第二千三話 剣野(五)
何度、殺されただろう。
一度や二度どころではない。
十回、二十回でも済まない。
百を越えた辺りから、感覚がおかしくなっていっているのは理解していた。脳が、数え切れない生と死の反復の中で狂い、壊れ始めているのではないか。脳だけではない。意識が、心が、自我が、自分を構成するなにもかもが、自壊を始めている気がしてならなかった。
けれど、生き返れば、感覚は正常に働き、つぎの死を体験する羽目になる。感覚が壊死し、意識が狂い、心も自我も正常でさえなくなれば、死に等しい痛みにのたうち、血反吐を吐く苦しみに苛まれることもなくなるかもしれないというのに、そういう救いは一切なかった。
情け容赦はなく、油断も隙もない。
慈悲など、あろうはずもない。
セツナにとってのルクス=ヴェインとは、そういう人物だった。
セツナの中でもっとも恐ろしい人間といえば、ルクスになる。数年間に及ぶ師事と修行の日々は、セツナにルクスへの絶対的な畏怖を植え付けているのだ。だからといって、ルクスを嫌悪したり憎むようなことはない。忌避することもだ。むしろ、その畏怖こそ尊敬へと繋がり、セツナにさらなる鍛錬への欲求を抱かせるものとなった。
セツナは、強くなりたいから、ルクスを師事した。
弱い自分のままではいられないから。
少しでも強くなって、少しでも黒き矛の使い手に相応しい人間になりたかったから。
そうならなければ、胸を張って生きていられないから。
だから、ルクスを師と仰ぎ、彼に戦いの術を学んだ。彼の、厳しいという言葉では言い表せないほどに苛烈な鍛錬を乗り越えてきたのだ。そして、そのおかげもあって、彼が認めてくれるだけの自分になれた。
強くなれたのだ。
そう自覚できるようになったのは、つい最近のことのように想える。
ようやく黒き矛を自分の手足の延長として扱えるようになった。眷属を思い通りに操り、能力を想うままに行使する。まさに武装召喚師と呼ばれるものたちと肩を並べられるくらいにはなれたはずだ。
だが、負けた。
クオンには、敵わなかった。
クオンの召喚武装シールドオブメサイアと、彼の武装召喚師としての力量の前に、黒き矛は折れ、セツナは敗れ去った。
故に地獄へと逃げ延び、そこでのうのうと鍛錬の日々を送っている。
(のうのうと……?)
頭蓋を割られた痛みに苛まれながら、胸中で頭を振る。
(違うだろ)
舌の上でのたうつのは鉄の味だ。血。死が迫っている。どこへどう逃れようと、剣に手を伸ばそうと、グレイブストーンの蒼き透き通った刃はなんの躊躇もなく伸びてきて、彼に絶対的な死を告げてくるのだ。何度殺され、何度生き返っても、結果は同じだ。殺され方は毎回違う。首を切り落とされることもあれば、心臓を一突きに突き破られることもあった。五体をばらばらに切り裂かれたりもすれば、腹を割かれ、失血死するまで待たれたこともあった。ルクスは、セツナに様々な死に様を記憶させようとしているようだった。
嗜虐趣味があるわけではあるまい。
ルクスは、セツナをいたぶるとき、喜んでやっているわけではなかった。むしろ、弱い者いじめになることを極端に嫌っているふしがある。弱いものをいたぶるのは、強者のすることではない。ルクスのそういう考えは、好きだった。だからといって一切手を緩めることをしないから、結果的に弱い者いじめになってしまう。ルクスにしてみれば、頭の痛い話かもしれない。
だからこそ、ルクスはセツナに苛立ちを覚えるのだろうか。
早くセツナに強くなってもらわなければ、いつまでたっても弱い者いじめをし続けなければならないという境遇から抜け出せない。ルクスから度々感じる怒りにも似た感情の源泉は、そこにあったのではないか。
その怒りも、最後の訓練のころになると、ほとんどなくなっていた。ルクスのしごきに耐えられる程度にはなっていたからだ。ルクスはしごき甲斐があると笑っていたが、あながち冗談でもなかったのかもしれない。
いまさらそんな結論に至るのは、セツナを斬り殺すルクスがやはり愉しそうには見えなかったからだ。
そのことがセツナの心を苦しめるのだ。
せっかく逢えたというのに、最高の師匠であるルクスに苦い思いをさせることしかできないというのは、弟子としてこの上なく辛かった。
(俺は……!)
数百回目の蘇生の瞬間、セツナは、地中の髑髏を蹴り上げながら後ろに飛んだ。髑髏は一瞬にして切り裂かれたが、その一瞬がセツナにわずかな時間を与えた。その数秒にも満たない時間は、セツナに剣の柄を触れさせる。選んだのは、足元に突き立っていた直剣だ。数万本のうちの一本だけが正解で、それ以外のすべてが不正解。正解の剣に関する情報は一切ない。あるのは、不正解の剣はすべてセツナに恨みを持つ死者の魂であり、正解の剣だけがセツナに救われたものの魂だということ。それを数万本の刀剣から見分けるというのは、不可能に近い。どれもこれも新品の刀剣にしか見えないのだ。なにか奇抜な特徴があるわけでもなければ、大きな違いがあるわけでもない。どれもこれもただの刀剣にすぎない。そんな中からたった一本の正解を一瞬で見抜き、選び取ることなどできるわけがない。
そもそも、このわずか一瞬の好機に手にすることのできる刀剣など、極至近距離にあるものだけだ。そして、選んでいる暇もない。ルクスは、既に眼前に肉薄している。グレイブストーンが大上段から振り下ろされてきていた。
「おおおっ!」
セツナは気合とともに剣を抜き、グレイブストーンを受け止めるべく振り上げた。セツナの肉体は躍動し、斬撃が奔る。ルクスが目を細めた。セツナが振り上げた剣は、しかし、グレイブストーンの一閃によって容易く叩き折られると、刀身の破片が意志を持ったかの如くセツナの体を貫く。愕然とする中、グレイブストーンが再度閃き、セツナの胴を横薙ぎに切り払う。
死。
「恨みつらみってのは、そう簡単に消えないものさ」
ルクスの残念そうな声を聞きながら、生き返る。
蘇生は、その場で行われるものではない。数万の刀剣が突き立ったこの試練の場のいずれかに突如として、セツナの肉体は出現する。つまり、ルクスに殺された場所で生き返った瞬間、即座に殺されることはないということだ。しかし、たとえ距離が離れていても、ほとんど意味はない。なぜならば、ルクスは一足飛びで戦場の端から端まで到達できるからだ。そうやって、セツナは何度か殺されている。
「そんなこと、いわなくたってわかってるって? そりゃあそうだろうよ」
ルクスがグレイブストーンを弄びながら、告げてくる。
「わかりきっていることを、いっているんだからな」
「師匠……」
「おまえ、さっきからそれしかいってないね」
「ほかにいうことなんてあります?」
「あるだろ」
ルクスがにやりとしたのは、セツナを煽るためなのだろうということは、そのあとに続いた発言でわかった。彼には、そういうところがある。
「痛い、とか、辛い、とか、苦しい、とか……泣き叫んでみろよ」
「師匠、そういう趣味ないっしょ」
「うん」
「うんって」
「まあしかし、こうしておまえを鍛えるのもこれが最後かって想うとな。色々感慨深いものがあるのさ」
「師匠……」
「だから、油断するなっての」
ルクスの声は、死にゆく意識の中で聞こえていた。一足飛びに近づいて、ばっさり斬り殺されたのだ。油断も隙もあったものではない。ルクスの言うとおり、油断するセツナが悪いのだが、ルクスがセツナの心をくすぐるようなことをいってくるのも悪い。セツナはいま、ひどく感傷的な自分に気づいている。そして、それを振り切らなければならないということも、身を持って思い知っている。
「何度いやわかるんだ? おまえが強くなるためには、俺を越えなきゃならないんだぜ?」
「わかってますよ、そんなこと」
セツナは、息を吹き返すなり、足元に刺さっている剣を抜いた。十中八九、不正解の剣だろう。だが、どれが正しいのか判別する方法がない以上、選びぬく時間が無駄になる。それならばいっそのこと、手当たり次第抜き取ればいい。少なくとも、抜いた剣がもとに戻ることはないのだ。いつかは正解に辿り着く。数万回の試行の末に、だろうが。そのうち、抜く前に殺される回数はどれほどだろうか。
「でも師匠ほど高くて分厚い壁は、そうあるもんじゃあないでしょ」
「泣き言か?」
「違います。ただの現実認識の話です」
地を蹴る。後ろへ。ルクスの体は既に低空を滑っている。低い軌道の跳躍攻撃。一瞬にして間合いはなくなり、セツナは剣を構える暇もなかった。ただがむしゃらにルクスに向かって叩きつけんとする。しかし、セツナが手にした剣は、グレイブストーンの一閃に叩き折られ、またしても無数の破片となってセツナに襲いかかった。激痛の嵐の中、さらに後ろへ。重い一撃が来る。肩口から脇腹へかけての斬撃。肉も骨も断ち切られ、内臓さえもずたずたに切り裂かれていくのがわかる。致命傷。死ぬまでの時間稼ぎにさえ、ならない。
「ふん……まあいい。確かにおまえのいうとおりだ。いまのおまえにとって、俺以上に高い壁は存在しないだろうよ」
ルクスが死にゆくセツナを見下ろす表情は、どうしようもなく儚いものに見えた。
「なぜならばそれがおまえの思い描く俺だからさ」
グレイブストーンから滴り落ちる自分の血を浴びて、セツナは息を吹き返した。
それが何度目の死で、これが何度目の生なのか。
数えるのも馬鹿らしくなるくらいに死んで、考えるのも嫌になるくらい生き返っている。
だからといって、もう飽きた、などといえるわけもない。
立ち向かわなければならない。
これは試練だ。
セツナに課せられた最後の。