第二千九話 剣の師弟
勝負は、一瞬だった。
セツナは、ただ、まっすぐに飛んだ。低空を滑るような跳躍からの大ぶりの一撃。当然、ルクスは対応する。セツナの動きを完全に見切っていた。セツナの大上段に構えた剣を見て、右に身をかわした。凄まじく素早い動作によって繰り出されたグレイブストーンが蒼い残光を虚空に刻む。神速の太刀筋。セツナは、しかし、断ち切られはしなかった。横薙ぎの斬撃を剣の腹で受け止め、そのまま横倒しにねじ伏せようとする。だが、膂力では、勝てない。戦竜呼法によって引き上げられた身体能力程度では、ルクスの身体能力を上回ることなど不可能だ。それもわかっている。逆らわずに剣を引き、ルクスの剣で空を切らせる。まさにその刹那、ルクスに隙が生まれた。セツナは、鋭い息吹きとともに全体重を乗せて剣の切っ先を突き入れた。ルクスの鳩尾に。グレイブストーンが閃く。碧く美しい剣光。響くのは激突音であり、散るのは火花だ。美しく色鮮やかな閃光。そして、手応え。グレイブストーンを叩きつけられながら、剣は折れず、ましてやセツナに襲いかかってくることもなかった。
つまり、偶然にもいま手にしている剣こそ、正解の一振りだったということだ。
「運命は、最後にはおまえに味方したようだ」
ルクスが、口の端を歪めながら告げてきた。セツナの突き出した剣の切っ先は、見事に彼の鳩尾に突き刺さり、血が刀身を伝っていた。震えている。ルクスの体が、ではない。セツナの手が、腕が、全身が爆発的な感情のうねりの中で激しく震えていた。感動と歓喜、衝撃と驚き。様々な感情が入り混じり、セツナの全身を包み込んでいた疲労感を吹き飛ばしていく。
剣が、届いた。
何千、何万回と挑み、決して掠りさえしなかった刃が、ようやく届いたのだ。それも、セツナが自分の実力でもって到達させることができている。決して、ルクスが手を抜いてくれたわけではないことは、ルクスの何処か満足げな表情からもわかるというものだ。
「と……届いた……!」
「ああ、届いたよ。見事にね」
ルクスがグレイブストーンから離した右手で、無造作に剣の刀身に触れた。その瞬間、彼の指先が溶けるように消えてなくなるのを目の当たりにして、ルクス本人も、セツナ自身も驚きを隠せなかった。ルクスは、剣に近づけようとしていた手を止めると、溶けて消えた指先を見やった。赤く燃えているように見えなくもない指先からは、煙が立ち上っていた。よく見ると、鳩尾の傷口からも同じような煙が立ち上っていて、セツナは慌てて剣を引き抜いた。
ルクスの鳩尾に大きな穴が開いていた。彼の背後の風景さえも見えるほどの穴だ。痛みはあるのかないのか、ルクスの反応からはわからない。しかし、彼は納得したような様子でもある。
「なるほど。試練は終わった。そういうことか」
「どういうこと……ですか」
「そういうことだってんだろ、わかれよ」
「わかりません!」
「なんでだよ、察しが悪いなあ。本当に、馬鹿だなおまえ」
「馬鹿ですが!」
「なに開き直ってんだよ」
ルクスが、駄々をこねる子供を相手にするような、そんな表情を浮かべてみせた。穏やかで、優しい表情。ルクスらしからぬ反応だと想わざるを得ず、セツナは、なんともいえない感情に苛まれた。別れのときが近い。それが実感としてわかるのだ。
試練は、終わった。
つまり、試練が生み出す幻想たるルクスとも別離のときが来たということだ。
「まったく、これだからみんなおまえを放っておけないんだよ」
「はい?」
「おまえが馬鹿すぎるってこと」
「うう……」
「なに真面目に受け取ってんだ。本当、先が思いやられるな」
ルクスがグレイブストーンを地面に突き刺した。もう、剣を手に戦う必要はない、とでもいうような行動。セツナは、なんだか寂しさを覚えた。それは、ルクスに勝利した瞬間から、爆発的な勢いで湧き上がる喜びの裏で徐々に膨れ上がってきていた感情でもあった。ルクスの顔を見ていられない。
「俺が生きてりゃ、つきっきりでしごいてやれたんだがな……運命ってのは、そう上手くはできていないものらしい」
「師匠……」
「俺は死んだ。あのひとたちを守るためにな。それは、いいのさ。前もいったように、満足だ。あのひとたちが生きている。それだけで十分すぎる。思い残すことも、たったいま、なくなった」
そういって、ルクスがこちらを見た。なんの懸念もない涼やかな表情。“剣鬼”と恐れられる天才剣士の姿はない。
「俺のこと……ですか」
「心配は心配だが、なに、おまえの周りにはおまえの頭の悪さを補って余りある連中がいるんだ。俺がついていなくとも、だいじょうぶだよな?」
「だいじょうぶじゃないです」
「……わがままを」
ルクスは、セツナがなにをいいたいのか理解したようだった。目を細め、そして、左の人差し指で額を小突いてくる。
「わかってんだろ。おまえは」
「なにを……」
「俺なんかいなくたって、生きていけるだろ。おまえには、おまえを支えてくれるひとたちがいる。そのひとたちのためにも、おまえはこの地獄の試練を潜り抜けてきたんだ。そうだな?」
「……はい」
強いまなざしで見据えられて、反論のしようもなかった。
「だったら、胸を張って現世に帰ればいい。そうして、そのひとたちのためにも生き抜くんだ。それがおまえに課せられた使命さ」
「使命……」
「俺は……護ってやれなかった」
「え……?」
「結婚したこと、知ってるだろ」
「ベネディクトさん……ですか」
「ああ」
ルクスがうなずく。
傭兵集団《蒼き風》と同じくガンディアと契約を結んだ傭兵集団《紅き羽》の団長だった女傭兵ベネディクト=フィットラインは、最終戦争の末期、ルクスと結婚、ふたりは夫婦になっている。セツナは、ルクスの弟子としてふたりの結婚を祝えなかったことが心残りだったものだ。そんなふたりの結婚生活は、長くは続かなかった。最終戦争は、ふたりが滞在するバルサー要塞をたやすく飲み込んでいったからだ。
そのことを考えると、いまも胸がいたんだ。
力があればどうにかなったのではないか――と、ルクスに否定された考えが過る。わかってはいるのだ。いくら黒き矛が強くとも、すべてを守りきることなどできるわけがない。そんなことは、わかりきっている。それでも、と、考えざるをえないのが人間というものだろう。だからこそ、地獄に堕ちた。地獄に落ちて、鍛えなおそうなどという考えに至ったのだ。もう二度とあのような悔しい思いをしないために。もう二度と、同じ過ちを繰り返さないために。
「おまえには、感謝しているんだ。俺が彼女との結婚に踏み切ったのも、おまえを弟子にして、ひととの触れ合い、交流の大切さを学び取ることができたからだ。《蒼き風》なんていう狭い世界に閉じこもっていれば、きっと、俺は彼女の愛に応えようとは想わなかっただろうさ」
「師匠……」
「周りに振り回されるおまえを見ているのは、楽しかったよ。そういう自分も悪くないと思えた。他人と理解し合おうだなんて馬鹿馬鹿しいことだと切って捨てた昔の自分が哀れに想えるほどにね」
ルクスの独白を聞きながら、セツナは、彼が確かに大きく変わったことを知った。確かに昔の、出逢った頃のままのルクスであれば、ベネディクトに結婚を申し込むとは考えにくい。昔のルクスは、他人と繋がりを持つことを極端に嫌っている節があった。彼がいったように、《蒼き風》の中で完結するだけの人間関係で十分だとでもいうような。そんな彼が《蒼き風》以外に繋がりを求めるようになったのが人生の終盤だというのは、悲しむべきなのだろうか。それとも、喜ぶべきなのか。
ルクス本人は、悲しんでなどおらず、むしろ喜んでいるようではあるが。それさえも本当のことかどうか、わかったものではない。
「おまえは、俺と同じことを繰り返すんじゃないぞ。護れよ。愛しているんならな」
「はい!」
「いい返事だ」
ルクスがにこりとした。その笑顔が見られただけで、セツナは救われた気分になった。
「おまえは馬鹿で阿呆でどうしようもない頑固者だが、嫌いじゃなかったよ」
そして、師匠のそんな一言に心が暖かくなる。
「さあ、行け。行って、自分の大切なひとたちを護ってこい。そして、使命を果たし終えたら、そのときは地獄に落ちていいさ。けど、つぎに逢うときは、数十年先だからな。約束だぞ」
それはつまり、すぐには死ぬな、ということだろう。
「はい!」
セツナは力強く返事をすると、ルクスの目を見つめた。
「師匠も、それまでにはもっと強くなっていてくださいよ。俺、もっともっと強くなってますからね!」
「はっ、いいやがる……そうだな、おまえが地獄に落ちてくるそのときには、地獄の王にでもなっていてやるかな」
「“剣鬼”が地獄の王ですか」
「笑えるだろ。俺ほど、王に向かない人間もいないんだがな」
「でも、それならわかりやすくていいかもしれませんね」
「確かに……俺を探す手間も省けるってもんか」
「はい」
「はは、本気で考えてみるかな」
「是非」
セツナは、ルクスの冗談交じりの一言を後押しするようにいった。
「地獄の王ルクス=ヴェインを斃して、俺が地獄の王になってやりますから」
「いうようになったもんだな。いいぜ、その調子だ」
ルクスがにやりとした。どこかシグルドを思い起こさせる野性的な笑みは、ルクスが彼の影響を多分に受けていることの証明だろう。
「その調子で、現世で役目を果たしてこい!」
「はいっ!」
それが、別れの言葉となった。
一陣の風が吹くと、地獄の風景が一変したのだ。
何万もの刀剣が突き立っていた荒野は消えてなくなり、光の柱を臨む丘の上に立っていた。まるでいまのいままで夢幻でも見ていたかのような出来事に、セツナはしばし憮然となった。
余韻もなにもあったものではない。




