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第二千話 剣野(二)


「ただ、俺には心残りがある」

「心残り……ですか」

「ご覧のとおり、俺は死んじまった。おまえに俺の学んだことのすべてを伝えきる前に。おまえに俺のすべてを託しきる前に。それが多少、心残りだ」

「師匠……」

「そんな顔すんなよ」

 ルクスが、セツナの表情を見て、頭を振った。セツナには自分がどのような表情をしているのかわからないが、きっと辛気臭い顔をしていたのだろう。彼は、そういった表情が大嫌いだった。元々、敬愛する団長でさえからかうのが大好きなひとなのだ。明るいのが、いいのだろう。しかし、感傷に浸っているセツナには、すぐさま明るい表情を作ることなどできなかった。

 ここが本当の地獄であるかどうかなど、どうでもよかった。目の前にいるルクスがただの幻想でも構わない。死んだはずの、別れの言葉を交わすことさえできなかった師匠が目の前にいて、笑っているのだ。それは、望むべくもないことだった。

「俺は、あのひとたちを護ることができたんだ。それだけで満足なんだよ。あのひとたちを護れるのは俺しかいなかったし、なにより、俺は俺の人生を精一杯に生きたんだ。そのことに不満はないさ」

 ルクスは、満足げな顔を見せた。あのひとたちとはきっとシグルドたちのことだ。《蒼き風》団長シグルド=フォリアーと副長ジン=クレールがルクスにとっての大切なひとたちだということは、セツナも知っている。家族ではないが、家族以上に大事に想い、大切に考えているということも。だから、ルクスはシグルドたちを護るために命を張り、そのために命を落としたというのだろう。そして、それに満足感を覚えているのも、わからないではない。

 たとえば、セツナが彼と同じような状況に置かれたならば、大切なひとたちの命を護るために自分の命を差し出すことになったならば、どうか。満足したか、しなかったか。答えはひとつだ。多少、悔いは残るにせよ、大切なひとたちを守り抜けたのであれば、満ち足りた死を迎えることができただろう。

 だが、現実は違う。

 セツナは、だれひとり大切なひとを護り抜けぬまま、敗れ去り、逃げた。

「おまえは、どうだ?」

「……俺は」

 問われて、セツナは、即答できない自分に歯がゆさを感じた。なにからいえばいいのだろう。どこから話せばいいのだろう。いいたいことは山ほどあって、話したいことも星の数ほどある。相手はルクス。剣術の、戦闘術の師匠だ。彼にならばなんでも話せた。彼にならば、どんなことだって相談できた。胸襟を開いて相談したとして、彼が明確な答えを返してくれるかどうかはまた別の話だったりするのだが、それはわかりきったことで、別に不満を抱くようなことではない。ただ、聞いてほしいときに聞いてくれるだけの分別はあるのだから、優しいといえる。少なくとも、セツナの話を一切聞こうとしなかったことは、一度だってなかった。そういうひとだから、セツナは彼を師事し続けたのかもしれない。

「満足してねえって顔だな」

「はい」

 セツナがうなずくと、ルクスは虚空を眺め、それから鞘に収まったままのグレイブストーンを無造作に掲げた。身の丈以上の長さを誇る刀身が空気を引き裂く音は、重々しい。

「おまえがなぜここにいるのかは、知らない。おまえは死者じゃない。俺たちのように死んで地獄に堕ちたわけじゃないんだろう。それはわかる。つまり、なんらかの理由があってここにいるってことだ。そしてそれは、おまえが満ち足りていないことと関係がある。おそらくは、そういうことだ」

 ルクスの目がぎらりと輝く。闘争を目前に控えたときに見せる、本性の片鱗。“剣鬼”と謳われる彼の本質がそこにある。射抜かれ、呼吸を忘れるが、同時に見とれてしまう自分に苦笑もする。幾多の死線を潜り抜け、数多の敵を斬り殺してきた剣の鬼のその姿にこそ、セツナは憧れた。ルクスに教えを乞おうとしたのも、結局はそこなのだ。“剣鬼”ルクスへの憧憬。

 少しでも、彼に近づきたいと想った。

 それがはじまり。

「強く、なりたいんだよな?」

「はい」

 うなずくと、ルクスがやれやれと呆れ果てたように頭を振った。セツナは、彼のその反応が解せなかった。理解が及ばないのだ。

「おまえは、強い。十分すぎる、なんて言葉じゃ言い表せないほどにな。おまえ以上に強い人間なんているわけがない。おまえと黒き矛は、最強だ。俺が保証する。それでも、おまえは力を求めている。ってことは、それ以上力を積み上げる必要があるんだな?」

「はい」

 ぎろりと、睨んでくる。“剣鬼”の視線。常人ならば見つめ返してなどいられまい。だが、彼に徹底的にしごかれ、鍛え上げられてきたセツナは、ルクスのそういったまなざしに慣れている。

「あのとき、もっと力があれば俺たちを救えた、なんて考えてはいないよな?」

「それは……」

「そういう甘い考えは捨てろ。あのとき、おまえにどれだけの力があろうとも、俺たちの死は免れ得なかった。大体、王都からどうやってバルサー要塞の俺たちを護るっていうんだ。俺もベネディクトもファリューも、それ以外の多くも、あのとき死ぬしかなかったのさ。それでいい。それが運命だった」

 突き放すような、ルクスの言葉。

「そう、割り切ればいい」

「そんな簡単に割り切れるもんじゃないです」

 セツナは、初めて反論した。そんな簡単に割り切れるものならば、地獄に堕ちてまで苦悩したりはしないし、ルクスとの再会に感動するはずもない。

「俺は、師匠も皆も助けたかった。それができなかったから、自分の弱さを知ったから、地獄に逃げてきたんじゃないですか」

「逃げてきた? 違うだろ」

「え?」

「進んで、堕ちてきたってんならさ。逃げてきたわけじゃねえだろ」

 ルクスは、グレイブストーンを地面に突き立てると、じっとこちらを見つめてきた。

「おまえは、そんな弱い人間じゃねえ。おまえは、いつだって諦めなかった。どんな絶望的な状況だって、なんとしてでも覆そうとしてきたじゃないか。いまだって、そうだろ?」

 ルクスの表情は、どこか優しい。

「強くなろうとしている。強くなりたがっている。強くなりたくて、いま以上の自分になりたくて、ここにいる。違うか?」

「……いえ」

「だろ。だよな」

 安心したとでもいうような表情に、セツナは、なんだか普段のルクスとは別人と話しているような気がしてならなかった。ルクスといえば、弟子にとにかく辛辣だという印象があったからだ。こうも優しく柔らかい言葉を投げかけられたことなど、数えるほどもないのではないか。

 それはつまり、あるにはあったということでもあるのだが。

 そして、だからこそ、セツナはルクスの厳しすぎるほどの鍛錬から逃げなかったということでもある。

「おまえはそういうやつだ。諦めが悪くて頑固で融通が利かなくて、どうしようもない大馬鹿者なんだ。だから、俺のしごきについてこられた」

 ルクスがなにやら面映そうに鼻の頭を掻く。

「あのとき、いわなかったけどな。俺のしごきで音を上げなかったのは、おまえが初めてだったんだ」

「え……?」

「俺は、《蒼き風》の幹部だし、“剣鬼”だなんていわれてるからさ。指導を受けたいってやつが数多といるのさ。そういう身の程知らずには、おまえに課したのと同じだけの鍛錬を施す。すると、全員が全員、途中で音を上げる。筋がいいヤツでさえそうだった」

 セツナは、ルクスの話を聞きながら、ただただ驚いた。そんな話は、聞いたこともなかったからだ。確かに最初の鍛錬からして、常人のセツナには厳しすぎるくらいのものだったが、まさかセツナ以外のだれもが音を上げてきたほどのものだったとは思いもよらなかった。セツナ以外でルクスに指導を受けたいと願うのは、おそらく屈強な傭兵や戦士であって、当時のセツナとは比べ物にならないほどに鍛えられた肉体を持つものばかりのはずだ。そんな連中さえ音を上げるほどの鍛錬。しごき。セツナは自分がそのしごきを耐え抜いたことが不思議でならなかった。

「なんの才能もなければ、実力も経験もないおまえだけが、音を上げなかった。だからさ」

 ルクスの目が穏やかに微笑んでいた。

「俺は、おまえを見放さなかった」

「師匠……」

「おまえはまだまだ強くなれる。いまでさえ、俺には遠くおよばないんだ。俺に追いついても、まだ行けるはずだ。なぜならおまえは生きているんだからな」

「生きている……」

「そう、おまえはまだ、生きている。俺のように死んですべてを失った亡者なんかじゃあないのさ。だから、前に進むことができる。そうだろう」

 ルクスの一言一言が耳に刺さる。胸に残る。記憶に刻まれる。刻んでいかなければならない。どんなことがあっても忘れないように、脳に焼き付けるべきだ。そんなことを想う。生きている。

「そして、おまえがここから前に進むためには、俺を斃さなきゃならん。それは、わかるな?」

「そんな……」

「ここまでそうしてきたはずだろう。ここは地獄なんだ」

 ルクスが、無造作にグレイブストーンを鞘から抜いた。

「俺の屍を超えて征け」 

 澄んだ湖面のように美しい刀身が、セツナの顔を映すようだった。


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