第二千四話 剣野(六)
数万本の剣が突き立つ地獄の荒野の真っ只中で、セツナは、静かに手を伸ばした。足元に突き刺さった新品同然の剣に触れ、掴み、引き抜く。その一連の動作の間、既に相手は動いている。ルクス。“剣鬼”と謳われた大陸小国家群最高峰の剣士。その身体能力は人間の限界を軽々と超越し、セツナの動体視力では捉えきれないほどの領域へと足を突っ込んでいる。おそらく、グレイブストーンの副作用なくとも、セツナでは対抗できないほどの力を発揮しうるのではないか。
もはや超人といっていい。
そんな超人相手にただの人間に過ぎない自分がどうすれば立ち向かえるのか。
どうすれば、拮抗できるのか。
どうすれば、追いつけるのか。
考えれば考えるほど、無理難題だと認識せざるを得ない。
殺されても、本当に死ぬわけではない。仮初の死。仮初の再生。試練のための生と死。そこに本当の死はなく、本当の生はないのだろう。ただし、痛みは本物であり、首を切り飛ばされた痛みも、臓腑を抉られた痛みも、眼孔を貫かれた痛みも、等しく脳に刻まれ、記憶に焼き付けられた。そして、痛みの記憶が蓄積すればするほど、意識が掻き乱され、自分さえも見失いかけていく。勝てない。勝てるわけがない。追えない。追いつけるわけがない。たどり着けるわけがない。届くわけがない。そんな悪い考えばかりが脳裏を過り、体を硬直させ、殺される瞬間だけを待つ存在に成り果てる。
そうやって、何度殺されただろう。
何回、何十回、何百回。
やがて、生と死の反復にも慣れてくると、少しずつだが、ルクスの動きが見えるようになってきた。目が、ルクスの戦闘速度に順応し始めたのだ。目が慣れたところで、どうしようもないことにかわりはない。動きが見えたからといって、反応できるわけではないからだ。
いや、違う。
目が動きを捉え、体が反射する。動くのだ。しかし、間に合わない。ルクスの速度は、セツナの身体能力を遥かに上回っている。ルクスの動きを見て、行動を予測することができ、どうすればいいのかが理解できたとしても、ルクスはセツナの対処を余裕で上回る速度で殺到し、セツナを殺す。
(強いな)
セツナは、既に四桁は弟子を殺しているというのに息を切らしてさえいない師匠の姿を惚れ惚れと見るほかなかった。汗ひとつ流していなければ、呼吸には乱れすらない。竜の呼吸に乱れが生じれば、それだけで身体能力に変調が生まれるはずだが、それさえなければ付け入る隙さえないということになる。
実際、セツナはルクスに一切の隙を見出すことができずにいた。
ルクスは、圧倒的に力量差のあるセツナに対して微塵の油断もしていないからだ。隙など生まれようはずもない。力の配分も完璧だった。無駄な動きは一切なく、あったとしても、セツナとの力量差を見せつけるためのものでしかなかった。そして、その無駄な消耗さえも彼の計算内に収まっていることは、明白だ。どこからどう見ても完璧な力配分。生前以上のキレがあり、力があるといっても過言ではなかった。
(本当に……強い)
だからこそ、セツナはルクスを師匠と仰ぎ、彼のそれこそ地獄のような訓練を耐え抜いてきた自分を誇らしく想うのだ。ルクスがいったとおりだ。目の前にいるのは、セツナが思い描き、夢にまで見たルクスそのひとだった。最強無比の剣の使い手であり、だれにも負けず、どんな相手にも決して手を抜くことのない無慈悲で無情で完璧な戦闘者。
ルクス=ヴェインの実像に近く、だが、必ずしも一致しないそれは、幻想といっていいのだろう。
ここは地獄だ。
カインのように、ウェインのように、いま目の前にいるルクスが本当の彼である保証はない。地獄と呼ばれる領域が見せる幻想だとしてもなんら不思議ではない。虚像かもしれない。虚構かもしれない。なにもかも嘘っぱちで、本当のことなどどこにもないのかもしれない。
けれど。
「俺があなたに憧れたのは、本当のことなんだ」
「ん?」
ルクスが、動きを止めた。それは好機にすらならないわずかな時間。セツナも、ルクスの隙を生むために吐き出したわけではない。ただ、いいたかったのだ。伝えたかったのだ。
「なんだよ、急に」
ルクスが、踏み込んでくる。かなりの距離を一足飛びで詰め寄られるが、セツナは気にもしなかった。殺されることはわかっている。だからこそ、抗うのではなく、見るのだ。ルクスの動き。一挙手一投足。髪の先から爪先に至るまで、一瞬たりとも見逃さない。そして、為す術もなく斬殺される。
殺されることを前提とした戦い方など、本来あるべきではない。
そんなことはわかっている。わかりきっている。命はひとつしかない。人生は一度きりだ。死ねばそれまで。やり直しなどきかない。蘇生などできるわけがない。殺されることをよしとしていいわけがないのだ。
しかし、ほかに方法がなかった。
血反吐を吐いたかと想うと、生き返っている自分に気づく。意識は連続していて、混乱は生じない。ただ、凄まじい痛みの記憶が強烈に残っているだけだ。そしてそれが意識を阻害するものだから、厄介なのだ。
起き上がり、手近の剣を掴み取る。ルクスとの距離がそれを可能にした。だが、それもすぐに無意味なものとなることもまた、わかりきったことだった。数万分の一を引くのは、簡単なことではない。また、仮に正解を引けたとして、ルクスに触れられなければ意味がないのだ。正解の剣は、ルクスに届くというだけであり、正解を引いたから勝利というわけではない。それがこの試練が困難なものにしている。
正解を引くだけでいいのなら、殺され続けながら引き続ければいい。そうすれば、いずれ正解にたどり着くことができる。しかし、正解を引いた上でなおかつルクスを倒さなければならないとなると、話は別だ。正解を引くことと、ルクスの戦闘速度に追いつくこと。その両方をしなければならない。でなければ、ルクスの神速攻撃に為す術もなく殺されるだけだ。
それでは意味がない。
だからこそ、セツナは目を凝らし、ルクスの動きを見るのだ。最初はまったく見えなかった動きだったが、いまは、残像を追える程度にはなっていた。それでも残像に過ぎないのだから、ルクスの戦争速度は凄まじいというほかない。
「俺は、強くなりたかった。弱い自分が嫌いだったから。情けない自分が嫌いだったから。強くなろうと想った。たぶんきっと、それが始まりなんだ。それが黒き矛を呼んだんだ」
「ああ……そうだろうよ」
ルクスがグレイブストーンを軽く振った。刀身に付着したセツナの血が飛び散る。どれだけの血を吸い、どれだけの命を奪ったのだろう。セツナの死亡回数は、とっくに四桁を越えていて、もはや数えられないほどになっている。そのうち、五桁に届くのではないか。疑問に想うまでもなく、届くだろう。
試練が始まって、既に数十時間は経過している。
「おまえの原始的なまでに純粋な衝動が、黒き矛に届いたんだろうさ。そうして黒き矛のセツナは誕生した。良かったじゃないか。強くなれた。少なくとも、黒き矛を手にしたおまえに敵う相手はいないだろう」
「いいえ、師匠」
セツナは、剣を青眼に構えながら、頭を振った。
「それが違うんですよ。俺は、負けたからここにいるんです」
「……ああ。そうだったな」
「もっと強くならなくちゃあ駄目なんです。こんなところで足踏みしてる場合じゃあないんです。こんなところで、こんな風に殺されまくっている場合じゃあないんですよ」
「だったら、かかってこいよ」
ルクスが手招きする。安い挑発。ルクスらしくないというべきか、むしろ、ルクスらしいと考えるべきか。迷うところだ。どちらにせよ、ルクスの目はぎらぎらと輝いたままだ。その闘志燃えるまなざしは、亡者のものとは思えない。
「吼えるだけなら犬でもできる。おまえは犬じゃあないよな。犬なんかじゃあ、なくなったはずだ。とっくの昔に。おまえの首に巻きつけられた枷も、おまえの魂に打ち込まれていた楔も、なにもかもちぎれて消えた。そうだろう」
グレイブストーンを掲げ、切っ先をこちらに向けてきた。間合いは十分すぎるくらいにある。しかし、その間合いも、ルクスにしてみればないも同じであり、セツナから見ればあまりにも遠すぎるというほかない。身体能力の差があまりにも大きすぎた。
「だったら、いま俺の眼の前にいるおまえはなんだ? セツナ。いまのおまえは、なにものだ?」
「俺は」
セツナは、迷いもせずに告げた。自分は一体何者なのか。考えるまでもない。
「ただの人間ですよ。なんの力も持たない、ただの」
「はっ」
ルクスがどこか嬉しそうに笑った。なぜなのか、セツナには想像もつかない。
「そのわりには、“剣鬼”に喰らいつこうって目をしてるな。いいぜ。来いよ。向かってこい。何万回だって殺してやる。おまえが俺に食らいつくまで、おまえが俺を越えるそのときまで!」
「おおおおおおおおっ!」
セツナは、吼えた。
あらん限りの叫び声を上げ、気力を振り絞った。地を蹴った。滑るように前へ。ルクスは泰然と構えている。剣を片手に持つ。空いた右手で足元の剣を引き抜き、即座に投げつける。蒼い残光。グレイブストーンが真一文字に虚空を薙ぎ、投擲した剣を打ち砕いたのだ。その瞬間、刀身の破片が跳ね返ってくるかのようにセツナを襲う。不正解。ルクスが口の端を歪めた。が、セツナは間髪入れずもう一方の剣を投げつけると、足元にあった剣を手当たり次第引き抜いては投擲した。最初に投げた剣の破片がつぎつぎと体に突き刺さるのも構いなく、投げ続けたのだ。そして、投げつけたすべての剣がルクスによって容易く破壊されるのを見届ける中、何千回目かの死を迎えた。
まだ、足りない。