第二千三十四話 悪魔の国
「我々の国へ行く前に、ひとつだけお願いしたいことがあるのだが、聞いてもらえるだろうか」
セツナたちの話が纏まった後だった。ウィレドの一体が、セツナたちに申し訳無さそうな、いいにくそうな、そんな口調で話しかけてきたのだ。
「なんだ?」
「……我々の国アガタラは、本来ならば人間や他の種族を受け入れることはなく、ましてやその在処を人間に明かすことなどあってはならない禁忌とされている。我々は、その禁忌をこれより侵そうとしている。それは、いい。我々の未来のためには必要なことだ」
「なにが問題なんだ?」
「在処を多くに明かすということそのものが、問題なのだ」
「つまり……なにがいいたいんだ?」
セツナは、ウィレドの意図が読めず、眉根を寄せた。レムたちも小首を傾げるしかないと言った様子だ。
「貴様たちはつい今しがた、人数を分けた。そのことについて、いっているのだ」
「俺たち全員でついてこいっていいたいのか?」
「できればそうしてもらいたいのだが……もしそれが否だというのであれば、いますぐにでも森を出ていってもらいたい。在処を知ることができるのは、我々とともについてくるものだけだ」
「……そういうことか」
セツナは、ウィレドの話から彼の危惧を理解すると、すぐさまレムとアスラ隊の皆に指示を出した。要するにウィレドは、アガタラとかいう国への出入り口がどこにあるのか、人間に教えたくはないのだ。それが知られれば、人間がアガタラに侵攻してくる可能性がある。皇魔が人類を忌み嫌うように、人間もまた、皇魔を蛇蝎の如く嫌っている。無論、リョハンが皇魔の国に無意味な侵攻を企むようなことはありえないのだが、ウィレドたちが人間のそんな言い分を信じないというのは、わからない話ではない。人間としても、たとえば皇魔がそのような話をしてきたとして、信用するかといえば、しないだろう。
ウィレドたちの用心深さは妥当と思えたし、そのために苦心している様子のウィレドの姿を見れば、彼らの言い分に従うのが得策だと思えた。ここで抗ってもなんの意味もないし、むしろ、ミリュウたちの処遇に悪影響を与えかねない。いまでこそ、エリナを巫女と扱っているためにミリュウたちに危害が及んでいる様子はないものの、ここでセツナたちが彼らの機嫌を損ねれば、状況が変わることだってありうる。
それにどうやら目の前のウィレドたちは、人間を襲うことを考えてはいなさそうなのだ。ウィレドの国が、リョハンに極めて近い場所にあるということは懸念材料ではあるが、とはいえ、彼らが人間と事を構える気がないのであれば、所在地を明らかにする必要はない。それに、セツナたちはその所在地を知ることができるのだから、事が終わり、ウィレドの国を出ることができたのならば、情報の共有は可能だ。
(無事に帰してくれるのなら、な)
ウィレドが皇魔の中でも例外だという保証はない。いまはただ、エリナを巫女として重宝がっているから人間に手を出さないだけかもしれないのだ。エリナがその役割を無事に終えれば、用済みとして処理しようとする可能性は決して低くはない。だからこそ、ミリュウ隊全員をアガタラに招き入れたのではないか。
もっとも、だからといってミリュウたちの身に危険が及ぶかといえば、そうは思えなかった。たとえエリナが巫女なる役割を終え、ウィレドたちが態度を豹変させたとして、ミリュウと彼女の部下たちがいる。いずれも優秀な武装召喚師だというのだ。ミリュウの魔法は擬似的なものとはいえ、強力無比であり、たとえ皇魔が相手であっても劣勢になることはあるまい。少なくとも、皇魔の国を脱出することくらいは可能だろう。
そういう意味でも、ミリュウたちが皇魔の国にいるということが判明したのは大きかった。神軍に拘束されたわけでもなければ、神人と遭遇し、殺されたわけでもなかったのだ。皇魔は人間よりも強靭な肉体と生命力を誇るが、神人や神獣とは比較するまでもなく対応しやすい。無論、相手の数にもよるが、砦ひとつたったひとりで壊滅させたことのある疑似魔法遣いには数など関係あるまい。
「では、わたくしどもはこれよりリョハンに帰還し、事の次第を報告させて頂きます。御主人様、アスラ様、どうかご無事で。そして、ミリュウ様やエリナ様のこと、どうかよろしくお願い致します」
「ああ、任せておけ。おまえのほうこそ、気をつけろよ」
レムと再び挨拶を交わし、彼女たちがこの場を離れるのを見届ける。
レムも、アスラ隊の武装召喚師たちも、セツナたちを信頼してのことだろう。そそくさとこの場を離れると、森の外へと急いでいった。視界からその姿が消えても、セツナの感知範囲から彼女たちの気配が消え去るまで多少の時間を要する。黒き矛の感知範囲だけでも広大だから、致し方のないことだ。しかし、レムたちが馬車に辿り着くのを待つ必要は、あるまい。いくら急いでも数時間はかかる距離だ。
空は既に赤く染まり、夜が近づいていた。
「これで、いいよな?」
「うむ。こちらの要求を受け入れてくれたこと、感謝する」
「郷に入れば郷に従え。当然のことさ」
とはいったものの、セツナがウィレドたちの要求を平然と受け入れたのは、どのような状況に陥ろうとも黒き矛の力さえあれば打開できるという確信があるからにほかならない。ここのところ、神人や神の加護を得たもの、また神そのものとの戦闘を経験してきている。皇魔は、もはや脅威には値しない。無論それは黒き矛の使い手たるセツナの感覚であって、常人や並の武装召喚師にとっては脅威そのものに違いはない。その感覚を忘れてはいけないと自戒の念を込めながら、セツナは、ウィレドたちに問うた。
「それで、どうするんだ? ここから移動するのか?」
「いや、その必要はない。我らがアガタラへの入り口はここにある」
「ここ?」
セツナが疑問に想ったのもつかの間、ウィレドたちは一本の大樹へと歩み寄った。それはミリュウが手がかりによって指し示していた大樹であり、セツナはようやく、ミリュウがどういう理由で大樹へと促したのかを理解した。
「この木だ。この木こそが、我らがアガタラとこの地を結ぶ門なのだ」
ウィレドはそういうと、木の根元に屈み込むと、厳つく尖った指先で地面から張り出した根っこに触れた。ウィレドの指先から力が大樹の根へと流れ込んでいくのが、なんとはなしにわかる。根の表面に鈍い光が走ったかと想うと、大樹そのものが大きく震えた。そして、根本から幹に向かって大きな穴が穿たれる。まるで化け物が口を開いたかのような印象だった。その空洞は、大樹の反対側ではなく、地下に向かって続いているようだった。どうやら、ウィレドの国アガタラは地下深くにあるらしい。
ウィレドが、大樹に生まれた空洞を指し示した。
「ここに飛び込めば、アガタラまで一直線だ」
「地下にあるんだな?」
「そういうことだ。我らは、天を追われた身。故に我らが父祖は、地中深くにこそ楽園を求めたという」
「へえ」
「実際、地底にこそ我らが楽園はあったのだ。地上にいれば、居場所を確保するためだけに貴様ら人間との争いは絶えなかっただろうからな。その点、地底はいい。貴様ら人間のみならず、他の連中と勢力を競い合う必要もない」
嘆息混じりに彼はいった。
他の連中というのは、ほかの皇魔のことだろう。ウィレドやレスベル、リュウディースは皇魔と一括りで呼ばれているものの、元来同じ種族ではない。それぞれ異なる世界からこのイルス・ヴァレに紛れ込んだものたちであり、本来ならば皇魔と総称するべきではないのかもしれない。しかしながら、皇魔という名称が聖皇の魔性という意味合いであることからも分かる通り、皇魔と総称することそのものは間違いではなかった。だからこそ、この世界の人々は、皇魔の種別ごとに異なる呼称をつけ、類別しているのだろう。単一の種族ならば、皇魔という名称だけでいいのだ。
「ただ虚しい時を過ごすことに意味があるのかどうかはわからぬが、少なくとも、闇雲に殺し合うよりはましだという父祖の考えは、わからないではない」
「あんたたちは、人間のことを心底憎んでいるわけじゃないんだな」
「憎んでいる。憎んでいるとも」
落ち窪んだ眼孔の底、血のように紅い光は憎悪に燃えているように見えなくもない。しかし、ウィレド本人から感じるのは憎しみや怒り、怨嗟といった感情とは、まったく別のものだった。もっと深く、もっと複雑な感情。
「我らは、忘れぬ。わけもわからぬままこの地に流れ着いた我らの父祖は、ただその姿形が醜悪だという理由だけで貴様ら人間に否定され、排除されんとした。我らの父祖は、人間との闘争を望まなかったにも関わらず、だ。何度となく呼びかけ、交渉の場を設けるように訴えた。そのために人間の言葉を学んだほどだ。そうまでして、我らが父祖は闘争を避けようとした。あらゆる手を尽くしてな。だが、結果はどうだ」
ウィレドが頭を振る。彼の感情が怒りに向かっていくのがわかる。震えている。彼の体だけではない。彼の周囲の大気そのものが震え、熱を帯び、渦を巻く。彼の感情が魔法となって世界への干渉を始めたかのようだった。
「人間どもは、交渉に応じるといって我らが大君を誘い出し、大君と御側衆を皆殺しにした。我らが父祖は大いに嘆き、悲しんだ。怒り、狂った。我らは、人間とともに歩もうなどと想ってさえいなかった。ただ、人間との間に約を結び、それによって互いを尊重しあうだけでよかったのだ。それ以上、求めはしなかった。だのに、人間どもは容易く我らを裏切った。いや、違うな。裏切りなどではあるまい。人間どもは最初から、我らを滅ぼすつもりでいたのだからな」
自嘲とも取れる発言をするウィレドに、セツナは、なんといったらいいのかわからなくなった。人間と皇魔が悲劇的な邂逅によって互いに忌み嫌い、憎み合う関係になったという話は、何度となく聞いて知っている。しかし、それが人間の手によって深刻化したなどという話は、聞いたこともなかった。皇魔による一方的な殺戮ばかりが話として残っている。
「それは……知らなかった」
「恥ずかしながら……わたくしも……」
「知らぬも道理よ。五百年も前の、ヴァシュタリアの話。神の教えを絶対正義と説く教会が、ウィレドを騙し討ったなどと喧伝するはずもない。正義の集団がそのようなことを公言すれば、正義の価値観が揺らぎかねまい」
「そりゃあそうだが……」
「それに、そのようなことはなにも人間の世にばかりある話ではない。我らウィレドの世界にも、同じようなことはいくらでもある。人間ばかりが悪いわけではないのだ。故に我らは人間をただ恨むことは止めた。人間どもも、ただ必死に自分たちの領分を守ろうとしただけなのだ、とな。それに我らとて、逆の立場ならば同じことをしたかもしれない。そう考えた」
ウィレドの語る言葉は、彼らがいかに冷静で理知的な種族であるかを伝えるものだった。普通ならば、そうはいかないだろう。期待を裏切り、騙し討にした人間たちを憎悪し、怨念を積み重ね、いつの日か復讐を果たそうと考えたとしても、なんらおかしくはない。いや、すぐにでも打って出て、人間たちを滅ぼそうとするほうが、普通だろう。皇魔ウィレドには、それだけの力があるのだ。
「故に我らは地下に籠もり、地上との関わりを絶った。五百年近くも前の話だ」
「それで……あんたたちが地上に出てきたのは、なんでだ? なんでまた、エリナたちを連れて行った」
「……まずは、貴様らをアガタラに招待したい」
ウィレドは、双眸を細めると、大樹の空洞に視線を移した。地下世界へ通じる空洞は、相変わらず不気味なまでの沈黙を保っている。
「話は、それからだ」