第二千十七話 日常とこれから(一)
大陸暦五百六年三月二十七日。
セツナとファリアは、それぞれの居場所へと戻ることとなった。
魔晶人形を探してセツナたちの隠れ家に辿り着いたルウファがもたらした情報が、ふたりに日常への帰還を促したのだ。
セツナがファリアを戦宮から連れ去ったのは、三月十八日深夜のことだ。護峰侍団内の過激派による暗殺計画を阻止するのではなく、失敗に終わらせるためにだ。すべてはアレクセイ=バルディッシュの意図であり、護峰侍団過激派を一網打尽にするための策だった――はずなのだが、ルウファのもたらした情報により、セツナがアレクセイから聞いたすべてがでたらめであることが明らかになった。
セツナがファリアを攫った後、戦宮に侵入者があり、七大天侍筆頭シヴィル=ソードウィンによって拘束されたのは事実なのだが、その侵入者たちが実は、アレクセイの手引によって戦宮への侵入を果たしたというのだ。
アレクセイが立案した実践形式の警備訓練である、と侵入者であり、拘束後即座に投獄されたスコール=バルディッシュ、アルセリア=ファナンラングの二名が証言し、アレクセイもそれを認めたという。アレクセイは、第二次防衛戦以降、護峰侍団および七大天侍たちが妙にだらけていることに危機感を覚えたというのだ。そして、ひとり実践形式の警備訓練を考案、大甥のスコールとアルセリアに頼み込み、実行に移した、と証言している。
アレクセイは、空中都のみならずリョハン全体を騒がせることになり、その責任を取るべく、議長代理を辞任すると言明したが、護山会議の議員たちの必死の引き止めにより、事なきを得たとのことだ。いまアレクセイほどの議員に議長代理を辞められると、護山会議を纏められるものはだれひとりいなくなり、混乱するだけだからだ。
それは、いい。
問題は、セツナがファリアを攫った直後、戦宮に侵入を果たしたものたちが実はアレクセイの頼みによって侵入したのであり、過激な反戦女神派でもなんでもなかったということだ。スコール=バルディッシュなど、戦女神派の急先鋒といってもいい人物だった。
つまり、護峰侍団内の反戦女神派の暴走による戦女神暗殺計画など端から存在せず、セツナにファリアを攫わせ、ファリアにしばしの休暇を与えるための狂言だったということになる。要するにアレクセイに謀られていた、ということだ。
セツナがそう理解できたのは、すべてを理解し、認識していたファリアが、ルウファのもたらした情報を元に懇切丁寧に説明してくれたからだが。
それらすべての出来事をはっきりと理解した上でアレクセイに対してなんら悪意を抱かったのは、最愛の孫娘を想う故の行動だったからにほかならない。自分のためでもなければ、リョハンのためでもない。ただ、孫娘のためを想い、アレクセイはすべてをなげうつ覚悟で行動したのだろう。それがわかるから、悪しざまには言えないし、思えない。騙された、とも、謀られた、とも、利用された、とも思わなかった。
ただ、
「そんな回りくどいことせずにさ、素直に頼めば良かったのに」
セツナが正直な感想を述べると、ファリアはおかしそうにわらったものだ。
「ふふ」
「なんだよ」
「セツナに正直に頼んだらどうなるか、わかるもの。お祖父様の願いはかなわず、わたしの頭はますます頑固になっていたでしょうね」
「なんでそうなるんだよ」
「だって、君はひとを騙すことなんてできないでしょ?」
ファリアが満面の笑みを浮かべて問いかけてきた言葉に対し、セツナは返す言葉を持たなかった。ただ、言葉を飲み込むしかない。
「う……」
「あのとき、君がすべてを知っていて、わたしを騙そうとしていることがわかれば、わたしはすぐにでも戦宮に戻ったわ。それくらい、わたしにだってできるもの。でも、そうじゃなかった。君は、純粋にわたしを守ろうとしてくれていた。真相を知らなかった君には、お祖父様から聞いたことがすべてだったからでしょうけれど……でも、だから、わたしはここに残った。そして、お祖父様の想いを受け止めることにしたのよ」
ファリアは自分の胸に手を当て、アレクセイの思いやりを感じ入るようにいった。だから、なのだろう。セツナはアレクセイに騙されたことも、結局は利用されただけに過ぎないことも、なんとも思わなくなっていた。むしろ、アレクセイの真意に気づけなかった己の愚かさ、あるいは純粋さに呆れるばかりであり、せっかくのレムの情報収集も役に立てることができなかったという事実に頭を抱えたくなったものだ。とはいえ。
「お祖父様に感謝しないと、いけないわね」
ファリアのいうとおりでは、あった。
アレクセイが用意してくれたふたりきりの数日間。
それは、ファリアだけでなく、セツナにとってもこの上なく幸福な時間であり、終生、忘れ得ないものになるだろう。
ファリアが、少しばかり照れながらいった。
「あんなに回りくどい方法を取ってくれたから、わたしも素直になることができたわ」
「素直に……か」
「うん。素直に」
ファリアは、そういうと、セツナの目を見つめてきた。それこそ、まっすぐにも程があるまなざしには、素直な感情が込められていた。つまりは好意であり、愛情だ。セツナもまた、彼女に負けないくらいの愛情を込めて、ファリアを見つめた。そのまましばらく見つめ合って、時が経つことさえ忘れた。
「じゃあ、戻りましょうか……日常に」
「……ああ」
少しばかり残念な気持ちとともに、うなずく。
日常に戻るということは、ふたりきりの時間が持てなくなるということでもあるからだ。ファリアとこのように対等に話し合えることもなくなるかもしれないし、好意を伝え合うことなどなおさらだ。想いは通じ合っている。けれども立場や境遇がそれを許してくれなくなることもある。それを理解していて、それでもこのふたりきりの時間をみずからの意志で終わらせることができるから、ファリアは強いのだろう。甘えないのだ。
戦女神たるもの、なにかに甘えてなどいられない、ということもあるのだろうが。
そんなことをいえば、十分すぎるくらいに甘えたわよ、などとファリアがいうことも、わかっている。
「わたしは戦女神に戻るわ。君は?」
「俺は俺さ。セツナ=カミヤっていうただの人間だよ」
「あら、英雄ではなくて?」
「そう呼びたきゃ呼べばいいが、俺は俺さ。君も、君だろ?」
「うん。そうよね、それでいいのよね。君は君。わたしはわたし。そして、わたしは、君を愛しているわ」
不意に抱きすくめられて、セツナは、呼吸を止めた。ファリアの青みがかった長い髪が顔にかかり、髪のにおいが鼻腔をくすぐる。そして、ファリアの優しい、けれども精一杯の抱擁を感じ取り、彼もまた、彼女の体を抱きしめた。
「ファリア……」
「この数日間、君とふたりきりでいて、色々わかったことがあったの」
セツナの耳元で、ファリアが囁くようにいう。セツナ以外のだれにも聞こえないように。魔晶人形たちにさえ聞き取られないような、小さな声。
「わたしは、やっぱり君がいないと駄目で、君がいない世界で生きていたってどうしようもないってことよ」
「俺も……さ」
セツナは、ファリアの想いを受け止めながら、素直に同調した。それは、本当の気持ちだった。この数日間、彼女とふたりきりの時間を過ごしたことで、再認識した。彼女へのどうしようもないほどの想いが根底にあり、それがいまの自分を構築している根本になっている。それがわかった。ファリアとの出逢いが最初だったのだ。今日に至るまでの最初。彼女がいて、自分がいる。
「ファリアのいない世界なんて、考えられないや」
「セツナ……」
見つめ合い、また、抱きしめ合う。
こうしていられるのもいまだけで、この場を離れたとき、セツナもファリアも己の立場、己の境遇の中で生きていかなければならなくなる。それがわかるから、ふたりとも必死だったのかもしれない。必死に、想いを伝えようとしたのかもしれない。離れても、想い続けているのだ、と、いいたかったのだ。
「……ありがとう。生きていてくれて」
「それは、こっちの台詞だよ」
セツナは、ファリアの目に浮かんでいた涙を軽く拭うと、にこりと微笑んだ。
「ありがとう」
彼女が生きていた。
それだけで、セツナは戦える。




