第二千四十四話 救いの巫女(九)
アガタラの大君マルガ=アスルが病臥する寝室は、大霊宮の迷路を上層へと昇りきった先にあった。つまりは天守のような場所だ。広々とした通路が複雑に入り組んでいた下層とは異なり、上層となるとわかりやすい回廊が続いており、そこまでたどり着ければ、迷うことなく大君の居室へ進むことができるようだった。無論、防衛の観点から、通路の途中途中にウィレドたちが待機しており、度々、セルクを呼び止め、仔細を聞いた。
そのたびにセルクは、やはりエリナを示してアガタラを救う希望と呼んだ。誇張でも何でもなく、彼は本気でそう信じているようだった。いや、信じたいのだろう。実際、セルクの立場になって考えてみれば、そう思わざるをえない。
竜属に蹴散らされ、素気無く扱われ、さらに探し回ってやっとの想いで見つけた希望なのだ。それがマルガ=アスルの病状改善に繋がらなければ、絶望するしかない。それでもまだ諦めはしないだろうが、気力は失われるだろうし、希望も見失うだろう。アガタラにおいては、大君の存在はどうやら戦女神に匹敵するほどといっていいらしいのだ。
現在、リョハンから戦女神が失われたとしたらどうなるか、想像するだけで肝が冷えた。ファリアを失うなどありえないことではあるのだが、もしそんなことになれば、リョハンは秩序を失い、混沌と狂乱が跋扈する絶望の都へと変わるだろう。それほどまでに、リョハンという都市は戦女神という現人神に依存しすぎている。そのあまりにも他人任せな状況を改善するべく、先代戦女神は人間宣言を行い、護山会議による統治運営に任せたが、“大破壊”が起きたために再び戦女神中心の治世に戻らざるを得なくなったのだ。数十年かけて戦女神という絶対者を支柱とする都市を作り上げたのだ。市民の思想の中心から戦女神への依存を取り除くには、同じか、それ以上の年月が必要だろう。おそらく、ファリアの代だけでは無理だろうし、何代もかけて、ゆっくりと市民の自立を促していくしかない。もちろんそれは、戦女神を頂点とするリョハンの在り様を変える必要があれば、であり、戦女神を中心とする都市のままで良いのならば、なにも変える必要はない。そしていまのところ、そのことで不満を抱いているものはおらず、むしろ戦女神の存在によって安心して暮らせているのだから、問題などあろうはずもない。
戦女神本人への負担を度外視するのであれば、リョハンはそのままでいいのだ。
アガタラも、おそらくは、同じような問題を抱えているのだろう。
やがて、天守の最上層に近づくと、広い一室に豪奢な装束を身につけたウィレドたちが待ち受けていた。衣装の豪華さは、身につけているものの位階を示しているに違いなく、銀糸の縫い込まれた華麗な装束は、人間の文化が色濃く反映されていうように見受けられた。銀糸の衣装を着込んだウィレドは三体。いずれも、セルクに負けず劣らずの屈強な体躯だが、床に座しているため、圧迫感はなかった。ただ、それら皇魔の紅く禍々しい双眸が遠慮なく視線を投げつけてくるため、ミリュウは、意識を集中しなければならなかった。でなければ、皇魔特有の気配に意識をやられ、気が狂いそうになるだろう。
セルクが、三体のウィレドの前に進み出ると、その場に傅いた。
「武臣にして御側衆が一、セルク。アガタラの希望をもちて帰参せり」
「聞いている。よくぞ戻った」
ウィレドの一体、中心にいるもっとも細身のウィレドが、やはり人間の言葉を用いて、セルクを労った。どうやらアガタラでは、ウィレドの言葉を用いるよりも、共通語で会話することのほうが多いらしい。そのことは、此処に至るまでのセルクと他のウィレドの会話からも明らかだ。なぜそこまで人間の文化を受け入れているのか、ミリュウには少しばかり理解できないことだった。逆の立場ならば、どうだろうと考えるまでもない。人間が皇魔の文化を受け入れることなどあるわけがないのだ。人間にとって皇魔とは、異世界からの侵略者でしかないからだ。それに、人間と皇魔ではその有り様は大きく違った。少なくとも、地上にいるウィレドたちがアガタラのような都市を築き上げ、人間の真似事をしているという話は聞いたことが無い。
まさかウィレドが人間の文化を受け入れ、そっくりそのままの生活をしているなど、想像しようもなかったのだ。
「しかして、セルクよ。そこな人間がアガタラの希望というのは、真か?」
「うむ」
セルクは、やや細身のウィレドに対し、強気に頷いた。どうやら立場は対等らしいということがわかる。対する細身のウィレドは、その怪物そのものの双眸を細め、セルクを睨んだ。紅く濁った光には疑念が宿っている。
「人間だぞ? 信用できると申すか」
「確かに人間だ。しかし、エリナ殿は、瀕死の重傷を負った我に救いの手を差し伸べてくださった。その癒やしの力は、我らの魔法とは本質的に異なる力。もしかすると、大君の病を癒してくれるかもしれぬ」
「待て。うぬはいま、瀕死の重傷を負うたといったか?」
「うむ」
「なにゆえ、うぬほどの手練が死に瀕する?」
細身のウィレドの質問はもっともだった。ミリュウたちは、セルクがエンデのウィレドたちにやられたからだということを知っていたが、そのことについては口止めされていた。エンデのことを持ち出すと、話がややこしくなって停滞しかねないからだということであり、ミリュウたちは素直に従っていた。エンデについても別段詳しく知っているわけではないのだから、口出しする理由もない。ミリュウとしては、一刻も早くこの問題を片付け、リョハンに帰還したいと考えているのだ。
「……その話はあとだ。まずは、可及的速やかに大君の治療を行って頂きたい。一刻も早く、一秒でも早く、大君には快復して頂かねばならぬ。そうだろう、デルクよ」
「……ふむ。うぬの言い分は理解した。そして、うぬを死の淵より救ってくださった方々を、人間だからという理由だけで無碍にすることはできぬ。なにより、うぬのいうように大君の快復こそがアガタラを救う唯一の手段。なれば、我らはうぬの手法にとやかくいうことはできぬな」
「わかってくれたか」
「ただし、治療の場には、我らも同行し、見守らせて頂く。よいな?」
「それは当然だ。我とて、エリナ殿の腕を信じていないわけではないが、見守るつもりだ。よろしいな?」
「え、あ……はい」
セルクの問いかけに対するエリナの反応は、緊張感に満ちたものだった。当然だろう。アガタラの将来は、彼女の双肩にかかっているといわれてきたのだ。いまになって、事の重大さを理解したエリナが不安と緊張に支配されないわけがない。ミリュウは、エリナに向き直ると、その細くしなやかな手を両手で包み込んだ。そして、彼女が仰ぎ見るのを待ってから、伝える。
「緊張するでしょうけど、だいじょうぶよ。いつも通り、しっかりやりなさい。あなたはあたしの一番弟子で、いずれ世界最高の武装召喚師になる大天才なんだから」
「師匠……はい! 精一杯、治療に当たらせて頂きます!」
エリナが一瞬にして不安を吹き飛ばし、笑顔全開になるのを見て、ミリュウは自分の中の不安も消し飛ぶのを感じた。エリナには、そういう力がある。とてつもない影響力というべきか。彼女の言動ひとつが周囲の空気の軽重を変化させ、色彩さえも変えてしまうのだ。エリナが明るければそれだけで場そのものが明るく、軽くなるが、逆に暗ければ、それだけ沈み込み、重いものになる。
そういう力を持つ人間は、稀有としかいいようがない。
武装召喚師としての天性の才能に加え、場の空気そのものを支配する力を持つエリナの存在は、ミリュウのみならず、リョハンの将来にとっても重要になるに違いないと彼女は考えていた。
「……その意気込み」
ウィレドの一体が、感じいるようにいった。
「人間の中にも、我らに偏見を持たず、接してくれるものがいるとはな」
「奇跡の出逢いは、きっと、我らに救いをもたらしてくれるだろう」
「そう願おう」
ウィレドが厳かに頷くと、重い腰を上げた。
「では、参られよ。大君の居室は、この上の階である」