第二千十一話 護る
夢が覚めたのは、階段を昇っている最中だった。本当の地獄へと至る階段。そのときは、天にも昇る気持ちとはいえなかったものの、ようやく試練を終え、現世に帰ることができるものだと喜んでいたことを覚えている。それがまさか、あのようなことになるとは、あの時間、考えもしなかった。想像だにできなかったのだ。
地獄そのものといっても過言ではない試練を乗り越えた先、さらなる地獄が待っていようなどとだれが想像できよう。
いや、予想してしかるべき事態だったのは間違いない。予想さえしなかった自分が愚かなのであり、意気揚々と階段を昇っていた自分の単純さ、純粋なまでの愚鈍さを思い出すたびに恥ずかしさが湧き上がって身悶えした。
いまも、そうだ。
己の愚かさを恥じ、その恥ずかしさのあまり無意識に体を動かそうとしたそのとき、手に触れるものがあって、はっとなった。長く苦しい夢に溺れるあまり、現実のことを忘れかけていたのだ。耳朶を呼吸音がくすぐっている。健やかで安らかな息の音。セツナに身を委ね、安心しきったファリアの寝息。セツナは、ファリアと同じ寝台で眠り、分厚い掛け布団と毛布に包まれていたことを思い出したのだ。寝息の甘ったるさに気恥ずかしさが湧き上がってくるが、それは、自分の愚かしさを恥じるのとはまったく別の感情だった。
真っ暗な夜の闇の中、セツナはなんともいえない気恥ずかしさの中、悶えることさえできず、悶々とするほかなかった。動くに動けないのだ。安易に身動きすれば、ファリアを起こしかねない。彼女は安らかに眠っているのだ。戦女神という重責を担い、公私の別なく働き続けていた彼女にとって、安眠とは程遠いものだったということは、数日前から毎日のように聞かされている。それはつまり、こうしてセツナと寝床をともにするということが彼女の安眠に繋がることであり、この数日間、いままでになく安らかに眠れているということなのだ。そんな彼女の眠りを妨げるようなことだけは、したくなかった。
ファリアは、セツナの胸に顔を埋めるようにして、眠っている。表情は、こちらからは見えない。それが少しばかり残念だと想う。彼女の無防備な寝顔を見ることができるのは、セツナだけの特権といっていい。戦女神ではない、人間としてのファリア=アスラリアの素の部分に触れ、生の感情をぶつけ合うことができるのは、必ずしもセツナだけとは限らないが。
彼女とこうしてともに眠ることができる人間など、セツナをおいてほかにはいまい。
愛しいひとの体温を肌で感じながら、幸福を噛みしめる。
(俺は……幸せものなんだな)
胸中でつぶやいて、天井を仰ぎ見る。外光の一切入り込まない寝室の暗闇は、天井の形状さえ闇の中に隠してしまっている。風もなく、音もない。聞こえるのは、ファリアの寝息と寝相によって生まれる小さな物音。そして、脈動。いつの間にか、ファリアの右手がセツナの左耳に触れていた。ファリアの手を流れる血が音となってセツナの鼓膜を震わせている。彼女の鼓動を聞いているようなものだ。命の音を。
それを幸福と呼ばず、なんと呼ぶのか。
(ううん)
セツナは、心の中で、ゆっくりと前言を撤回した。幸福なのは、いまに始まった話ではない。最初からずっと幸福だったではないか。
(最初から、ずっと)
物心ついたときには、親はひとりしかいなかった。
母ひとり子ひとりで育ってきた。けれど、それを不幸に想ったことはなかった。一度だって、だ。母は、愛情いっぱいに注いでくれた。父の分も、という想いがあったのかどうか定かではないが、ともかくも、母の愛を目一杯浴びて育ったのだ。それは幸福以外のなにものでもなかったし、そのおかげで、セツナは生き抜いてこられた。
異世界に召喚されてからも、そうだ。
幸福だった。
幸運に恵まれたのだ。
ずっと、恵まれ続けていた。
だから、少々不幸なことがあったとしてもへこたれず、前に向かって突き進んでこれたのだ。
ファリアとの運命的な出逢いに始まり、レオンガンド、ルクス、ルウファ、ラクサス、カイン、ミリュウ、マリア、レム、シーラ、ラグナ、ウルク……数え切れないほどの幸運な巡り合わせがあり、それら数多の出逢いがセツナを成長させ、ここまで導いてくれたといってもいいだろう。出逢いがなければ、不幸な出逢いばかりであれば、こうして生きていること自体できなかったかもしれない。どこかで野垂れ死んでいたとしてもおかしくはなかったし、そもそも、ファリアがいなければ、カインの炎に焼き尽くされて死んでいるのだ。
セツナは、自分の耳に触れているファリアの手に己の手を重ねると、優しく握った。彼女は、健やかに眠り続けている。その眠りを邪魔しないように、そっと、柔らかく、だ。
(護るよ)
地獄の最終試練におけるルクスの言葉が、いまも胸に残っている。
愛しい人を護れなかったことを深く後悔する師の姿になにも感じないセツナではなかったし、他人に興味を持つことのなかったルクスでさえ、そうなるほどの苦しみがあるのだと想えば、いてもたってもいられなかった。
だから、だ。
セツナは、マリアにファリアたちの現状を聞いたとき、彼女にいわれるまでもなく、リョハンを目的地に定めていた。どうにかして、ファリアの元に辿り着かなければならなかったのだ。愛するひとを守り抜くと、師と約束したのだから。
約束は、守り抜かなければならない。
(今度こそ)
しかし、そのためには、一度、このリョハンを離れなければならないのもまた事実であり、そのことがセツナの気を重くしていた。せっかく逢えたというのに。ようやく、やっとの想いで、心を通じ合わせることができたというのに、離れ離れにならざるをえない。
ファリアは、戦女神だ。そして、責任感のとてつもなく強いひとだ。どんな理由があれ、リョハンを離れることはないだろうし、強引に連れ去ることなどできるわけがない。いまの状況とはわけが違うのだ。暗殺計画から救うためならばいざしらず、セツナの願望のために連れ去れば、今度こそファリアに嫌われるだろう。
愛する人を護るためであればいくら嫌われても構わないという覚悟くらいならばあるが、必ずしも連れて行かなければならないわけではないのであれば、話は別だろう。
(君は、ここにいる)
ファリアの手を握りしめたまま、セツナは、声無き声で囁いた。
(俺は、行くよ)
彼女に聞こえるはずもない。
それでも、セツナはいわずにはいられなかった。
もちろん、明日明後日の話ではない。まだ、リョハンでやらなければならないことが残っているそれが終わるまでは、セツナはリョハンに滞在するつもりだった。リグフォードや帝国のひとたちも、それくらいは許してくれるだろう。セツナがリョハンを目指した理由は、ちゃんと話しているのだ。彼らも不測の事態が起きたことくらいは想像して、考慮してくれるに違いない。
リョハンでの諸々が片付けば、そのときは、真っ先にアレウテラスに戻り、リグフォードらと合流するつもりだった。そして、海原を渡り、西ザイオン帝国領を目指すのだ。それが西ザイオン帝国との契約であり、約束を反故にするつもりは毛頭なかった。
それまでは、リョハンにいるということだ。
リョハンでやり残したことというのは、ただひとつ、ミリュウのことだ。消息不明のミリュウ率いる調査隊の捜索にセツナみずから乗り出すつもりなのだ。リョハン政府の了解が降りずとも勝手に探す気でいた。当然のことだ。ミリュウもエリナもまた、セツナにとって大切なひとなのだから。
大切なひとたちを護るために、セツナは地獄から現世に舞い戻った。
それがすべてで、それ以外のことは些事といっても過言ではないといえば、いいすぎだろうか。
それから、再び眠りに落ちるまで、大した時間はかからなかった。今度は、夢は見なかった。ただぐっすりと朝まで眠り、目が覚めた。目覚めると、ファリアの姿はなく、ひとりで毛布にくるまっていることに気づき、一抹の寂しさを覚えた。それが贅沢にもほどのある考えだということはわかっていたものの、そう想わざるをえないほど、ここ数日のファリアはセツナにべったりだったのだ。
ファリアのいない朝というのは、極めてめずらしいことだった。
そんなことをぼんやりと考えているときだった。
突如として悲鳴が聞こえてきて、セツナは布団の中から飛び出した。
ファリアの悲鳴だった。