第二千二十八話 方舟(三)
「ここは……」
『いままでの通路よりは広いね』
『なにかの設備でしょうか?』
マリクに続いてニュウが意見を述べてきたところを考えると、どうやら通信器の幻像が見ている景色は、マリクのみならず、マリクの側にいるニュウにも把握できているらしい。さすがは神の力、というべきか。便利なものだと思わざるをえない。
「通路から設備のある部屋に直結しているってことはないでしょ」
冷静に告げながら、ルウファは周囲を見回した。マリクにもわかるよう、通信器を水平に掲げ、彼の幻像の視界を意識して動かす。通路とは扉で仕切られていたわけではないため、重要な設備ではなさそうに想える。行き止まりでもなく、奥へと至る通路もあれば、別室へ至る扉もあった。どうやら、通路と通路を繋ぐための空間のようだった。
「この空間自体は特に意味がなさそうな……」
『いや』
「はい? なにかありました?」
『ルウファ、君の左奥の扉を確認して欲しい』
「左奥の扉……」
反芻するようにつぶやきながら体を旋回させ、空間の左奥を魔晶灯で照らし出す。すると、彼の視界に浮かび上がってくるのは、つい先程確認したばかりの隣室への扉だ。両開きの扉で、取っ手はなく、厳重に締め切られている。
「これがどうかしたんです?」
ルウファは、その扉に近づきながら、マリクに問うた。
『その扉、開けてみてくれるかな』
「はーい」
ルウファは軽く返答すると、扉を開けるべく、魔晶灯と通信器を床に置いた。そして、両開きの扉の接触部分に両手の指を差し込む。そして、力を込め、左右に開こうとする。が、微動だにしない。どれだけ力を入れ、歯を食いしばっても、まったく動かなかった。まるで扉の向こう側になんらかの細工が施されているかのようにだ。
ルウファは、決して筋力に自信があるわけではないが、それでも並大抵の戦士よりは鍛え上げているし、召喚武装の補助もあり、その膂力たるや凄まじいものがあるはずだった。それなのに、閉ざされた扉はびくともしない。
「こいつ……やる……!」
呼吸を整えていると、通信器からマリクの声が聞こえてきた。
『やはり、か』
「なんなんです?」
『昇降機なんだろう』
「しょうこうき?」
『巨大な船だ。船の上部と下部を移動するのに階段だけでは不便だと想っていたけれど、そうか……昇降機があったか』
「しょうこうきってなんなんですかね」
『その扉内の空間そのものが上下に移動して、上層と下層を繋いでいるんだよ。そういう機械が存在するんだ。そうすれば、階段を移動する手間と労力を減らせるだろう?』
「なるほど、それは便利だ。でも、これ、動きませんよ?」
『昇降機なら、その扉の近くに起動用の装置があるはずだ』
「これ……ですかね」
ルウファは、扉の右横の壁に鉄の板のようなものを発見した。そこには、下を示す印の入った突起物があり、押し込むことができそうだった。
『おそらく』
「押してみますよ。押してみました」
いうが早いか、彼は突起物を指で押し込んだ。
『警戒もなにもあったもんじゃないね』
「それだけマリク様を信用してるってことですよ」
『うれしいよほんとうに』
『心にもないことを』
『まあ、心がないのは、ルウファも同じだし』
「あのですね」
ルウファは、マリクたちの会話に渋い顔になりながら、扉が微動だにしないことを確認した。
「って、なんの反応もありませんね」
『やっぱりね』
「なんなんですか、そのわかってましたよー的な反応」
『わかっていたことなんだから、仕方がない』
「むう……いやあまあ、そうなんでしょうけれども」
『方舟の動力そのものが失われているんだろう。だから、昇降機も反応しない』
「なるほど。つまり、方舟の動力を確保できれば、動かせると」
『そういうことになる。しかしこれで階段を探して降りなければならなくなったわけだけれど』
「む……」
『がんばって』
無感動な声が返ってきて、彼は憮然とした。
「凄い他人事感」
『まあ、他人事だから』
「ひどい」
『がんばって』
「ニュウさんまで」
ルウファは、守護神の座でいちゃつきながらこちらの様子を見守っているふたりの姿を想像して、なんともいえない顔になった。
とはいえ、方舟内部の調査は、リョハンのためにも、セツナのためにも必要不可欠なことだ。方舟を自由に飛ばせることができるようになれば、きっと、セツナの役に立つ。セツナは、リョハンのみに生きるひとではない。
神に対抗できるほどの力を持った彼は、きっと、世界中を飛び回る運命にある。
ルウファとしては、セツナにもこのままリョハンに居続けていて欲しかったのだが、どうやら、そういうわけにはいかないようだ。時が流れた。状況は変わり、彼らを取り巻く情勢そのものが様変わりした。ルウファはもはやセツナの部下ではなくなり、セツナもまた、ガンディアの武装召喚師ではなくなった。
昇降機の利用は諦め、その場から奥へと向かう通路を進んでいると、すぐ側に階段があった。魔晶灯で照らし、危険なものでもないかと確認する。
「罠のようなものはなさそうですねえ」
『まあ、あったとしても君に見つけられるものかどうか』
「怖いこといわないでくださいよ、神様」
『脅しているわけじゃないんだけど』
「いやいや、どう考えても俺の反応を聞いて楽しんでるでしょ」
『まさかそんなことあるはずない』
『そうよそうよ。マリク様がそのようなことをなさるはずがないでしょう』
「むう……にわかにはしんじがたいが……」
『どうしてそこまで疑うのか』
「んー……人徳?」
『ぼくは神様だからね』
「あー……そうか、そりゃあ人徳なんてあるわけないっすよねー」
『納得するんだ』
「ふへへ」
馬鹿なことを言い合いながらの調査は、にぎやかにもほどがあった。ルウファの声もマリクたちの声も安置されて以来ずっと沈黙したままの方船の内部を反響し、静寂をかき乱すかのようだ。しかし、そのにぎやかさがルウファには大変好ましかった。別に小心者というわけではないが、どんな罠が仕掛けられているかもわからない未知の領域を調査しなければならないのだ。それもたったひとりで、だ。心細さを感じずにはいられなかったし、そんなとき、マリクやニュウと馬鹿げたことをやりとりできるのは、救いになった。少なくとも、孤独を感じずに済む。そしてそれがたったひとりの調査には重要だ。特に彼のような孤独を恐れる人間には、この上なく。
階段を一歩一歩、一段一段慎重に降りていく。魔晶灯が照らし出すのは、無機的な方船内の風景であり、どこを見ても代わり映えがしない。
ルウファたちがリョハンに向かう際に乗り込んだ川船のほうがよほど見応えがある、といってもよかった。
「神軍って外観とか内装とかに拘らないんでしょうね」
『唐突になんだ』
「どこを見ても殺風景で、調査も楽しくないっていうか」
『調査なんてそんなものでしょ』
「えー、リョハンの周辺領域調査は少なくとも楽しんでますよ、俺は」
『そうなんだ。意外』
『まあ、起伏や変化に飛んだリョハンの周辺と比べれば殺風景なのも仕方ないんじゃないかな』
「そりゃあそうですがね」
階段を降りきり、左右を見ると、さらに下層に続く階段があったが、ひとまず現在の層を調査することに決める。相変わらず狭い通路だ。大の大人がふたり並んで通れるくらいの狭さは、利便性、機能性を優先して作られたわけではないことが伺いしれる。その割には内装に凝っているわけでも、変わった構造をしているわけでもないのだから、奇妙としか思えない。
魔晶灯と通信器を平行に掲げ、通路の先を照らす。マリクの幻像がちらりとこちらを振り向いてくる。
『なんの真似だい』
「俺が見つけられないっていうんなら、マリク様に罠を見つけていただこうかと想いましてね」
『なるほど。君、頭良いね』
「ふへへ」
『褒めてないわよ、全然』
「わかってますよ、そんなこと」
ルウファは、苦笑を交えながらミリュウに言い返すと、魔晶灯と通信器を掲げたまま、階段の左右を見回した。通路は、どちらにも続いている。向かうとすれば、方船の中心だろう。機密というものは大抵中心に集まっているものだ。もっとも、神軍の神がこの方船を置き捨てた際、重要なものはすべて持ち去っていったと考えるべきであり、ルウファがこれから調べるのはこの船の内部構造だった。
方船を運用することができれば、それだけでもすごいことだ。
階段を降りて右側の通路に向き直る。ルウファが入ってきた方向とは逆方向、つまり、方船の中心へと向かうはずの方角であり、彼は、魔晶灯の光が照らし出した無機的でどこか冷徹でさえある通路を歩きだした。
硬質な床を踏む靴音だけが反響する通路には、罠のようなものは見あたらなかったし、引っかかることもなかった。マリクは罠が張られているかもしれないとはいったが、可能性を示唆しただけであり、確実性のあることではないのだ。罠など一切存在しないかもしれないし、いま現在の目的地である方船の中枢部にこそ、罠が張り巡らされているかもしれない。
注意はしながらもしすぎることはなく、彼は足取りも軽く通路を進んだ。鼻歌さえ紡ぐほどの軽妙さには、さすがのマリクも苦笑いをしてきたものだが、彼は気にもしなかった。
代わり映えのしない通路。左右の壁は、船体そのものと同じ材質でできているらしく、金属のようなそうでもなさそうな代物のようだ。触れると、ひんやりとしている。冷えきった金属のような冷ややかさだ。しかし、指で押し込むとわずかに弾力があり、金属とはまるで違う材質だとわかる。
「これ、なんなんですかね。金属っぽいのに妙に弾力があって……」
『さて……少なくともぼくの知っている中には存在しない材質のようだ』
「神様でも知らない材質かあ……」
『神様とはいっても、全知全能ではないんだよ』
「わかってますけどー」
一応反論してから、彼は懐にいれていた魔晶灯を取り出し、通路の先を照らした。金属めいた材質の謎を解明するのは、ルウファの役割ではない。そういうことは、ミドガルド=ウェハラムのような技術者の仕事だろう。そう思ったとき、もし彼がここにいれば、喜んで方船の内部調査に賛同し、みずから乗り込んだに違いないという想像に行き着き、彼は苦笑した。意気揚々と船内を探索するミドガルドとそんな彼に嘆息をもらすウルクの姿が容易に思い浮かんだからだ。
ウルクによく似た量産型魔晶人形の存在により、ミドガルドの健在はほぼ確定的だ。彼がいまどこで実際になにをしているのかは不明なままだが、魔晶人形を複数製造しているところからみて、ただ無事なだけではあるまい。どこかで魔晶技術を磨きながら、なにかしらの機会を待ち続けているのかもしれない。
そこまで考えて、ルウファは頭を振った。いまは、ミドガルドのことよりも、調査のほうが重要だ。
そこは、通路の左右にいくつもの扉が並んでいる区画だった。船員室ばかりが並んだ区画かもしれない。そう思い、手近にあった扉を押し開くと、確かに小さな部屋があり、そこには寝台がいくつも並べられていた。部屋の一室一室が複数人の共同部屋のようだが、それもただ眠るためだけの部屋らしかった。船員にはこの程度の部屋でいいということなのだろうが、それにしても劣悪な環境というしかない。
ほかの部屋も見てみたが、同じだった。そしてどの部屋のどの寝台も乱れておらず、寝具がきちんと整えられていた。まるで利用された痕跡もなければ、神軍の神によって処分された様子もない。ただ、設置当初のまま放置されているような印象さえ受ける。
「神軍って極悪な労働環境なのかも」
『それはリョハンとの戦いを鑑みれば一目瞭然でしょ』
マリクが冷ややかに告げてくる。
『おそらく至高神ヴァシュタラを信仰してやまなかった敬虔なヴァシュタラ信徒たちは、かつてヴァシュタラの一部に過ぎなかった神々にいいように利用された。手足ですらないただの捨て駒同然の扱いを受けてね』
そういってから、彼は、もっとも、と続けた。
『もっとも、ヴァシュタラ神との合一を夢見た狂信の徒にとっては、夢のような時間だったかもしれないけれど』
「夢のような?」
ルウファは、共同部屋の扉を閉めながらマリクの言葉に眉根を寄せた。
「悪夢の間違いなんじゃあ……」
『彼らの一部は、神の尖兵になれたんだ。神の徒にね。その事実を歓喜とともに受け入れるものもいただろう。そういうことだよ』
「まあ……そういう風に考えるものがいたとしても、おかしくはない……か」
『マリク様の神人になれるのなら、悪くはないかも』
『嫌だよ、ぼくは』
『マリク様……』
「あー、あっついあっつい。春のリョハンだというのに、あついったらないねー」
『君だけにはいわれたくないんだけど』
『本当ですよねえ……リョハン一熱い夫婦で有名なくせに』
「う……」
まさかの反撃に、彼は、反論も思い浮かばず、間の抜けた顔になった自分を認識した。