第二千八話 剣野(十)
五桁を軽く凌駕する数の死を経験すると、もはや死など恐れるものではなくなるらしい。
感覚が麻痺しているのだ。斬り殺されることも恐怖より、痛みのほうが辛くなる。その痛みさえ慣れ始めているのだから、慣れというのは恐ろしいものだと想わざるをえない。しかし、慣れるのも致し方があるまい。何千、何万回と殺されているのだ。まず間違いなく本当の死ではなく、仮初の、偽りの死なのだが、殺される側の感覚としては本当の死となんら変わらない。それが短時間のうちに数え切れないほど積み上げられた。感覚として慣れるのも無理のない話だった。
だからといって、死ぬつもりで挑みかかっても無意味だということは、ルクスにいわれるまでもなくわかりきっている。
力が及ばないからといって、死を覚悟で挑んだところで、それは勇敢ではなく無謀であり、無駄なことなのだ。それで殺されてはなんの意味もない。殺されにいくことなど、だれにでもできることだ。では、どうすればいいのか。簡単な話だ。殺されないように相手を斃す方法を考え、見出し、実践すること。それが唯一無二の正解といっていい。
セツナは、無謀な試みを続けながらも、その唯一無二の答えに一歩でも近づくべく、ルクスの呼吸に耳を澄ませ続けていた。何度斬り殺されようと、何度首を刎ねられ、何度心臓を突き破られようと、何度心折れるような殺され方をしようと、諦めなかった。何度となく立ち上がり、何度となく剣を抜いた。そのたびに剣に裏切られ、殺される結果となったが、前進していないわけではなかった。一本でも不正解の剣を消費するということは、確実に正解に近づいているということなのだ。正しい答えの剣は一本。不正解は数万本。不正解を消費し尽くせば、自ずと正解に辿り着く。そういう考えだ。そして、それ以上に確実な答えの導き出しかたをセツナは知らなかったし、考えられるはずもなかった。試練の場に突き立った無数の剣は、形状こそ大きく異なるものばかりだが、どれが正解でどれが不正解なのか、わかるはずもないからだ。試行錯誤を繰り返すしかない。そのたびに失敗しても、諦めてはならないのだ。
それは、ルクスの呼吸への挑戦も同じだ。
何度失敗し、何度間違えても、諦めてはならない。
ルクスが行っている竜の呼吸は、人間が再現できないわけではないのだ。
人間に再現できないものならば、トラン=カルギリウスが使えるはずもなく、それをルクスが真似できるわけもない。トランが使えているという時点で、人間にも真似のできる呼吸だということだ。ただし、そう簡単に真似のできるものではないことは、セツナにもわかる。呼吸法なのだ。ただその独特な呼吸音を聞いただけで体得できるわけがなかった。そう考えれば、やはりルクスは天才としかいえないのだろう。ルクスは、トランの呼吸を聞いただけでたやすく再現し、トランを大いに驚かせている。
ルクスの呼吸を聞いただけで真似できたとすれば、セツナも彼に並ぶ天才ということになりかねない。
そして、そんなことはありえないということをセツナほど理解している人間もいないのだ。自分の実力、才能を卑下しているわけではない。現実として認識しているだけに過ぎない。そこを真正面から捉えずして成長はないのだ。過信や自惚れは成長を阻害するものであり、正確な現状把握こそが成長への第一歩となる。その現状把握を突き詰めれば、自分にルクスほどの才能もないことくらいわかる。わからないはずがない。
だが、それでも、セツナは諦めなかった。たとえ才能がなくとも、実力が足りなくとも、食らいつかなければならないのだ。でなければ、前に進めない。この地獄を乗り越えることもできなければ、終わることさえできないまま、立ち往生を続けることになる。
そんなことのために地獄に逃げたわけではない。
地獄に逃げたのは、あのとき、アズマリアの誘惑に乗ったのは、弱い自分を少しでも強くするためだ。一から鍛え直し、だれにも負けない強い自分を作り上げるためなのだ。
セツナは、何度となく、ルクスに挑み、そのたびに殺された。消耗し、精も根も尽き果てて、呼吸すらできなくなっても、地獄の臭気の中で溺れるような感覚に苛まれながらも、挑み続けた。それだけがセツナにできる唯一の方法であり、ルクスに追い縋るたったひとつの手段だった。一度でも多く挑戦し、ルクスの呼吸を知る。どうやって息を吸い、どうやって息を吐きだしているのか。音を聞くだけでわかるはずもないが、ともかく、聞き耳を立て、殺されに行く。ついでに剣を抜き、正解か不正解かを確かめることも忘れない。そのうち、剣を抜く暇もなく殺されることはなくなり、グレイブストーンよりもセツナを呪う剣に殺されることのほうが多くなっていった。
それはつまり、セツナがルクスの戦闘速度に対し、加速度的に順応していっているということだ。そしてそれは、セツナの呼吸法がルクスのそれに少しずつ、しかし確実に近づいているということの現れでもあった。
戦竜呼法。
竜属が用いる独特の呼吸法を見様見真似で再現することは、困難を極めるものだ。人間の体で再現するには、負担が大きすぎるのだ。それを長年の修行の中で体得したのがトランであり、トランからあっさりとその技術を盗んだのがルクスだ。セツナは、ルクスとは比べ物にならないほどに遅く、しかしトランよりは飛躍的に早く、その技術を自分のものにしようとしていた。
それが体感として、理解できるのだ。
呼吸法の変化が体内の血の流れを制御し、全身の細胞という細胞を活性化させる。神経が鋭敏化し、筋肉もまたより強く、しなやかなものへと変わっていくのを感じる。その手応えは、つまり、ルクスの呼吸法を真似ることに成功し始めているということにほかならず、セツナは、凄まじい疲労感の中で勇躍した。剣の墓場にあった数万本の刀剣は、その六割以上が既に消費されている。
それは、セツナがある程度呼吸法を体得するまでにそれだけの刀剣を引き抜いたということであるとともに、それだけ連続で不正解を引き当て続けてきたということだ。
正解はたった一本。
数万本に及ぶ刀剣の中からたった一本の正解を引き当てるのは、簡単なことではない。
だが、その数万回に及ぶ試行回数がすべて無駄だったかというと、そうではなかった。セツナは、剣を抜き、剣に殺される過程で、それと同じ以上にルクスと対峙し、その神速の戦闘術を目の当たりにし、息吹きを聞いている。鼓膜を突き破るほどに鋭く、雄々しい呼吸とともに繰り出された斬撃は、いまもセツナの記憶に焼き付いていた。肉体を極限まで鍛え上げた上で、召喚武装と戦竜呼法を用いれば、人知を越えた一撃を放つことができる――その事実は、セツナを奮い立たせるに至った。
この試練によって戦竜呼法を学び取ることができれば、セツナは、さらに強くなれるのだ。それもただ肉体を鍛え上げる以上の強化であり、成果であることは明白だ。ルクスはいった。肉体の強化には、限界がある。人間という生物の限界。セツナはさすがにそこまで鍛え上げてはいないものの、鍛え続けてれば、いずれは限界に突き当たり、そこで成長は止まってしまうものだ。しかし、肉体を鍛える以外に技術を学べば、どうか。しかも戦竜呼法という、通常人間には用いることのできないような技術ならば、さらなる伸びしろを期待することもできるのではないか。
竜のように荒々しく、竜のように破壊的で、竜のように雄々しく、竜のように――。
セツナは、それからも何度となくルクスに殺され、あるいは剣に殺されながら、試練に挑み続けた。死亡回数はついに六桁を越え、さすがのルクスも呆れたほどだが、それでもセツナは止まらない。止まってはならない。足を止めれば、歩みを止めれば、せっかく掴みかけた技術を手放してしまいかねない恐れが、セツナの中にあったのだ。戦い続けているから、ただひたすらに走り続けているからこそ身につきかけている。それがわかるから、セツナは止まってなどいられなかった。
血反吐を吐き、身も心もずたぼろになりながらも、挑み続けるほかない。
正解の一本を引き、ルクスに一太刀浴びせることができるまで。
戦竜呼法を体得し、ルクスの度肝を抜いてみせるまで。
最終試練を乗り越え、この地獄を乗り越えるそのときまで。
立ち止まってなど、いられないのだ。
「おいおい」
ルクスが、ようやく肩で息をし始めたのは、十数万の死を乗り越えた後のことだ。いや、乗り越えたといえるのかどうか。そのときには、セツナは既に自分がなにをしているのかさえわからないくらい朦朧としていた。消耗し尽くし、自分のことさえ正確に認識できずにいる。手も足も力が入らない。立っていることさえ奇跡といっていいような有り様だった。それなのに、セツナは相変わらずルクスを見ていたし、ルクスの呼吸法に耳を澄ませていた。そして、その呼吸法に自分の呼吸法を同調させることに躍起になっていた。真似をすること。それがセツナが唯一、ルクスから竜の呼吸の技術を学び取る方法なのだ。
「なにが人間だよ」
ルクスが心底あきれるようでいて、どこか嬉しそうな表情を見せたのが印象的だった。ぎらぎらした目は、
「普通の人間なら、とっくに諦めてるっての。まったく、相変わらず諦めを知らない奴だな、おまえは」
「諦めてなんていられませんから」
一度、諦めてしまった。
諦めて、地獄に逃げるという選択をしてしまったのだ。それは、すべてを手放すという行為にほかならない。これまで積み上げてきたものすべてを手放し、なかったことにしてしまったのだ。それはつまり、自分の否定だ。自分の人生を否定してしまったのだ。
たった一度の諦め。
しかし、それがすべてだ。
もう一度諦めてしまえば、それこそ終わりだ。もう二度と立ち直れなくなるだろう。それがわかるから、諦められない。諦めてはいけない。立ち止まってはいけない。前に進むしかない。
「ああ、わかっているさ。おまえはそういう男だ。だから、俺もおまえを諦めない。おまえがいつか俺を越えるそのときをな」
「師匠……」
「さあ、来い。もう少しだ。もう少しで、おまえは俺に辿り着けるはずだ。おまえはもう、こつを掴んでいる。そうだろう?」
「はい、師匠!」
あらん限りの大声で叫んだとき、セツナは、ルクスが剣を構えるのを見た。間合いはたっぷりある。セツナの脚力では一足飛びとはいかない距離だ。しかし、ルクスの脚力ならばそれを可能とする絶妙な間合い。だが、ルクスは飛ばない。飛ばず、剣を構え、待ち受ける素振りを見せている。セツナの、弟子の成長を見届けようとでもいうのだろう。そして、当然だが、そこに情け容赦など期待してはならない。彼は、どんなときだってセツナに甘くなどなかった。
いつだってそうだ。
それはこれからも変わらないだろう。変わる必要もない。厳しい師匠のままでいてくれたほうが、張り合いがある。
「行きます!」
セツナは、見様見真似の戦竜呼法によってみなぎる力の赴くまま、飛んだ。