第二千十六話 再動
沈黙があった。
なにひとつ聞こえない、なにひとつ見えない闇の沈黙。終わることなく続くような長い長い沈黙は、突如として、なんの前触れもなく破壊された。
爆音が轟き、衝撃が彼女の思考を貫いたのだ。衝撃とともに宙に浮かび上がるような感覚があって、ついに彼女は、自意識の存在を認知した。痛覚は機能しない。そんなものは用意されていない。戦闘兵器に痛覚など付随すればどうなるか。痛がってまともに戦うことすらできなくなるだろう。とはいえ、衝撃を受けたという感覚は確かにあって、それが無性に焦がれるような懐かしさを思い出させるものだから、彼女は、ただただ憮然とした。
「ここはどこなのでしょう?」
だれとはなしに問う。問うても、答えはない。ただ、声を発することで発声器官が無事であることを確認することはできた。また、自分の意識がきわめてまともだということも明らかになる。少なくとも、長い沈黙の間、故障したとか、劣化したとか、そういうことはなさそうだった。
先ほど、彼女の意識をたたき起こした爆音はいまも連続的に聞こえてきており、彼女の位置からして左側、少し遠方にその発生源があるようだった。悲鳴も、聞こえている。どうやら、人間がいるようだが、聞いたこともない人間の声だった。
彼女は、外見と音声で人間を区別している。外見は一目見て、音声は一声聞いて、記録する。その記録と照合した結果、響きわたる無数の悲鳴の中に知った声はなかった。皆無だった。
とはいえ、それがなにを示すかといえば、なんということもない。ただ、自分以外に生きているひとがいるというだけのことであり、彼女の所在地についてはまるでわからないままだ。なんの手がかりにもならない。
視界に光が戻る。ようやく、機能不全から回復したようだ。弐號躯体の自己修復機能は優秀といわざるを得ない。壱号躯体ならば、調整機を使わなければならなかっただろう。
視力を取り戻した彼女は、周囲を見回して、自分がどこか暗闇の中にいることを知った。広い一室。明かりはいっさいなく、なにも見えない。鳴り止まない爆音とそれに伴う震動が、彼女のいる一室も激しく揺らし、なにかが音を立てて倒れた。音からして金属製のなにかだ。それも耳元に落下している。
彼女は、自分が寝転がっていることを理解し、震動の中、すっくと起き上がった。爆音は止んだ。震動も、止まった。しかし、悲鳴は止まない。叫び声が聞こえた。奇怪な雄叫び。皇魔の叫び声のようだった。
どうやら、皇魔が暴れているらしい。
疑問がいくつも浮かび上がったが、まずは現状の把握を優先するべきだと彼女は考えた。
彼女は、素早く壁に近づくと、壁に触れた。石壁のようだ。確認するとともに拳を構え、叩きつける。彼女の拳は、たやすく分厚い石壁を打ち抜き、大穴を開けた。日の光が差し込んでくるとともに、化け物じみた大声が直接的に聞こえてくる。みずからが生み出した粉塵の中を通過して、空の下へ。周囲を確認する。石材で出来た家屋が軒を連ねる都市の真っ只中だということがひと目で分かる。狭い路地裏。彼女が破壊したのは、だれかの家の蔵の壁らしい。
怪物の咆哮とそれに伴う悲鳴、雄々しい叫び声も聞こえるが、断末魔の絶叫がそれを掻き消した。皇魔と人間の戦闘はとっくに始まっていたのだろう。しかし、疑問が浮かぶ。ここは、都市の真っ只中だ。大陸の都市といえば、四方を城壁に囲われているのが一般的であり、それが最大の皇魔対策だったはずだ。
皇魔は、人間とは比べ物にならないほどに強靭な肉体、圧倒的な生命力を誇る生き物なのだが、なぜか、城壁に囲われた都市に攻め込んでくることがなかった。そのことから、大陸中の都市という都市が分厚い城壁で囲われるようになった。それまで壁のなかった小さな村でさえ、堅牢な城壁に囲われるようになったのは、それだけ皇魔による被害が多かったからだ。皇魔は、人類の天敵だという。そんな天敵から身を守れるというのであれば、すぐにでも壁を築こうというものなのだ。
と、彼女は学んでいる。
であれば、この都市も城壁に囲われているはずであり、故にこそ彼女は疑問をもったのだ。皇魔が城壁内で暴れているというのは、ありえないことだ。少なくとも、ディールの五百年に及ぶ長い歴史の中で、皇魔によって都市の城壁が破られたことはなかった。城壁のない街や都市が皇魔に蹂躙され、破壊の限りを尽くされたという記録は残っているが、城壁都市化が徹底されると、そういった被害はなくなったのだ。
では、ここは大陸の都市ではないということだろうか。
大陸以外の都市ならば、皇魔への認識が不足している都市ならば、城壁に囲われていなくとも不思議ではない。しかし、その可能性は極めて低い。なぜならば彼女は、ガンディア王都ガンディオン近郊でディール軍との戦闘真っ只中だったのだ。
彼女の主が姿を消し、それと同時に意識が途絶えた。つぎに気がついたのが、先程の蔵の暗闇だった。その間、なにがあったのかはわからないが、まさかガンディアから大陸の外へ移動することなどありえないだろう。あるとしても、動力源を失い、ただの人形と化した彼女をディール軍が確保し、本国へ送り返すくらいではないだろうか。
だが、ここが神聖ディール王国領ではないことは、明らかだ。なぜならば、聖王国領内には、城壁に囲われていない都市や街は存在しないからだ。小さな村でさえ、相応の城壁に守られている。でなければ、天敵たる皇魔に蹂躙され、生活すらままならないだろう。
では、ここはどこなのか。
あのあと、なにが自分の身の上に起きたのか、彼女には想像もつかない。
ただひとつ、わかることがあるとすれば、それは――。
彼女は、路地裏から大通りに出ると、逃げ惑う人波に逆らうようにして移動した。弐號躯体は万全だ。少なくとも、機能不全に陥っている部分はなく、完璧に近く機能している。装甲には傷ひとつ存在しないようであり、心核となる魔晶石に蓄積された動力の残量も十分過ぎるほどにある。
移動する間、彼女は通りすがるひとびとの容姿をその視界に収め、確認している。聖王国人とは大きく異なるように見えた。黒髪が多い。金髪が大半を占める聖王国では考えられないことだった。やはり、ここは聖王国領ではない。
人波をかき分けてある程度進んだところで、彼女は、遥か視界の彼方に巨大な化け物の姿を確認した。同時に、この都市にも城壁があることがわかる。城壁を優に越す巨躯を誇る怪物は、城壁を破壊することで対皇魔の結界を無力化したようだった。もっとも、皇魔はいくら巨体であったとしても、城壁で囲われた都市には攻撃することはないため、巨体故に城壁を突破したというわけではないだろう。
皇魔は、城壁を突破すると、我が物顔で周囲を蹂躙し、多数の犠牲者を出していた。この都市の防衛戦力だろう。武装召喚師が応戦し、奮闘しているようだが、まったく相手になっていないようだ。皇魔はたった一体。巨大で強大とはいえ、武装召喚師が苦戦するような相手とは思えない。
歩行から走行へ。そして、跳躍。もはや逃げ惑う人波の途絶えた大通りを飛び越え、戦闘地点へと到達する。直後、奇怪な雄叫びとともに皇魔の巨大な二本の尾が瓦礫ごと周囲を薙ぎ払い、瓦礫を吹き飛ばした。皇魔は、どこか猫に似ていた。
「照会不可能。記録上に存在しない皇魔と認識します」
彼女は、廃墟の如き戦場に降り立つと、自分よりも何倍もの巨躯を誇る怪物と対峙した。人間のような体つきをした巨大な猫とでもいうべき皇魔は、その黄金色に輝く双眸で彼女を睨みつけてくる。殺気に満ちた視線。皇魔は、彼女を敵と認識したようだ。その皇魔の体は、奇妙なことに体毛に覆われた右半身とは異なり、左半身は体毛が剃られたように白い表皮で覆われていた。二本の尾も、同じように体毛に覆われたものと、毛のない白い表皮に覆われたものにわかれている。違和感を覚えるのは、そこだけではない。
皇魔は、元来、双眸から赤い光を発するものだ。
だが、いま目の前で彼女に殺意を放つ怪物は、両目を黄金色に輝かせていた。それはこの上なく奇妙なことだった。
「そこの女、こんなところでなにをしている!」
「女?」
突如投げかけられた声に彼女は、小首を傾げた。右を見ると、軍服らしき服装の男が身の丈ほどもある大弓を構えたまま、こちらを睨んでいた。眉毛が太く、口髭のある男だった。もちろん、彼女の記憶には存在しない。
「このキュレティの様子は、ただごとじゃない!」
といったのは、別の男だ。同じ軍服を身に着け、異様な形状の篭手を身につけている。手首の辺りから左右に伸びた部位は三日月のようであり、そこに矢を番えていた。弓と篭手がひとつになった召喚武装のようだ。こちらは、優男だ。
「我々がなんとしても食い止める! 逃げるのだ!」
「キュレティ。それがこの皇魔の呼称ですか」
「そうだ! だが、見ての通り、ただのキュレティではないのだ!」
口髭の男と優男が同時に矢を放つ。ふたりが放った矢は、一瞬にしてキュレティなる皇魔の巨躯に到達し、左腕付近で閃光と爆発を巻き起こしたものの、つぎの瞬間には彼女の視界から消失していた。ふたりの攻撃によって消滅したわけではなく、飛んで、消えたのだ。振り仰ぐ。雲一つない青空の中、キュレティは、吹き飛ばされたはずの左腕を瞬く間に再生して見せると、獰猛な笑みを浮かべた。咆哮が轟き、衝撃波が地面に叩きつけられる。
「なるほど。確かに普通ではなさそうです」
彼女は、キュレティの咆哮を軽々と飛び退いてかわすとともに、ふたりの武装召喚師が続けざまに矢を放つ様を見届けた。いくつもの矢が落下中のキュレティに襲いかかるのだが、皇魔の尾がその尽くを払い落とし、空中で無数の爆発を起こした。尾が吹き飛ぶたびに再生し、攻撃がまったくの無意味だといわんばかりだった。ただの皇魔では、ない。
皇魔は確かに強靭な生命力を誇る化け物であり、中には魔法を使う種もいるが、ここまでの再生力を誇るものはいまい。
着地したキュレティは、武装召喚師たちには目もくれず、彼女に向かって飛びかかってきた。右手から左手、流れるような連続攻撃を軽々と回避しながら、彼女は、その皇魔を敵と認識した。同時に戦闘状態へと移行し、攻撃態勢に入る。キュレティが吼えた。二本の尾が頭上と右から同時に迫ってくる。
「ですが、わたしには関係がありません」
彼女は、だれとはなしに告げるとともに、両手で持ってキュレティの二本の尾をそれぞれに掴み取った。直撃の衝撃が躯体を駆け抜けるが、なんということもない。確かに凄まじい怪力ではあるが、弐號躯体を損傷させるほどのものではなかった。キュレティが吼える。衝撃波が彼女を吹き飛ばそうと押し寄せるが、意味はなかった。地面に突き刺さった二本の足は微動だにしない。踏ん張り、振り回す。そして、キュレティの巨躯を空高く投げ飛ばし、即座に左腕を上空の皇魔に定めた。手のひらの砲門を解放し、動力たる波光を撃ち放つ。
波光大砲。
一条の光芒が空中で態勢を取ったキュレティの上半身に直撃し、そのまま、有無を言わさず消し飛ばした。だが、それで決着はつかない。あっという間に再生し、右半身までも白い表皮に覆われた怪物へと変貌する。猫の怪物がただの真っ白な怪物へと生まれ変わったようだった。
だが、彼女にはやはり関係のないことだった。左腕のみならず、右腕も掲げた彼女は、キュレティが怒り狂うのを認めながらも、間髪を入れず波光大砲と連装式波光砲を乱射した。波光砲の嵐は、キュレティをさらに激怒させたが、中空の化け物には対処のしようがなかったのだろう。波光砲に破壊されるたびに再生と復元を繰り返し続けたが、それ以上に苛烈なこちらの攻撃の前についには沈黙せざるを得なくなったのだ。原因は、わからない。ただ、再生力を失った怪物の肉体は、白い砂のようになって崩れ、風に流れて消え去った。
彼女は、化け物がもう二度と再生しないことを認めると、みずからの動力がいまだ満ち足りていることを確認し、安堵した。この程度の戦闘で動力を使い切っては、面目が立たない。彼女の使命は、主とともにあるべきなのだ。
「なんということ……」
「おまえは……いったい……」
絶句する二名の武装召喚師に視線を移し、彼女は、ふと思い立って、口を開いた。
「わたしはウルク。あなたこそだれですか」
まずは名乗ることだ。
そうすれば、なにかしらわかることもあるかもしれない。
彼女は、情報収集しなければならないと想ったのだ。
ここがどこで、いまなにが起こっているのか。いまはなにもわからないのだ。情報を集め、現状を把握する。でなければ、主のもとに馳せ参じることすらままならない。
ただ、そんな彼女にも、ひとつだけわかっていることがある、
それは自分が長い眠りから目覚めたということ。
再起動したということだ。
そしてそれはつまるところ、彼女の主、セツナがこの世界に生きていて、彼だけが持つ特有の波光を世界中に拡散したということにほかならない。
彼が生きている。
ただそれだけで、ウルクは、希望を失わない。




