第二千三十五話 地底世界
大樹の幹から根本、地下へと向かって穿たれた空洞。
奈落の底まで続いていそうな暗闇を見ていると、なんだか地獄に堕ちたときのことを思い出してしまい、セツナは思わず身構え、ウィレドたちに宥められた。
「そう緊張するものではない。この中に飛び込めばいいだけのことだ。そうすれば、我々の国アガタラへと辿り着く」
「いやあ、この状況下で緊張するなってほうが無理なんだけど」
セツナは、当たり前のことをいったつもりだったが、ウィレドはなにか感じるものがあったようだ。
「ふむ……巫女とは違うな」
「エリナがなんだって?」
「巫女は、凄くはしゃいでいた」
「……そうかい」
「エリナちゃんらしいといえば、らしいですね」
アスラが少しばかり安堵したようにいった。エリナやミリュウがウィレドたちに拉致されたわけではないということがわかれば、安心もするものだ。もちろん、ミリュウがウィレドたちに押し負けるはずもなく、力づくで攫われることなどありえはしないのだが。
「まったくだ。きっとミリュウも一緒になってはしゃいでたんだろうさ」
とはいったものの、ミリュウは、ファリア宛て、セツナ宛ての手がかりを残すため、必死になっていた可能性のほうが高く、セツナは胸中で前言を撤回した。もっとも、そのミリュウの手がかりというのも随分と遊びが入ったものではあり、すぐにでも救援を求めようというものでもなければ、自分たちの状況を知らせようというものでもなかったを思い出し、苦笑する。日本語だったのはウィレドたちに気づかれないために、ということなのだろうが、だとしても少々遊びすぎだ。
(あとで叱っておこう)
当然だが、ミリュウが手がかりを残したことそのものを叱るわけではない。
セツナがひとりそんなことを考えていると、腕組みしていたウィレドが妙案を思いついたようにいってきた。
「不安ならば、まずは我が先に行こう。安心してついてくるがいい」
いうが早いか、ウィレドの巨躯が空中を舞った。軽々とした身のこなしは、さすがは皇魔と唸らせるものだった。
セツナは、その漆黒の巨体が大樹の空洞に吸い込まれていくのを見届けると、残るウィレドたちの視線に急かされるまま空洞の目の前まで歩み寄った。中を覗き込むも、もはや先に飛び込んだウィレドの姿は見えず、茫漠たる暗黒が広がっているのみだった。アガタラは、地底にあるという。この大樹の空洞から地底空間に繋がっているのだろうが、果たして、どれほど長大な空洞となっているのかは想像もつかない。地上に全く干渉せずにすむほどだというのだから、並大抵の深さではあるまい。
これまで様々な経験をしてきたセツナも、着地点の見えない、高度もわからない暗黒の闇の中に飛び込むことには勇気がいった。エリナやミリュウがなにごともなくアガタラで生活しているということが判明している以上、落下死するようなことはないのだろうが、それでも底が見えないというのは恐ろしいものだ。
振り向くと、アスラがそわそわと自分の番を待っている。さすがの彼女も、大樹の空洞に飛び込むことには恐怖を禁じ得ないらしい。そんな彼女を見ていると、セツナの心に火が灯った。
「……よし」
セツナは、覚悟を決めると、アスラの背後に回った。きょとんとする彼女に構わず、肩を抱き寄せ、姿勢を崩した瞬間に足を抱え上げる。アスラがめずらしく可愛らしい悲鳴をあげたが、気にも止めずに地を蹴っていた。そして、空洞の中に身を投げ入れる。大樹の空洞は、ウィレドの巨躯が悠々と通れるくらいに広い。セツナがアスラを抱えたまま飛び込んでも、なんの問題もなかった。
「セ、セツナ様!?」
「これなら、飛び込む勇気なんて必要ねえだろ」
「それは……そうですが」
アスラは、セツナの腕の中で、なにやらもじもじしていた。
「お姉様に知られたらと想うと、気が気でなくて……」
「はあ?」
アスラの妙な心配を他所に、セツナは、大樹内の暗黒空間を重力に引きずられるまま落下していく感覚に冷や汗が噴き出すのを認めた。全身総毛立つのも当然だ。眼下には果のない暗黒だけが広がっており、無限に続く闇の中を落ち続けているような錯覚さえ脳裏を過ぎった。アスラも、恐怖からかセツナの首に腕を回し、離れまいと力を強める。
「どこまで落ちるのでしょう!?」
「そりゃあ、地底まで」
暗黒空間をただひたすらに落ち続けるのも束の間だった。突如として、セツナの肉体を引きずり降ろさんとしていた重力が薄れたかと想うと、浮力が体を貫くような異様な感覚があった。そして、つぎの瞬間、セツナたちは暗黒空間の先に閃光が走るのを見た。
「――だろ」
閃光は、セツナの視界から暗黒の闇を消し飛ばすとともに、眼前に幻想的な情景を映し出していった。
それは、セツナもアスラも思わず息を呑むほどの光景だった。
暗黒空間の先に待っていたのは、とてつもなく広大な地下空間だった。
それこそ、大陸最高峰の峻険であるリョフ山が丸々飲み込めるほどの高度があり、セツナたちは、そんな高空をゆっくりと降下している真っ只中だった。なにがどうなっているのかわからないが、重力を無視した速度で、地底の地上に向かって降りていく。落ちているのではない。降りているのだ。
その地底の地上に広がる世界は、幻想的というほかなかった。
都市だ。
巨大な都市が眼下に横たわっている。
それもただ巨大というだけではない。壮麗な建物が無数に立ち並ぶ都市の中を、何百、何千、いや、何万というウィレドたちが闊歩し、生活していることがわかる。ウィレドたちの極めて文化的、文明的な暮らしは、セツナの中の皇魔観、皇魔に関する常識を根底から覆すものといってよく、彼はただただ衝撃を受け、絶句するほかなかった。それは、アスラも同様であるらしく、セツナの腕の中から振り落とされまいとしがみつきながらも、アガタラという名の大都市を目を見開いて見下ろしていた。
中心に黄金の宮殿があるのだが、その壮麗さたるや獅子王宮は無論のこと、龍府の天輪宮以上といっても過言ではないくらいに素晴らしいものだった。本物の黄金がふんだんに使われていることがその自然な輝きからもわかる。それも、ただひたすらに黄金を用いているわけではない。散々に細工が施されており、ただ豪華で派手ということではなかった。
黄金の宮殿の四方に聳える門もそうだ。北に聳える朱の門も、南に聳える黒の門も、東西の青門、白門のいずれも、ただ派手な作りをしているわけではない。華やかで美しく飾り立てられており、人間の目から見ても美麗であるといわざるを得なかった。とても皇魔ウィレドの国とは思えなかったし、彼らの外見から想像のつくようなものではなかった。
美的感覚が人間に近いのかもしれない。
アガタラは、中心に聳える黄金の宮殿と四方の門で仕切られた四つの区画からなる都のようだった。広大な地下空間の大半は、アガタラの都市空間に使われている。朱門の先、紅い屋根が並ぶ区画は、居住区のように見えた。黒門の先には黒々とした地が広がっており、そこにはウィレドたちが農作業に従事している様が見て取れる。青門の先、東の区画は膨大な水源となっており、そこからアガタラのあらゆる区画に向かって川が流れている。白門の先は、丘陵地帯となっており、白亜の宮殿があった。
「どうだね。我々の地底国家アガタラをひと目見た感想は」
ふと眼下に視線を移すと、先に飛び込んだウィレドが空中を浮かびながら、こちらに近づいてきていた。漆黒の飛膜を羽ばたかせながら、ゆっくりと。慎重な接近は、セツナたちに警戒を抱かせないように、だろう。そういう気遣いには好感を覚えるものの、まだ気を許すのは早い。
「綺麗……ってのが率直な感想だ」
「わたくしも、似たようなものですね。とても、皇魔の国とは思えませぬ」
「そこは、巫女や従者たちと変わらんようだ」
ウィレドが心底おかしそうにいって、笑った。人間にとっては醜悪な怪物にしか見えないウィレドの顔も、見慣れると、案外愛嬌を感じられるものであり、セツナはそのことが不思議だった。
「皆、驚いていた」
「そりゃあそうさ」
「なぜだろうな。我々が多少文明的な暮らしをしていることが、どうしてそうも奇異に想えるのだ。それが不思議でならない」
と、いってはきたものの、彼はすぐさま頭を振った。緩慢な地上への降下の中、大気を切り裂く風の音だけが響いている。
「いや、わかっているのだ。貴様ら人間は、我らがただの化け物かなにかだと想っているからだろう」
「う……」
「醜い姿の化け物だから。残忍で狂暴な怪物だから。悪魔だから。そこで思考停止し、我々に独自の文化、文明があることに思い至らない。我々が人間の文化や文明に興味を持ち、調べ、取り入れたのとは全くの逆といえるだろうな」
ウィレドは、理性的に、しかし冷ややかに告げてくる。その言葉は、切れ味の鋭い刃のようではあったが、セツナたちに対する悪意がないことは、その穏やかな表情からも窺い知れる。彼は、最初からセツナたちに敵意を持ってはいなかった。
「怪物は怪物のままでなければならない。それが貴様ら人間の結論なのだろう。そのことを否定するつもりはないよ。我らも、結局は同じだ。同じなのだ」
「同じ……?」
「我々にも歴史があるということだ。そして、その歴史を取り戻す術などありはしない」
彼の諦観にも似た言葉には、引っかかるものがあったものの、そのことを追求することはできなかった。
「さて、つまらぬ話はここまでだ。巫女と従者たちの話を、しよう」
彼が、本題に入ったからだ。