第千九百九十九話 剣野(一)
闇の中を歩いている。
そう、炎の道を駆け抜け、嵐の丘を越えてからだ。
ずっと、闇の荒野が続いている。
果てることなき地獄の風景は、どこを見ても気が滅入るばかりだ。地獄。地の底の亡者の世界という認識が正しいのかどうか。積み上げられた髑髏と骨が木々のように乱立し、地を埋め尽くすのもまた骸骨ばかりだ。川に流れるのは血のように赤い水であり、むせ返るような血のにおいは、それが血そのものであることを示しているようだった。上天を埋め尽くすのは暗雲であり、太陽の光など見当たろうはずもない。どこまでも漠たる闇が横たわり、希望など一切ない地獄の光景を演出しているようだった。
そんな中を彼は走り続けている。
体力の続く限り、当面の目的地に向かってただひたすらに走っていた。でなければ、いつまでたっても目的地にたどり着ける気がしないのだ。
地獄は、とにかく広大だった。
出発地点から現在地に至るまで、途中で足止めを食らったことを考慮しても、とんでもない距離を移動していることになるはずだ。昼夜がなく、時計もない以上、時間感覚など正常に働こうはずもない。その上、この地獄は彼に無尽蔵の体力を与えてくれるようであり、消耗し、疲労を感じたとしても、少し休むだけ全快し、再度駆け出すことさえ可能になった。まるで延々と走り続けよとだれかにいわれているようであり、彼はなんとも言い様のない嫌なものを感じたものだが、体力が回復することに不満があるわけではない。むしろ、感謝さえしていた。彼がここにいるのは、自身を徹底的に鍛え直すためなのだ。そのためにはとことん肉体を酷使する必要がある。体中の筋肉という筋肉をいじめぬき、鍛え上げるのだ。
黒き矛の力に振り回されない肉体と精神の構築。
それがいままさにセツナが自身に求めることであり、そのためにこそ、彼は地獄に落ちた。
そして、地獄に落ちていまに至るまで、鍛錬の成果は確実に出てきていた。体が軽くなってきている。地獄に落ちた当初よりも格段に切れが増し、走行速度も上がってきていた。それもこれも、長い距離を走り続けてきたこともあれば、カインやウェインとの死闘を潜り抜けてきたからだろう。
地獄での日々は、決して無駄になってはいない。
このまま鍛錬を続ければ、黒き矛を完全に使いこなせるようになるのは疑いようもない。
しかし、セツナが当面の目的地と定めた光の柱は、まだまだ地平の果てに見え、辿り着くまでにどれだけの時間がかかるのかわかったものではなかった。地獄の暗黒を貫く巨大な光の柱。そこになにがあるのかなどわかりはしない。だが、地獄全土を照らすほどの光の柱に意味がないとは想い難かった。この地獄の暗闇の中のたったひとつの光明。そこに辿り着けば、きっとなにかある。なにもなくとも、決して無意味にはならない。なぜならば、地平の果てに見える場所に辿り着けば、それだけ肉体を鍛え抜くということになるからだ。
もちろん、ただ走るだけでは主に下半身を鍛えるだけだ。セツナは、ただひたすら走るのではなく、適度に上半身でも運動しながら、この地獄の荒野を駆け抜けてきている。
鼻がねじまがりそうなほどの腐臭のする沼地を横目に駆け抜け、骸骨でできた山を踏破する。人骨の森を走り抜け、血の大河を飛び越える。その道中、無数の視線を感じた。亡者たちの視線。カインやウェインのようにこの地獄をさまよう亡者たちは、セツナを見ては憎悪と怨嗟に満ちたまなざしを投げつけてくるのだ。彼らにとってみれば、セツナのような生者は羨望の的であり、怨念をぶつけるべき対象に違いなかった。とはいえ、いずれの亡者もセツナに襲い掛かってくるようなことはなく、ただ遠目に呪詛を投げかけてくるのみだった。
そんなものでへこたれるセツナではない。
亡者たちがなにをどう思おうが、知ったことではない。
セツナは生きている。生きて、地獄に堕ちている。生きたまま、地獄を抜け出さなくてはならない。それも肉体と精神を鍛え抜いて、だ。死者に構ってやるほどの余裕もなければ、理由もない。
彼は、亡者たちの視線を振り切って、ただ駆け抜けた。
どれほどの距離を駆け抜けたのだろう。
考えるのも馬鹿馬鹿しくなるくらいの時間、距離を走り続けたセツナは、前方に広がるこれまでとは異なる風景に足を止めた。
地獄の荒野は相も変わらず積み重なった人骨の上に広がっているのだが、彼が足を止めたのはそれが理由ではない。
剣が突き立っていたのだ。
それも、一本や二本ではない。何十、何百、いや、何千何万という数の刀剣類が骨の荒野に突き立ち、さながら剣の墓場のような情景を描き出していた。
(これは……)
セツナは、目の前の剣に視線を注ぎ、近づきながら警戒を強めた。地獄の風景の中に突如として出現する違和感というのは、これまでに二度あった。カインのときとウェインのときだ。いずれも地獄の風景に溶け込むようなものだったが、それでも、なんの実害もない地獄の有り様とは一線を画すものだった。
この剣の墓場もそうだ。
実害こそなさそうではあったが、奇妙なものを感じずにはいられない。
セツナが注目した剣は、わずかに湾曲した幅広の刀身が特徴的なものだ。刃毀れはなく、切れ味に問題はなさそうに想える。鍔にも柄にも問題は見当たらず、ではなんのために突き立てているのかという疑問が生まれる。ほかの剣に視線を移せば、その疑問はより深刻なものとなる。いずれの剣も刃毀れひとつない新品同然の状態だったのだ。そんな刀剣が数え切れないほど突き立っている。まるで墓標のように。
墓標だとすれば、だれの墓標なのか。
この地獄に堕ちたものたちの墓標なのか。
それとも、現世で戦い死んでいったものたちに捧げるための墓標なのか。
いずれにしても疑問しかわかなければ、不可解さだけが広がっていく。
セツナは、不穏な気配の中で警戒を新たにした。ここは地獄だ。カインやウェインのときのようになにが起こったとしてもなんら不思議ではない。たとえば、突如として剣が襲い掛かってくるようなことがあったとしても、おかしくはないのだ。
「そう怖い顔をするなよ」
不意に飛び込んできたのは、当然のように聞き知った声だった。極めて馴染み深く、狂おしいまでに懐かしい声。心が震える。目頭が熱くなる。ただ声を聞いただけだというのに。
「師匠を相手になにを警戒する必要があるんだ?」
声は、またしても気楽にいってくる。そこに敵意や悪意はない。いまのいままで感じていた殺気も、消え失せている。どこまでも鋭く、どこまでも強靭なまなざし。けれど、優しい。けれど、暖かい。いつだって見放さず、見守ってくれていた視線。不甲斐ない弟子を罵倒しながら、決して置き去りにはしなかった師匠の声。いや、置き去りにしていった、というべきか。
「師匠……」
セツナは、剣の墓標の中心へと駆け出す自分を止められなかった。声だけでは満足できない。姿を見たい。顔が見たかった。その姿を忘れたわけではない。そんな馬鹿なことがあるはずもない。それでも、この目で確かめたかった。確かめなければならないという想いが、セツナを突き動かした。
無数の剣が乱立する墓場のような荒野の中心に、彼はいた。
「やあ、セツナ」
地獄の暗闇の中でも自己主張の激しい銀髪の青年。最後に姿を見たときからなんら変わらない姿だった。どこか透徹したようなまなざしには多少戸惑いを覚えたものの、それ以外は彼そのものだ。セツナが剣術を学び、戦闘の基本から応用に至るまで、様々なことを教わり、学んだ師。《蒼き風》の突撃隊長にして“剣鬼”ルクス=ヴェイン。大きな岩に腰を下ろし、彼の代名詞ともいうべき魔剣グレイブストーンを握り締めている。その姿を目の当たりにした瞬間、セツナは、言い様のない感傷に襲われた。しかし彼は、事も無げに聞いてくるのだ。
「元気だったか?」
「……師匠!」
なにか返事をしようと口を開くが、言葉が続かなかった。思いつかないし、なにより、嗚咽が漏れる。
「なに泣いてんだよ……まったく、らしくない」
ルクスは、セツナの反応が予想外だったのか、あっけにとられたような顔を見せた。だが、セツナにはどうすることもできないのだ。あふれる感情が涙となってこぼれ落ちるのを止められなかった。
セツナがルクスの死を認識したのは、王都に入った報告からだ。最終戦争終盤、バルサー要塞に押し寄せたヴァシュタリア軍との戦いの中で命を落としたのだと、見られていた。そして、セツナはルクスの死を感覚的に理解し、いまに至るまで、痛恨の想いを抱き続けてきた。師のためになにをしてやることもできなかった。後悔ばかりがあった。
「だって、だって……!」
「おまえは、いつだって傲岸不遜でいるんじゃあないのかよ」
「そんなの、だれが決めたんですかっ」
「師匠に口答えするんじゃないっての」
「しますよ、するでしょ、俺は」
「……そう、だったな」
ルクスが、肩を竦めて笑った。セツナがいつもどおりの自分を取り戻したことが嬉しかったのかもしれない。
「おまえは、不出来な師匠に相応しいくらい不出来な弟子だったんだよな」
「師匠……なにいってるんです」
セツナは、ルクスの自嘲気味な笑みを見て、むっとなった。それは違うと頭を振る。
「あなたほどの師匠は、どこを探しても見当たりませんよ。俺が保証します」
「そうかい」
ルクスが顔を俯けたのは、照れくさかったからなのかどうか。セツナには、そこらへんの感情の機微はよくわからない。ただ、セツナは本心を伝えただけだ。セツナは、ルクスを師として物足りないなどと想ったことは一度もなかった。ルクスは、とにかく厳しいひとだった。セツナの才能の無さをとことん言及し、罵倒し、徹底的にいじめ抜いた。ルクス直々の特訓というのは、この世の地獄というに相応しいくらい苛烈なものであり、それを目の当たりにしたミリュウなどはルクスのことを嫌いになりそうだと感想をもらしたものだ。
それくらいのことをしなければ、素人同然のセツナを実戦に出しても構わないと想えるほどに育て上げることはできなかったに違いない。
そして、そのおかげでセツナは急速に成長した。それは疑うまでもない。ただの高校生に過ぎなかったセツナが、厳しい鍛錬を乗り越えてきた歴戦の強者に負けないくらいの戦士になれたのだ。それもこれも、ルクスという最高の師匠と巡り会えたおかげだ。
一方で、エスクがいっていたことも理解できる。矛の使い手であるセツナには、剣術よりも槍術、棒術を学んだほうがよかっただろうということも一理あるのだ。しかし、ルクスとの鍛錬の日々が無駄になったわけではない。ルクスから学び取った剣術の応用により、セツナは黒き矛の使い手として研ぎ澄まされていったのだから。
「ガンディアの英雄殿にそういってもらえるなら、嫌々ながらもおまえの師匠を請け負った甲斐があるというもんだ」
「俺がいまあるのは、すべて師匠のおかげですから」
「はっ」
ルクスが、突き放すように笑った。そして、まっすぐにこちらを見つめてくる。
「違うよ、それは」
透き通るような瞳は、彼の魔剣を思い出させた。湖面のように美しく透明な刀身。
「おまえは、おまえの力で自分の人生を勝ち取ったんだよ」
「師匠……」
「俺はおまえにとって不要な剣の手解きと戦闘の基本を教えただけだ。それを糧として、道を切り開いたのは、ほかならぬおまえ自身の実力なんだよ。それは、俺が保証してやる」
ルクスの言葉は、すっと、セツナの意識に入り込んできた。
「おまえが認める最高の師匠がな」
彼は、どこかてれくさそうに笑うと、ゆっくりと腰を上げた。