第二千三十七話 救いの巫女(二)
調査予定地域の調査を無事に終え、リョハンへの帰路についたミリュウ隊は、あまりの順調ぶりにだれもが浮かれているといってもよかった。足取りも軽く、鼻歌を歌うものさえいた。
皆、周辺領域調査そのものが終わりに近づいているということへの喜びを隠せない様子だった。それはそうだろう。周辺領域調査は、確かにリョハンにとって重要なことで、必要不可欠な役割ではあるのだが、そのためにリョハンを離れ、特定地域の安全確認に時間を費やさなければならないというのは、護峰侍団の武装召喚師にとってはあまり好ましくないものだ。護峰侍団は、御山の守護を司る組織であり、リョハンを離れることそのものを快く想っていない隊士が多い。いくらリョハンのためになるとはいえ、本来の役割とはかけはなれたことをしなければならないというのは、苦痛なのが本音だろう。
ミリュウの部下たちは皆行儀がよく、そういったことは臆面にも出さないが、彼らが本音ではそう考えていることはわかっている。だから、ミリュウも無事に調査を終えられるように心から願っているし、そのために全力を費やした。負傷者はまだしも、死者が出ることは避けたかった。とはいえ、神人との戦闘になればそうもいっていられないのは、これまでの経験からも明白であり、神人や神獣と遭遇しないことを祈らずにはいられなかった。
リョハンを護るためにこそ命を燃やす彼らにしてみれば、リョハン周辺を彷徨く神人や神獣といった敵性存在を撃滅することは、本来の役割そのものに違いない。しかし、その役割は護峰侍団の隊士としてこそ行いたいはずであり、周辺領域調査の最中に当たりたくはないだろう。周辺領域調査は、護峰侍団内での査定に響かないという。そして最悪、命を落とす可能性もあるのだ。
そんな彼らのことを考えると、何事もなく調査を終えることができたのは僥倖というほかなく、ミリュウも馬車の中でにこにこと笑っていたものだ。戦闘も起きなければ、ミリュウ自身への負担も極端に少ない、まさに奇跡のような調査だった。いつもなにかしらの事件に遭遇するミリュウ隊の周辺領域調査にはめずらしいほど穏やかで、エリナなども驚きを隠せなかったようだ。
「これくらいが当たり前なのよ。ルウファ隊なんて、死傷者を出したことさえないのよ」
「そういえばそうでした」
「あたしだって、たまにはなんの事件もなくリョハンまで帰りたいわ」
「きっと帰れますよ! だって、師匠なんですから!」
「それ、褒められてるのかしらね」
「褒めてますよ!」
「あ、うん、あんがと」
ミリュウは、エリナの屈託もなければただただ元気の塊のような言動が可愛らしくて仕方がなく、思わず彼女の手を掴み、引き寄せた。膝の上に座らせると、彼女はきょとんとした。栗色の髪を撫でると、にこりと笑ってくる。その無邪気な笑顔にこそミリュウは救いを見出していたし、だからこそ今日まで生きてこられたのだという自覚もあった。馬車に同乗しているダルクスや部下の視線が気にならないわけではないが、たまにこうしてエリナに触れなければ自分を見失いそうになるのだ。そういう己の危うさを自覚しているからこそ、ミリュウはエリナを手放せなかった。
そして、それが起きたのは、ミリュウがエリナの肉付きがよくなりつつある体を抱きしめているときだった。突如として馬車が揺れ、爆音が轟いたのだ。馬がいななき、棹立ちになるのを御者が慌てて静めようとする中、ミリュウはすぐさま立ち上がると、エリナを庇いながら馬車を出た。爆音は、馬車の直上から降ってきている。馬車を揺るがした衝撃波とともにだ。なにか異常事態が起こったのは間違いなく、ミリュウ以外の同乗者も即座に馬車を飛び出した。皆が口早に呪文を唱える中、空を仰ぐと、紅く燃える空を漆黒の翼の群れが過ぎ去っていくのが見えた。
「あれは……」
「師匠!」
ミリュウはエリナの警句にはっとなり、すぐさまエリナを抱えて飛び退いた。直上の空からなにかが降ってくるのが、大気を劈く音でわかった。そしてそれは、黒い流星の如く馬車の荷台に突き刺さると、荷台を盛大に爆散させた。ミリュウはエリナに破片が突き刺さったりしないよう、全身で彼女を庇いながら、なにが起こったのかと思案した。空を見遣る。夕焼けを覆っていた化け物たちの姿は既に遠く、西の空へと流れている。視線を地上に戻すと、空から降ってきたものに粉砕された荷台がばらばらになって、ミリュウたちの目の前にあり、馬車そのものは遥か前方に移動していた。馬車を引いていた二頭の馬が、あまりの事態に御者の命令も無視して走り出してしまったのだろう。
「なにが、起きたのでしょう?」
「さて……ね」
「空を覆っていたのは、皇魔ウィレドのようでしたが」
「そうね」
部下のひとりにうなずくと、ミリュウはエリナを腕の中から開放し、ゆっくりとなにかが落下してきた場所に近づいた。すると、彼女の進路に黒い鎧が立ちはだかる。ミリュウの移動を邪魔しようというのではない。まるでミリュウを護衛しようというようなダルクスの動きは、彼女にとってもはや慣れたものだった。彼がミリュウの部下になってから、数ヶ月が経過している。ミリュウはダルクスが彼女の意図を汲んで動いてくれることに感謝していたし、まるで長年連携を訓練していたかのような息の合った動きには、ダルクスの武装召喚師としての練度を感じずにはいられず、うなることもしばしばだった。
いまも、ダルクスがミリュウの思った通りに移動してくれるおかげで、困ることがなかった。
落下物によって見事なまでに粉砕された荷台の残骸を覗き込むと、そこには息も絶え絶えといった様子の怪物がいた。漆黒の外皮に覆われた禍々しい異形の存在。隆々たる巨躯と醜悪な外見から、単純に悪魔とも呼ばれることも多い皇魔だ。ウィレド、と呼称される。小国家群の中央付近では見ることの少ない種であり、クルセルク戦争が始まるまではミリュウもウィレドを目の当たりにしたことがなかった。どうやら、ヴァシュタリアの大地ではよく見かける皇魔であるらしい。
「落ちてきたのも、ウィレドみたいよ」
ミリュウは、ダルクスが警戒に当たる後ろから、荷台の残骸の上に横たわる皇魔を観察した。飛行能力を有し、空を我が物顔で飛び回る皇魔がなぜ落下してきたのかについては、一目瞭然だ。落ちてきたウィレドは、重傷を負っていた。全身傷だらけであり、体中のいたるところから血を流していた。自慢の飛膜は破れ、焼け焦げている。まるでなにかと交戦し、敗れ去ったあとのように見えなくもなかった。いや実際、敗北したのかもしれない。だが、だとすれば、このウィレドが戦った相手とは、同種族としか考えられないのだが。
ウィレドが落ちてきたとき、多数のウィレドが空を飛び去っていくのを目の当たりにしている。
(皇魔が同種族間で争うなんて話、あまり聞かないわね)
その点、人間とは大きく異なるところだと、よくいわれている。人間は、同じ種族でありながら、金、物、土地――様々なものを巡って争う。同族どころではない。家族、親、兄弟のような親しい間柄でさえ、血で血を洗うような争いを繰り広げる。そういった人間の醜悪さを目の当たりにしてきたミリュウにとって、同族間の争いのない皇魔という生き物には、ある種の憧れのようなものがないではなかった。もっとも、ミリュウ自身が皇魔になりたいだとか、皇魔と親しくなりたいだとか想ったことはない。そういう次元の話では、ないのだ。
そんなことを考えながら観察していると、いつの間にかダルクスの背後から前に出ていることに気づいた。
「ミリュウ様、無闇に近づくのは危険ですよ!」
「そうですよ、師匠!」
「だいじょうぶよ、ダルクスが護ってくれるわ。そうよね?」
心配症な部下や弟子たちの言葉を振り切って黒い戦士を横目に見ると、悪魔に匹敵するほどに禍々しい鎧を身につけた男は、無言のまま、小さくうなずいた。その余裕に満ちた態度、反応がいかにも歴戦の強者を想起させる。その頼もしさは、表面的なものではない。実力に裏打ちされているのだ。ダルクスは、全身、召喚武装を身に着けていた。つまり、召喚を維持し続けているということであり、消耗し続けているということでもあるのだ。並の武装召喚師ではない。たとえ彼の身に纏う鎧が召喚武装として水準の低い代物であったとしても、一日中召喚を維持し続けるというのは、極めて困難なことであり、だれもが真似のできることではなかった。
ミリュウたちの彼への評価に不満を持った護峰侍団隊士が数名ほど、一日中召喚を維持することを試みたようだが、いずれも失敗に終わっている。その護峰侍団の隊士の実力がないからではない。単純に、普通の人間には不可能なことなのだ。そしてそれはつまるところ、ダルクスが並の人間とは一線を画する存在だということだ。そのような正体のわからないものを信用することに対して、多くのものが疑問を抱いていたが、ミリュウがすべての責任を持つということで戦女神から許可を得て、配下に加えている。
ミリュウも、彼を無闇矢鱈に信用しているわけではない。しかし、彼に敵意がなく、ミリュウに協力的だということはこれまでの態度からも明らかであり、利用しない手はないと判断しただけのことだ。
「生きてはいるみたいね。でも、重傷よ。放っておけば死ぬでしょう」
「師匠」
「なあに?」
「放っておくのですか?」
「皇魔を助けたいの? あなた」
ミリュウは、エリナの痛ましい表情を見つめながら、冷ややかに告げた。
「そんなことをしても、なんの意味もないわよ」
目の前のウィレドは、瀕死の重傷を負っている。魔法を用い、傷を塞ぐことすらできないほどに消耗し、なおかつ満身創痍だ。止めどなく流れる血の量を見れば、皇魔に残された時間が短いことがわかる。放っておけば、そう時間もかからずに息絶える。皇魔だ。手を差し伸べる理由はない。
「でも」
「エリナ。あなただって、皇魔の恐ろしさを知らないわけじゃないわよね。皇魔は、人類の天敵よ。人間を憎んで憎んで憎みきっているのよ。手当をしてあげたところで、さらなる恨みを買うだけのこと。感謝なんてされることはないわ」
「師匠は、感謝されるために人助けをするんですか?」
「そんなわけないでしょ。いつだって、自分のためよ」
他人に見返りを求めるなど愚の骨頂だ。期待は裏切られる。信頼は踏みにじられる。希望は、塗りつぶされる。そういう現実を知っているから、ミリュウは他人のためになど行動しない。しようとも想わない。いつだって自分のため。自分の欲求を満たすため。自分の本能に従うだけのことだ。それが結果的に人助けに繋がっている。それだけのことなのだ。そこに善意も悪意もない。
「だったら」
「その結果、この皇魔がほかのひとを襲うかもしれない。そうなったときの責任、あなたに持てる?」
「わたしは……」
ミリュウは、エリナが目をそらさず、じっと見つめ返してくることに彼女の気丈さを思い知ったものの、ここで意見を曲げるわけにはいかないと考えていた。人助けは、尊いものだ。相手が誰であれ、その相手のために献身的に働くということほど純粋なものはあるまい。しかし、その結果、起こるかもしれないことへの責任について想像力を働かせることもできないようでは、一人前の武装召喚師にはなれない。エリナは、いまや武装召喚術を使いこなせるほどに成長し、その成長速度たるや天才の部類といってよかったが、経験ばかりは不足していた。
と、そのときだった。ウィレドが身動ぎする音がした。
「良いのだ……人間よ」
「へっ!?」
「はい!?」
「しゃ、しゃべった!?」
ミリュウもエリナも隊士たちも、一様に驚かざるを得なかった。衝撃的な出来事だ。皇魔が、共通語を喋ったのだ。予期せぬ出来事にその場にいただれもが驚き、のけぞった。ダルクスさえ、無言のまま驚きを表現していた。当然だろう。皇魔が人語を解するなど、想像できるわけもない。しかし、冷静になって考えてみると、別段、不思議な事ではなかった。クルセルク戦争のおり、共通語を解する皇魔が何体もいた。魔王がそう教育したからだが、それはつまるところ、皇魔が教育次第では共通語を理解し、操れるようになるということだ。皇魔の中には、人間の言葉を知ろうというものがいても、なんら不思議ではなかった。
「我はもう死ぬ。それでよい。このまま土に還り、世界を巡る光となろう。貴様ら人間の手を借りて生き延びるなど、恥辱の極み」
ウィレドは、諦観に満ちた声で告げてきた。深く落ち窪んだ双眸の奥から漏れる、血のように赤い光もまた、弱々しい。
「……恥辱の極み……ねえ」
ミリュウは、皇魔のそのような言い回しに苛立ちを覚える自分に気づき、はっとした。それはつまり、人間としての自分に多少なりとも誇りを持っているということかもしれない。
「師匠、やっぱりわたし!」
「……いいわ、あなたがそこまでいうのなら、思う存分にやりなさい。責任はあたしが持つ。それがあなたの師匠であり、隊長であるこのあたしの役目」
「師匠!」
「貴様……」
「散々人間を殺してきたあなたたちにとって、人間に助けられる以上の恥辱はないわよね。せいぜい、生き返ったことを後悔することね」
ミリュウは、エリナの優しい詠唱を聞きながら、本心とはまったく別のことを紡がざるをえない自分のひねくれきった心の在り様に苦笑するほかなかった。その苦笑は、ウィレドにも周囲の人間にもいみのわからないものと写っただろうが、どうでもいいことだ。
かくして、エリナの武装召喚術は発動し、彼女が呼び出した召喚武装は、皇魔の傷をみるみるうちに塞いでいった。