第二千六話 剣野(八)
黒き矛とその眷属を用いて、どれだけの数の人間を殺したのか。いや、人間だけとは限らない。皇魔の怨念も、刀剣となってこの場に現れていたとしてもなんら不思議ではない。ルクスは、人間だけとは限定しなかった。
数万本の刀剣。
その中のたった一本だけがセツナに救われた魂だと、いう。
それ以外のすべてがセツナに殺され、セツナをいまもなお恨み、呪う魂の顕現であるのだ、と。
故に正解以外の刀剣を手に取れば、ルクスを攻撃することは能わず、それどころか自分が傷つけられることになるのだ。
「立てよ、セツナ」
いわれるまでもない、と、セツナは無言のまま上体を起こした。消耗し続けているが、心は、魂は意気軒昂そのものだ。まだまだやれる。少なくとも、心はそういっている。肉体が動く限り、続けられる。いや、続けなければならないのだ。
「おまえが正解を引いて、その刃を俺に叩きつけられるまで、続けるんだ」
ルクスは、遠く離れた位置にいた。無数の刀剣に囲まれ、グレイブストーンを片手で構えている。普通なら一足飛びでなど届きようもない距離だ。しかし、いまのルクスならばそれくらいの間合い、一瞬で埋めることができるだろう。だから、この距離はセツナにとって不利なのだ。いや、そもそも、ルクスとの修行でセツナが有利を取れたことなど一度もない。そしてそれこそ、ルクスとセツナの力関係なのだ。
黒き矛を手にすれば、その上下関係はひっくり返った。黒き矛さえあれば、セツナはルクスを上回ることができるのだ。グレイブストーンと戦竜呼法を体得したルクスでさえ、完全体となった黒き矛とセツナの敵ではない。しかしそれは、召喚武装の力の差以外のなにものでもなく、勝ち誇れるものでもなんでもないのだ。そんなことで喜べるほど、セツナも愚かではない。それは、ルクスも同じだ。この状況下で、セツナを上回っているからといって、彼は決して慢心することはなかった。もちろん、グレイブストーンがなくとも、セツナがルクスを身体能力で上回ることなどありえないのだが、それにしても、彼はセツナを見下さない。見下せば、それだけで隙が生まれる。人間とは、そういう生き物だ。どれだけ冷静に完璧に状況を把握していたところで、見下した瞬間、どこかに隙が生まれるものなのだ。だから、ルクスはセツナを見下さない。対等の相手と認識し、隙を決して見せない。
故に厄介な相手なのだ。
「それがこの地獄の最終試練。おまえが地獄の中心へ行くための、な」
「地獄の中心……」
セツナは、ルクスの右手後方に見える光の柱に意識を向けた。おそらくは、そこが地獄の中心なのだろう。地獄に降り立ったときから見えていたそれは、地獄の果てまで照らしているようであり、目指すべき場所のように思えた。
「さっさと来い。地獄の主がおまえを待っているんだ。おまえを待ち焦がれているんだ。この程度の試練で躓いてどうする。強くなるんだろう。だれよりも、どんな敵よりも、強く、猛々しく、雄々しく」
「はいっ!」
力強く、あらん限りの声で応え、足元の剣を抜く。どれが不正解でどれが正解なのかなどわかるはずもない。手当たり次第抜いて、ルクスに挑みかかるしかなかった。
そして、ルクスに飛びかかり、グレイブストーンの一閃によって撃墜されるのだ。斬り殺された瞬間、手元が狂ったように剣が踊り、自分自身を斬りつけたのは、きっと、剣の怨念がそうさせたのだろうが。
「この程度じゃあないだろ!」
「はいっ!」
息を吹き返した瞬間、ルクスが飛来した。剣を抜く。間に合わない。殺される。だが、無意味な死ではない。剣を一本、消費することに成功した。それだけだ。それだけのことだが、意味がないとはいわせない。一本でも消費していけば、正解に近づくということなのだ。しかし。
「もっとだ! もっと疾く!」
つぎの復活は、その瞬間、ルクスに斬り殺され、一本も消費することができずに終わった。生と死の反復は、終わらない。
「もっと深く!」
ルクスの息吹きが聞こえた。殺到するグレイブストーンのあざやかな斬撃を咄嗟に引き抜いた剣で受け止めることは、かなわない。なぜならば、受け止めようとした瞬間に剣が翻り、グレイブストーンともどもセツナを切り裂いたからだ。セツナを呪う剣の意志は、強烈だ。そのことを何度となく認識させられる。そのたびにセツナは、自分がしてきたことへの罪悪感に震える想いがした。
いままで決して向き合おうとしてこなかったものが、いままさに壁となって立ちはだかっている。
「もっと鋭く!」
ルクスは叫び、セツナに迫る。その動きは、もはや手に取るようにわかっていた。召喚武装と戦竜呼法によって極限まで強化された速度も、何千回と見続ければ慣れるものなのだろう。緩急を織り交ぜられても、最高速度に合わせればどうとでもなる。それくらいの変化には、さすがのセツナもついていけるのだ。だからといって、対処できるかというとまったく別の話であり、動きが見えたところで、予測できたところで、斬り殺されるか突き殺されるかの運命に過ぎない。
だが、と、セツナは胸中で頭を振る。決して無意味ではない。なぜならば、最初はまったく見えなかったものが見えてきたのだ。それはつまり、戦いの中で急速に成長しているという証ではないのか。この試練は、そのためのものなのではないか。
試練が理不尽なのも、そのためなのだろう。
きっと。
そう考えれば、力が湧いてくる。どれだけ理不尽でも、どれだけ苛烈でも、どれだけ絶望的であっても、立ち向かえる。光明が見えてくると信じられるから、戦える。
「おまえにならできるはずだ!」
ルクスの叱咤が、胸に響く。
「俺の修行を耐え抜き、だれよりも強くなったおまえなら!」
激励が心を燃やす。
「おまえは俺の弟子なんだからな!」
「あなたみたいな化け物じゃないんですよ、俺は!」
「だったら、化け物になれよ」
セツナの苦笑に対するルクスの表情というのは、冷ややかなものだった。研ぎ澄まされた刃そのもののようなまなざしが突き刺さってくる。
「強くなるってのは、そういうことだ。人間であることをやめろ。人間であろうなどとするな。人間でありたいなら、それ以上の力を求める必要もない。そうだろ。おまえが求める力ってのは、結局のところ、人外の力だ。人間が認識しきれない領域の、な。人間にこだわるのであれば必要などない力さ。そんなものを求めて、なお人間で居続けようっていうのは虫の良い話だと想わないか?」
「それが俺なんですよ、師匠」
セツナは、頭を振って、いった。ルクスの言葉、考え方は理解できる。確かにそのとおりだと想わざるをえないところもある。結局のところ、セツナが欲しているのは、彼のいうように人知を超えた力にほかならない。黒き矛そのものが、そうだ。人間の理解の範疇を越えたところにそれはある。そして、それを制御しようというのであれば、人間であり続けようなどという思い上がった考えは捨て去るべきなのだろう。人間には御しきれないほどの力であることは、認めざるをえないところがある。
それでも、と、セツナは想うのだ。
「人間であることをやめたら、人間であることを諦めたら、それはもう、俺じゃあなくなるんです」
「だったら、おまえはここで終わりだ」
ルクスがグレイブストーンを軽く振った。音を置き去りにするほどの速度で振り抜かれた刀身が蒼い光を虚空に残す。そのひとふりで、いまのいままで、ルクスが全身全霊の力を発揮していたわけではないことが明らかになる。全力ではなかったのだ。余力を残してなお、セツナを瞬殺してきたのだ。それがいま、全力を発揮しようという素振りを見せた。ただそれだけのことで、セツナの中の緊張感が増大し、心が震えた。恐怖ではない。畏怖こそあれど、大半は歓喜に基づくものだ。ルクスの本気を目のあたりにすることができるのは、喜ぶべきことだろう。
「人間にこだわり続ける限り、おまえの強さはここで頭打ちなんだ」
ルクスの言葉には、説得力があった。
「人間には限界がある。生物としての力の限界がな。こればかりを致し方がない。どんな生物にも限界があるんだからな。その限界を越えるには、その生物であることを諦めるしかない。人間ならば人間を、鳥獣ならば鳥獣を、怪物ならば怪物を」
ルクスは、おそらく人間という生物の中で最強の存在といっても過言ではあるまい。彼は、召喚武装の有無に関係なく、強者だった。凄まじい膂力、動体視力、反射、速度、どれを取っても超人と類別するべき領域に足を踏み入れており、それに加え、竜の呼吸を体得している。ルクス以上の人間となるとトラン=カルギリウスくらいのものだろうが、そのトランをして天才といわしめたのがルクスなのだ。その才能を鍛え続けた彼の実力がトランを追い抜くのは時間の問題だったはずだ。最終戦争さえ起きなければ、ルクスが人類最強の存在へと上り詰めただろう。
しかし、それは同時に人間の限界を示すことでもある。
ルクスは、確かに人類の中では最強の戦士と呼ぶに相応しい存在なのだが、ほかの生物を比較対象に入れ始めると、最強候補にすら入らなくなる可能性があった。数多いる皇魔たちは、小型の種類でさえ人間を軽く凌駕する生命力を誇るといい、強力な魔法を使うことのできるリュウディースの中にルクスに匹敵する天才がいれば、それだけで彼を容易く越える存在となりうるだろう。竜もいる。神々も。
ルクスは、世界最強の存在たり得ないのだ。
人間のままでは。
「それが道理というものだ」
「だったら俺は、その道理ってやつを越えてやりますよ」
「……いうじゃないか」
ルクスが、セツナの不遜な態度をむしろ喜ぶように目を細めた。
「だったら、人間に拘り抜いてみせろ。そしてそのまま、地獄の炎に灼かれて消えろ」
「消えませんよ、俺は」
セツナは、足元の剣の鍔を蹴り上げた。目線の高さまで跳ね上がってきたそれを掴み取り、構える。
「こんなところで、終わるわけにはいかないんですから」
最終試練だと、ルクスはいう。
しかし、だからなんだというのか。
最終試練まで辿り着けたから、それで終わっていいとでもいうのか。
いいわけがない。
こんなところでなにもかもを終わらせて、いいわけがないのだ。
セツナは、ルクスを睨み据え、吼えた。
そして、ルクスが地を蹴り、音を置き去りにするほどの速度で肉薄してくるのを認識し、右に飛んで斬撃をかわしてみせた。グレイブストーンの描く軌跡は、一瞬にして虚空を切り刻んでいる。それを回避したのだ。
(やった……!)
内心、歓喜の声を上げた瞬間、セツナは激痛に顔を歪めた。見ると、手にした剣が自分の首を刎ねようとしていた。セツナを呪い殺そうとするものたちの意志はこの上なく強固で、苛烈だった。
死。
五桁は越えただろう。