第二千二十七話 方舟(二)
シルフィードフェザーは、風の属性を持つ召喚武装だ。
形状は、純白の外套であり、まるで風の精霊が編んだかのように美しいという師の評価から、シルフィードフェザーと名付けた。
名称の由来は、もうひとつある。外套から純白の翼へと変化させることができ、その状態のとき、彼は周囲の大気へと働きかけ、支配し、空中を自在に飛び回ることができるようになる。その姿はまるで天使のようだと評判であり、ルウファ自身の外見も相まって、本当の天使が降臨したと勘違いされたこともあった。武装召喚術の知識がない人間には、翼の生えた人間にしか思えず、天から舞い降りた神の使いと誤認しても無理のないことなのだ。
武装召喚術が誕生したのはおよそ五十年前。その直後、武装召喚術の総本山であるリョハンにて創設された《大陸召喚師協会》が大陸全土に広めたことで世界各地で武装召喚師が誕生し、武装召喚術なる疑似魔法が存在するという事実も広く知れ渡った。しかし、いまもなお武装召喚術の存在を知らないものはいて、ヴァシュタリア共同体勢力圏では、それが顕著だという。
武装召喚術の力でヴァシュタリアから独立したリョハンという例があるにも関わらず、だ。
それは、ヴァシュタリアが意図的にそうし向けたからだという。ヴァシュタラ教信徒に武装召喚術の存在が知れ渡れば、リョハンに武装召喚術を学ぼうとするものが現れるかもしれない。リョハンは、反教会の自治都市だ。そこにはヴァシュタラ教会とは無縁の自由があり、活気がある。ヴァシュタリア、ヴァシュタラ教会の在りように疑問を抱かないものが現れないとも限らない。そして、そういったものがわずかでも現れれば、リョハンの独立騒ぎのようなことがまた起こらないとも限らないのだ。
ヴァシュタリアの考えすぎではないかというほどの危機感が、ヴァシュタラ教信徒と武装召喚術の接触を禁じた。
リョハンの独立に関する経緯も、ヴァシュタラ教信徒には、まったく別の経緯によって独立を認める運びになったと公的に発表し、また、リョハンは悪魔の棲む都市であり、近づくべきではないとも公言していう。ヴァシュタラ教信徒に武装召喚術を理解させないために、あらゆる手段を用いたということだ。
そのため、ルウファがリョハン近隣の都市を訪問した際、大騒ぎになったのだ。
ふと、そんなことを思い出してしまったのは、方舟がまさに神の軍勢の代物としてルウファの記憶に深く印象づいているからだろう。
しかも、その神というのは、リョハンにとって邪神、悪神といってもいい類の神様であり、守護神マリクのように崇敬できる存在ではなかった。
方舟は、二度、リョハンに災厄をもたらした。一度目は、数万の軍勢によってリョハンを攻め落とそうとし、二度目はその何倍もの軍勢による包囲覆滅の試みであり、どちらも外部の協力がなければ、リョハンだけの戦力では窮地を脱し得なかっただろう。いま思い返すだけでも心が震えるようだ。
一度目は、まだ、いい。数万とはいえ、敵は人間のみであり、対処しきれないものではなかった。リョハンが非戦闘員の投入さえ惜しまなければ、撃滅することだってできただろう。しかし、二度目は、そうはいかなかった。ラムレス率いる竜たち、そしてセツナが助けに来てくれなければ、リョハンは神軍の圧倒的戦力の前に滅び去っていたに違いない。
そのため、ルウファは方舟を滅びの予兆を運ぶ不吉な船として、認識している。
甲板に降り立ち、周囲を見回す。巨大な船の甲板上。見たり、足の裏の感触程度では、どのような材質で作られているのかはわからなかった。少なくとも既知の素材ではなさそうだ。木製でもなければ金属製でもない。それは甲板だけのことではなく、方舟全体にもいえることだった。方舟の各所には金属製の構造物も見当たらないわけではないが、甲板や天蓋など、金属以外の材質らしきもののほうが多かった。そして、甲板と天蓋は同じ材質で作られているわけではなさそうだ。天蓋は半透明で空の青さまで認識できるほどだが、甲板はその向こう側――方舟の内部構造が覗けるようなものではなかった。
「甲板上は、見る限り、いかにもふねーって感じですね。特に怪しいものも見当たりませんし……」
『問題は内部だよ、ルウファ』
「罠があるとしても、内部ってことですよね」
『そういうこと』
マリクの当然のような反応に、彼は通信器を軽く睨んだ、手にした金属製の円盤は、神の力によってなのか淡く発光している。通信器は、守護結界の中心から動くことのできないマリクが、その場を離れずとも、外部の人間と話し合うことができる優れものであり、いまのリョハンにはなくてはならないものといってよかった。マリクは守護神としてリョハンのことをよく見、よく考えている。神の視線、神の意見は、リョハンの運営に極めて重要なのだ。
『どこかに船内への侵入口があるはずだ。いくら神軍が神の軍勢とはいえ、その軍勢を運ぶための船が神属専用の構造にはしないだろう』
「神属専用って……たとえば?」
『空間と空間が断絶されていて、転移手段を用いなければならないような構造のことだよ』
「なるほど……そりゃあ確かに神様専用ですな」
そうはいいながらも、ルウファの脳裏には空間転移能力を持つ召喚武装がいくつか浮かんだ。ひとつは黒き矛だが、あれは血を媒介にしなければならず、どこでも利用できるものでもない。それに断絶された空間へ望みどおり転移できるかというと、疑問が生まれる。やはり、神属専用の構造物となれば、召喚武装の能力で突破できるものではないのかもしれない。
『方舟は、神軍所属の人間たちが使っていたんだ。どこかに船内への出入り口があると想うんだけど』
「あれですかね。あの階段の下、扉がありますよ」
ルウファは、甲板上の奥まったところに扉を発見し、そそくさと駆け寄った。階段を飛び降り、扉を確認する。取っ手のあるしっかりとした扉だ。内部を覗くための窓があり、半透明のガラスのようなものがはめ込んである。ガラスと断言できないのは、天蓋と同じ材質のものかもしれないからだ。窓から船内を覗き込むが、案の定、中は真っ暗でなにも見えない。
それから、ルウファは、扉から少し離れ、通信器を水平に掲げた。通信器の中心、淡い光を漏らしていた円形の部分からさらに強い光が発せられたかと思うと、小さな人形のような幻像が現れる。守護神マリクそのものの姿を象った幻像は、ルウファが目指す扉を見やり、しばらくしてこちらを仰いできた。
『とりあえず、入ってみてくれないか』
「わっかりました」
ルウファは、マリクの幻像にあっさりと返事をすると、扉の取っ手に手をかけた。手がしびれるようなこともなければ、熱を感じるといったこともない。むしろ、ひんやりとした感触は、北の大地の春の遅れを認識させた。取っ手を引き、扉を開ける。船内への通路は影になっていて真っ暗だった。ルウファは少しばかり考え込み、はたと閃くと、おもむろに扉の内側へと足を踏み入れた。召喚武装を装備していることによる超感覚は、反響する足音から通路の広さ、奥深さをある程度まで把握するが、そんなものだけを頼りに暗闇の中を進めるわけもない。
『どういうつもりなんだい』
「どういうつもりもなにも、明かりが必要ですんで」
『罰当たりなことをするもんだ』
「いやあ、マリク様ほどでもありませんよ」
ルウファは、通信器を正面に掲げることで、マリクの幻像が発する光を照明として船内通路を照らし出したのだ。当然、マリクは横倒しになった状態になる。もちろん、マリク本人にはなんの影響もあるはずがない。幻像は幻像に過ぎない。
だからこそルウファは一見暴挙に見えなくもないこのような行動を取れたのだが。
守護神の幻像が発する光を頼りに通路を進む。
船内通路は道幅が狭く、また想像以上に入り組んでいた。何万もの兵を詰め込むには空間的な広がりが圧倒的に足りないのだが、マリクの考察によれば、神軍はその数万、数十万という兵力を方舟に乗せていたわけではない可能性が高いという。方舟内部に空間転移装置のようなものがあり、そこから神軍拠点に滞在する兵士たちを転送させたと考えるほうが合理的だという。神の力によって船内空間を捻じ曲げ、巨大な空間を作り出し、そこに何千何万の兵士を積み込むこともできなくはないが、神の負担を考えると、あまり考えられることではないらしい。それに、空間転移を促す転送装置があるということは、ケナンユースナルによって明らかにされているのだから、後者の可能性はないに等しい。
どちらにせよ、船内に神軍の兵士が残っていることはないだろうし、転送装置とやらもケナンユースナルによって破壊されている。罠が張り巡らされている可能性はあるにせよ、恐ろしくはなかった。こちらには神の加護があるのだ。なにを恐れることがあるというのか。
ルウファは、マリクのあの発言以来、足取りも軽く、気も大きくなっていた。敵の船の中だというのに慎重に行動することを忘れ、大胆不敵なまでのおおらかさで船内を闊歩した。もちろん、船内がどうなっているのか、確認することは怠っていない。しかし、いくら見回してもとくになにがあるようにも見えないのだ。
「暗すぎてよくわからないのも、ありますな」
『魔晶灯を用意しろといったはずなんだけど』
「ああ、もちろん、用意していますが」
『だったら、ぼくじゃなくて魔晶灯を活用して欲しいんだけど』
「そうですね」
ルウファは、マリクの意見に抗わず、腰に下げていた携帯用の魔晶灯を手に取った。魔晶灯に触れ、点灯させると、その明るさたるや通信器の光とは比べ物にならないほどに強かった。冷ややかな青白い光がルウファの前方から闇を払い、照らし出す。
迷宮に等しかった船内通路がちょうど途切れ、広い空間が彼の到来を待ちわびているかのようだった。