。
(白化症……)
マルガ=アスルの背中から伸びた翼が白く変色し、異形化していた。
エリナも即座に気づいたようだった。セルクたちには聞こえないような小声で、囁いてくる。
(師匠……あれは……)
(ええ。でも、いまは彼らの希望に沿いましょう)
(はい……)
エリナが不安げな表情に戻ったのも、無理のない話だった。
白化症と呼ばれる症状が現れ、ひとびとを恐怖のどん底に突き落とすようになったのは、約二年前に起きた“大破壊”以降のことだ。それは、人間のみならず様々な生物に発症する症状であり、発症すると肉体が白く変色するだけでなく、体組織が変化し、異形の、別種の存在への変容を始めるという。そして、肉体を侵食しながら全身を白化させていき、意識をも飲み込んでしまう恐ろしい症状だった。
なにより恐ろしいのは、一度発症すると自然治癒することも、治療することもできない上、ある程度進行すると、周囲のものたちを見境なく攻撃するということだ。その周囲への攻撃を止めるには、発症者の息の根を止める以外に方法はなく、また、ただ単に息の根を止めただけではどうにもならなかったりもする。白化症がある程度まで進行すると、白化し、変容した部位の中に“核”と呼ばれる新たな心臓が作り出され、その“核”を破壊するまではどれだけ肉体を傷つけても、無限に再生するからだ。故に徹底的な破壊を行うしかない。それはもはや、元人間への仕打ちではなくなるが、致し方のないことだった。そこまで症状が進行した人間を神人と呼び、獣を神獣と呼んだ。また、白化症に冒された皇魔を神魔と呼ぶこともあった。
“大破壊”後、リョハンを襲った大混乱の大本が白化症に関連する騒動だった。白化症を発症し、神人化した市民への対処には、様々な批判が寄せられたものだ。ファリアは、その混乱を鎮めるために戦女神になったようなものといっても、過言ではない。それほどの恐慌が起きたのは、当然のことだ。白化症の原因は、そのときはまだ不明であり、明らかになったいまも、市民には明かされなかった。明かしたところでどうなるものでもなく、また、守護神マリクが対策を取って以降、リョハン内で新たに発症する可能性が限りなく低くなったからだ。
マリクいわく、白化症の原因は、神の威力――神威だという。
純粋な神威は、神以外の存在にとって猛毒そのものであり、多量に神威を浴びたものは、生物無生物にかかわらず、原型を失い、変容するというのだ。そして、“大破壊”後に白化症患者が激増したのは、“大破壊”とともに多量の神威が世界中に満ち溢れたからだ、ということも。
マリクに守られたリョハンでも白化症患者が発生したのは、マリクがまさかそのようなことが起こるとは想定してもいなかったためだ。世界が壊れることなど、想定しようもない。その上、世界を震撼させるほどの神威が満ち溢れるなど、だれが想像できよう。事態を重く見たマリクは、神威を限りなく完璧に遮断するよう守護結界を作り直し、以降、リョハンでは白化症患者が激減した。それでもなお発症するものたちのため、マリア=スコールは全身全霊をこめて治療法の研究を始めたが、マリクいわく、神威に毒されたものを救う手段はない、というのだ。
『ひとの手で白化症を治療することは絶対不可能だとはいわない。けれど、限りなく不可能に近い、ということはいっておくよ』
焦るマリアに向けて、マリクが言い放った一言がミリュウの記憶の奥底に残っている。だから無駄であり、止めるべきだ、とまではいわなかったものの、暗にそういっているようなものだった。それでもマリアは諦めようとはしなかったし、ミリュウたちもマリアを応援した。リョハンにいる間には成果はでなかった上、マリアはこつ然と姿を消してしまったが。成果の上がらなさにこの世を儚んで命を絶った、などということはあるまい。あの侠女のことだ。どこかで必ず生きていて、いまも研究に没頭しているに違いなかった。そう信じる以外には、ない。そしていつの日か、治療法を確立してみせ、マリクに向かって胸を張ってみせることだろう。
(あまりにも都合の良すぎる考え方だけれど)
ミリュウは己の楽観的主義すぎる思考に苦笑を漏らしたかったが、場所をわきまえて、止めた。こんなところで苦笑すれば、大君を嘲笑していると受け取られても仕方がない。
と、エリナが静かに呪文の詠唱を始めた。古代言語による武装召喚術の式の展開。可憐な声音による歌うような詠唱が黄金の部屋の中を軽やかに反響し、その場にいる全員の耳を聞き入らせていく。聞き慣れたミリュウやダルクスのみならず、ウィレドたちでさえ、目を細め、彼女の声に耳を澄ませているようだった。
呪文は弾む。この世界と異世界の境界と越え、彼女の願いを示現するために。
ミリュウは、
「セルクさん、ひとつ聞いていいかしら?」
「なんだ?」
「大君が病臥されるようになったのは、いつごろ?」
「半年前だ」
(半年でこの程度……か)
ミリュウは、マルガ=アスルの全身のうち、白化し、変容中の部位が左翼の一部だけであることに少しばかり安堵を覚えた。白化症の進行速度には個人差がある。マリクによれば、そのとき浴びた神威の量や純度の影響が強く現れるのが進行速度であり、純度が強い神威を多量に浴びれば、それこそあっという間に白化症に侵され、神人化するのだという。つまり、マルガ=アスルはそれほど多くの神威を浴びていないということだ。
(あるいは、生命力の差かしらね)
皇魔の生命力は、人間とは比べ物にならないほどに強い。純粋に生物としての基礎が違うのだ。人間が五、六十年も生きられれば御の字なのに対し、百年二百年余裕で生きながらえるのが皇魔だ。アガタラのウィレドたちが積み重ねた世代など、人間が五百年で積み重ねる世代よりもずっと少ないだろう。それほどの生命力を持つ皇魔が人間よりも神の毒気への耐性があったとしても、なんら不思議ではなかった。
とはいえ、ミリュウは、エリナではアガタラの大君を快復させることなどできまい、と確信していた。
グロリア=オウレリアのエンジェルリングのような治癒能力を持った召喚武装でも、白化症患者を治療することはできなかった。エンジェルリングだけではない。様々な召喚武装が治療を試み、失敗に終わっている。症状の進行速度を遅くすることこそできたものの、焼け石に水といってよく、根本的な解決にはならなかった。だからこそ、マリアが必死になって治療法を研究したのだが。
(どうなるかしらね)
アガタラのウィレドたちの期待を裏切ることになったとき、エリナやミリュウたちはどのような扱いを受けるのか。
そのことに多少、不穏なものを感じずにはいられなかった。