第二千二十三話 ひとというもの(一)
ファリアは、その日、いつになく自分の機嫌がいいことに気づいていた。
戦宮の執務室に籠もり、書類仕事に向き合いながら、ときに鼻歌などを浮かべていることさえあった。めずらしいことだ。いや、めずらしいという次元ですらないだろう。“大破壊”以来、そのような日があった例がない。
ファリアが戦女神を受け継いだのは、“大破壊”直後といってもいい時期だった。それからというもの、ファリアは常日頃から自分を律し続けなければならなかった。彼女が理想と掲げる戦女神像に自分自身を少しでも近づけるためには、自分を甘やかしてなどいられるはずもなく、どのような状況であっても気が抜けなかったし、いつだって戦女神たろうとする努力を続けてきた。息を抜くことができるのは、仕事をしていないほんのわずかな時間であり、それさえも、他人の視線があればそうはいかなかった。戦女神としての顔をしなければならなかったし、言動に気をつける必要があった。
戦女神とは、高潔で清純なまさに女神と呼ぶに相応しい人間なのだ。
ファリアは、自分がそのような人間とは程遠い人格、精神性であることをだれよりも理解していたし、故にこそ、日常から言動に気をつけ、理想の戦女神らしく振る舞うよう細心の注意を払っていた。そうした努力が実を結んだのか、いまでは継承当時とは比べ物にならないくらいにリョハンのひとびとに敬われ、慕われているということを肌で実感する。ファリアが理想とする戦女神像は、リョハンのひとびとが想像する戦女神の姿に近いという証明だろう。それがわかれば、なおのこと理想の戦女神像に近づくためにも力が入るというものであり、彼女は日々、自分が思い描く戦女神との距離を縮めるべく努力を忘れていなかった。
しかしながら、ここのところ、仕事中であっても、ひと目さえなければ気が緩むこともあり、つい、口元がほころんでしまうようなこともあった。そういうとき、彼女の頭の中には幸福な風景が浮かんでいて、その風景のあまりの甘ったるさにしびれるような感覚さえ覚えるほどだった。無論、戦女神たるもの職務を放棄して妄想に耽るなどあってはならないことであり、すぐに思い直しては自分を律するのだが、そういう自分の人間としての不完全さを理解し、受け入れることができるようにもなると、なにも完全であろうとしなくていいのではないか、と想えるようになったのだ。
自分は、神ではない。
人間という不完全な生き物のひとりに過ぎず、なにもかもを完璧にやり遂げることなど理想でしかない。ひとは、支え合って生きているものだ。ひとりで生きていけるはずもない。その絶対的な現実は、彼女が戦女神になったからといって変わるはずもなかったのだ。失念していたわけではない。忘れていたわけではない。ただ、高邁な理想を追い求めすぎて、見えなくなっていただけなのだ。
それが見えるようになったのは、およそ十日あまり、戦女神としてではなくひとりの人間、ひとりの女としての時間を持つことができたからだろう。
ただひたすら理想を求めて走り続けてきた足を止めた。
すると、どうだろう。
ただ過ぎ去っていくばかりの景色が、あざやかな風景となって広がるばかりではないか。
そのときになって初めて、ファリアは、自分の視界がいかに狭量で、自分の思考がいかに凝り固まっていたのかを理解した。そして、リョハンを支えてきたのが戦女神であるファリアただひとりではなく、護山会議の議員たちや護峰侍団の隊長、隊士たち、七大天侍の皆を含む、リョハンの住民ひとりひとりだということを悟ったのだ。
ファリアが立ち止まって考える時間を持つことができたのは、ひとえに、彼女のために強引な方法を強行した祖父アレクセイ=バルディッシュのおかげであり、アレクセイと共謀したと言っても過言ではないスコールたちやアレクセイに騙されたセツナのおかげだった。アレクセイたちがいなければ、行動を起こしてくれなければ、ファリアは凝り固まった思考と、あまりにも狭い視野のまま、間違った理想を追い続け、多くの物事を見失い続けることになっただろう。
理想を追いかけるのはいいが、そのために視界を失い、思考を放棄してはなんの意味もない。
ひとは、ひとりでは生きてはいけない。
戦女神も同じだ。
戦女神がいくらリョハンの支柱だなんだといっても、戦女神の考えを実行に移すのは、護山会議やそれに連なる役人たち、七大天侍や護峰侍団の面々であり、戦女神ひとりではなにもできないのと同じなのだ。
そのことを理解し、いままでの自分の言動を省みると、自分がどれほど浅はかで愚かだったのかと頭を抱えたくなるほどだった。彼女が幸福な日々から現実に戻った直後、直面し、対峙しなければならなかったのが、それだ。
ファリアは、それらをひとつひとつ自分の中で処理し、決着をつけていった。そうすることでファリアの中の理想の戦女神像に変化も生じていた。ただだれよりも気高く、力強く、清廉で非の打ち所のない完全無欠とでもいうべき人物を目指していては、埒が明かないことも理解した。そんな人間は、いない。おそらく、それは人間と呼べる生き物ではないだろう。人間は、感情の生き物だ。感情があるということは、どこかに欠点を持つということにほかならない。常に心穏やかに、波風を立てず、微笑み続けられる人間などいるものだろうか。ファリアは、自分がそういう人間にはなれないことを知っていたし、先代戦女神、つまりは祖母も感情豊かで欠点も多く持つ、ただの人間であったことを思い出したのだ。
それでも、祖母は戦女神として完全無欠に等しかった、とファリアは記憶している。ファリアの記憶の中のファリア=バルディッシュは、いつだって微笑みを湛え、穏やかだった。だれからも愛され、尊ばれ、同時にだれもを愛し、尊ぶ、そんなひとだった。
祖母のようには、なれない。
だが、祖母とは違う戦女神にならば、なれるかもしれない。
そういう風に考え方を改めたのだ。
要するに、肩の力を抜いた、ということなのだろう。
根を詰めすぎて周りが見えなくなっていたことを反省すると、世界は、違った色彩を帯びて見えるようになった。
いま、機嫌がいいのもそのためだろう。
今朝の定例会議は、いつになく穏やかかつ和やかに推移した。そのことが、彼女の機嫌の良さに直結している。
朝議のような定例会議には、護山会議の議員のみならず、七大天侍の数名、護峰侍団幹部たちが顔を出す決まりになっている。今朝の会議では、議長代理アレクセイ=バルディッシュに加え、護峰侍団三番隊長スコール=バルディッシュ、四番隊長アルセリア=ファナンラングが顔を揃えており、当然のように先ごろの実践的警備訓練についての話題になった。
アレクセイはスコール、アルセリアとともに事前に通達のない警備訓練の必要性、重要性を説き、それによって先頃の騒動の正当性を主張した。リョハンは、神軍という脅威に晒されて以来決して平和ボケしていたわけでもなかったものの、第二次防衛戦の多大な戦果は、リョハン全体から緊張感を奪いすぎたかもしれない、という意見もある。
ファリアとしては、実践的警備訓練の有用性には疑問の残るところではあったが、時間を与えてくれたアレクセイへの感謝からなにもいわなかった。警備訓練そのものは必要なことだが、戦宮への侵入者を警戒する必要など、端から存在しないのだ。
リョハンは、一柱の、本物の神によって護られている。
守護神マリクの七霊守護結界は、リョハンを外敵から護るだけのものではないのだ。結界内の全域に渡ってマリクの監視下にあるといってよく、害意を持ったものが戦宮に忍び込もうとしようものなら、即座に警報が鳴り響き、厳戒態勢に入れるのだ。
つまり、先頃の実践的警備訓練に伴うセツナの侵入やスコールたちの侵入も、マリクは気づいていたということだ。気づいていて、なんの行動も起こさなかった。マリクの耳には、アレクセイの悪巧みも筒抜けだったのだ。そして、リョハンの今後のことを考えた彼は、アレクセイの思惑通りに事を進ませたのだろう。
そのおかげでファリアはセツナとふたりきりになれたわけであり、自分を見つめ直すことができたのだから、マリクの心遣いにも感謝しなければならなかった。
当然、スコール、アルセリアにもだ。
そのことを会議が終わってから伝えると、スコールはいつになく優しい笑顔でこういってきた。
「ファリアちゃんの幸せを護るのが、俺の仕事だからさ」
「お兄様……」
「ファリア様、三番隊長の言葉は真に受けないように」
「おい、ひとがせっかく――」
「この野郎、ファリア様の寝顔を覗けるからというだけで引き受けたんですから」
アルセリアの発言も、真実の一端ではあるのだろうが。
ファリアは、そこからいつものように丁々発止の口喧嘩を始めたふたりを見守りながら、ひととの繋がりを感じずにはいられなかったものだ。
以前は、理解していたことだ。
ガンディアにいたころ、それこそ、ひとの繋がりに感謝しないことなどなかったし、人間という生き物が支え合って生きているということを痛いほど理解していた。それなのに、戦女神を受け継いだ瞬間、ファリアの頭の中からそういった良識が欠落していったのだから、恐ろしいものだ。
それだけ戦女神の重責が凄まじいということでもあるが、ファリア自身が幼かったということもあるだろう。
(年齢的には幼くもなんともないんだけれど)
ファリアはいまや成熟した自分の体のことを想ったが、そうするとどうしてもセツナのことを思い出さずにはいられず、体中が熱くなるのを止められなかった。わけもなく、羞恥心が湧き上がってくる。
「――様」
不意に声が聞こえてきて、ファリアは我に返った。
「戦女神様。なにを悶えておられるのですか」
振り向くと、アレクセイが執務室の前に立っていた。
戦宮には部屋と通路を区切る扉がない。
そのため、このような出来事が往々にして起こるのだ。