第二千四十話 救いの巫女(五)
ウィレドの国アガタラ。
そんなものがリョハンの周辺領域にあるとは、想像したこともなかった。
そもそも、ミリュウの部下がいっていたように、リョハン周辺でのウィレドの目撃情報は極めて少なく、人間が襲われたり、交戦したという話もここ数十年、皆無に近いという話だった。まさか、リョハンの近郊にウィレドの住処があるなど、だれが想像できよう。
調査不足、という話もあるだろう。
周辺領域調査は、“大破壊”によって変わり果てた有り様を確認するために行われるようになったのだ。“大破壊”以前、リョハンの人間はリョフ山近郊より外に出ることが許されなかった。それがヴァシュタリア共同体との取り決めであり、リョハンがヴァシュタリアから勝ち取ったわずかばかりの自由を維持するためには、その約定を護る以外に道はなかったのだ。つまり、リョハン周辺の状況については独立以前、ヴァシュタリア政府組織が調べたことしかわかっておらず、その調査が不完全であり、皇魔の巣窟を見逃していた可能性は決して低くはない。もっとも、ヴァシュタリアの根幹を成すヴァシュタラ教会の対皇魔殲滅戦力である退魔騎士団が見逃すほどの規模の“巣”となると、リョハンが脅威と認識するほどのものとはいえないだろう。
とはいえ、ウィレドは、国といった。ただの棲家ではなく、国といったのだ。ミリュウが想像している以上の規模の勢力を誇っていたとしても不思議ではなく、それならばどうやってヴァシュタリア軍の皇魔排除運動を免れ得たのか、興味が尽きなかった。何らかの方法でヴァシュタリアの目を逃れているということだろうが。
そんな疑問は、早々に解決した。氷解といっていい。
ウィレドの国は、地下にあったのだ。
ウィレドによってそう明かされる前、ミリュウたちは、彼から新たな要請を受けていた。それは、ウィレドの国アガタラの所在地を明かさないでほしいというものだった。ウィレド側からすれば当然の話だろう。皇魔嫌いの人間に知れ渡るようなことだけはなんとしても避けなければならない。そういった人間が知れば、皇魔を滅ぼす好機と騒ぎ立て、軍勢の派遣に動き出すかもしれない。リョハンの人間も、温厚なものばかりではない。リョハンの安全のためならばなんだってやってもいいというのが、護峰侍団の思想なのだ。過激だが、それがリョハンを数十年もの間守り抜いてきた思想なのだから、仕方がない。大陸最高峰の峻険と謳われるリョフ山とはいえ、その山の中に閉じこもっていなければならなかったのだ。時代が下るに連れ、思想が先鋭化し、過激化するのも無理のない話なのだろう。
「アガタラは我らがようやく得た安住の地。本来であれば、貴様ら人間を招き入れることなどあってはならない場所なのだ」
「だったら、招き入れなければいいじゃない?」
「……事情があるのだ。どうしても、娘の、癒やしの力が必要なのだ」
苦渋の決断である、と、彼の苦々しい表情が告げていた。彼自身、人間を嫌っていることそのものは隠そうとはしなかった。
「だから、こうして貴様らに頭を下げて頼み込むのだ。どうか、事が終わるまでは、アガタラの所在地を明かさぬよう、協力して欲しい」
「……まあ、いいわ。協力することに決めたんだもの。聞いてあげる」
「師匠」
「エリナ。これはあなたのためじゃないわよ。もしかすると、リョハンにとってもいい結果が得られるかもしれないから、応じるだけ。それだけのことよ」
「はい! 師匠!」
エリナは、にこにこと笑うだけで、ミリュウのいっていることをまるで理解しているように見えなかった。敏い彼女のことだ。そう見えるだけでしっかりと理解し、自分の置かれている状況、立場、役割などは把握しているだろう。だから、ミリュウも安心して彼女の背中を押すことができるのだ。
ミリュウは、それから隊員たちを振り返った。二十人が二十人、不安そうな顔をしているわけではないが、大半が不承不承といった表情をしていた。皆、不服ではあるのだ。皇魔に協力するなど、護峰侍団の誇りが許さないに違いない。その気持ちは、ミリュウもわからないではない。
「ということで、リョハンとの連絡は禁止。状況が終わるまで、それでよろしく」
「そんなことして、平気なんですか? いつ終わるかもわからないんですよ?」
「問題ないわよ。責任は、あたしが持つ」
「そういえばなんでも許されると想ってません?」
馬の尾のように結わえた髪を揺らしながら、女隊士がいってくる。彼女は、ほかの隊士同様、ミリュウの性格を知らないわけではなく、普段は従順そのものなのだが、今回ばかりは唯々諾々と従えないようだった。皇魔が絡んでいる以上、人間としての本能が抗おうとするのも無理のない話だ。
「想ってないわよ。でも、隊の活動に関していえば、全権はあたしにあるし。文句があるのなら、戦女神様に直接訴えてみる?」
「そ、そんな恐れ多いこと、できるわけないじゃないですか……」
「だったら、黙ってあたしのいうことを聞く。なに、悪いようにはしないわよ。悪いことも、起こりっこないわ」
「ミリュウ様……」
「もし、そんなことが起こったら、そのときはアガタラが終わるときよ」
ミリュウの絶対の自信に満ちた言葉は、決して自分に言い聞かせているわけではなかった。ごく当たり前のこととして、そう認識している。もしアガタラのウィレドたちがミリュウ隊に不利益をもたらすようなことをすれば、彼女がその全力でもって国を根こそぎ滅ぼす。それだけの覚悟と決意をもって、ミリュウはことに望んでいたし、ウィレドにもそう覚悟させた。
「貴様にそれほどの力があるとは思えんが」
「そうでしょうね。でも、事実よ。あなたたちの国がどの程度の規模であれ、関係ないの」
「関係がない?」
「そうよ。信じる信じないは勝手だけど、その結果、あたしたちを裏切って、国も命も失わないことね」
「忠告、肝に命じておく。が、我は貴様らを裏切るつもりはない。我はただ、アガタラの安寧のため、貴様らの助力を欲しているだけなのだからな」
「いまは、その言葉、信じてあげる。で、アガタラってどこにあるの? この森にあるっていうんじゃないでしょうね?」
「どこにもそれらしいものは見当たりませんよ?」
「ある。ここだ」
といって、ウィレドが指し示したのは、一本の大樹だった。小さな森の大半を覆うような巨樹であり、まるで緑の天蓋のような枝葉には圧倒さえされる。
「そこに……なにがあるっていうの?」
「なにもありませんよ?」
「まあ、見ていろ」
ウィレドは、大樹の根元に屈み込むと、張り出した根っこに手で触れた。すると、根が脈打ち、大樹そのものが大きく震えた。そして、口が開く。
「なにそれ」
ミリュウは、根元から幹の半ばまでに至るほどの大きな空洞が突如として出現したことに、ただただ呆気にとられた。口が開いたと形容するしかないような開き方だった。そして、その空洞は、どうやら地中深くまで続いているらしく、暗黒の闇だけが横たわっていた。エリナが素直に驚き、興奮を隠せないといった様子で拍手をしていた。
「すごいすごーい!」
「凄いのはいいんですけど、もしかして……」
「そうだ。アガタラは、この先だ」
「地下にあるってこと? この遥か地下に?」
「うむ」
ウィレドがうなずくと、部下のひとりが感心した。
「なるほど……これならリョハンもヴァシュタリアも発見しようがない」
「人間に発見されないということは、ぶつかることもないということだ。争いも起きず、血を見ずに済む。実に合理的で、理想的な結論だと思わんか?」
「……そうね」
ミリュウは、ウィレドのどこか自慢げな言い方に目を細めた。確かに、理想的かもしれない。人類の天敵たる皇魔の側から人間との接点を断つことで、互いに血を見ずに済むのだ。これほど人間側にとって嬉しいことはあるまい。
「すべての皇魔があなたたちのように考え、行動してくれたのなら、人間と皇魔はもう少し、歩み寄ることができたかもしれないわ」
「残念だが、それはありえない」
「どうして?」
「我々も、人間が嫌いだ」
吐き捨てるように告げた言葉こそ、彼の本心なのだろう。
「……そゆこと」
ミリュウは、ウィレドが苦渋の決断を下したということを実感として認めながら、アガタラにて待ち受ける出来事に不安を覚えずにはいられなかった。




