第十九話 クオン=カミヤ
「リノン様は、レオンガンド陛下の妹君よ」
ま、わかってるとは思うけど、とファリアが付け足してきたのを、セツナは上の空で聞いていた。
そこは、古めかしいものから真新しいものまで、書物という書物が目一杯に収められたいくつもの書棚によって支配された空間だった。小さな図書室とでも言うべきなのかもしれない。ともかく、見回す限り、本、本、本――本だけしかなかった。
もちろん、机と椅子もある。あるにはあるが、書物が支配的な空間の中では、その存在感はあまりにも希薄であり、ともすれば申し訳なさそうに体を縮めているかのようにも見えなくはなかった。
広い部屋ではあったが、前述の通り、書物が過重気味に詰め込まれたいくつもの書棚のせいで、かなり狭く感じられた。圧迫感を覚えるのだ。それも仕方のないことではあった。
室内が暗いのは、天候が原因だった。開け放たれた採光窓から差し込むべき日の光は、幾重にも折り重なって頭上を覆う鉛色の雲の向こう側なのだ。届くはずもない。そんな薄暗い室内を多少なりとも明るくするのは、ファリアが念のためにと持ってきた携帯用の魔晶灯のおかげだった。
それは、一見すると拳大の水晶玉としか言いようのないそれは、ある種の力を加えると光を発する性質を持っているのだという。セツナは実際、水晶玉が突如として発光しだした瞬間を見ており、その点では疑うべくもない。
いや、そもそも、ファリアを疑う必要はないだろう。彼女からは、敵意や悪意は微塵も感じられなかった。
「リノンクレア・レーヴェ=ルシオン様が、ガンディアの同盟国ルシオンの王子ハルベルク・レウス=ルシオン殿下の元に嫁がれたのは三年前。以来、リノン様は、ルシオンとガンディアの絆の象徴以上に活躍されてきたわ」
連日、どこか長たらしい名前ばかり聞かされて、セツナは、頭を抱えかけた。眼前の机の上に視線を落とす。半透明の容器に入れられた魔晶灯の明かりは、神秘的ではあるものの、どこか違和感を覚えずにはいられなかった。それがどのような類の感覚なのか説明しようもないのだが、得体の知れない不気味さをその輝きに見出して、セツナは、すぐさま魔晶灯から視線を逸らした。
目の前には、紅茶の注がれたティーカップがあり、その隣の小皿にはパンケーキのようなものが盛られていた。けれども、なにやらびっしりと文字が記された一枚の紙と、分厚い書物が、テーブルをひどく味気ないものにしていた。
「山賊退治に野盗の駆逐、皇魔の殲滅――いろいろあるけれど、一番有名なのが、ワラルの侵攻を撃退したことかしら。知らない……わよね?」
「え、ああ、うん……」
「まあ、いいのよ。そんな話はね」
と、彼女は気を取り直すように言ってきたものの、セツナとしては最初からリノンクレアの話を聞くつもりもなかったし、なんならファリアの用事をとっとと済ませて、マルダール市内を見学にでも行きたかった。
そうなのだ。
セツナが現在、この書庫のような一室でファリアとふたりきりなのは、彼女の用事が理由だったのだ。
当初は、レオンガンドとともにマルダール・タワーと呼ばれているらしい中心の塔に向かう予定だったらしいのだが、突然、ファリアが大事なことを思い出したといって、セツナの手を引っ張り、ここまで連れてきたのだ。
大陸召喚師協会ガンディア支部マルダール地区の拠点である。外観は、どこか古めかしい印象を与える四階建ての木造建築物だった。
その二階の一室に、ふたりはいた。
「話を戻すわね。さっきも言った通り、セツナには、是非ともここに署名して欲しいのよ」
といって、ファリアが指し示してきたのは、机の上にある一枚の紙だった。その紙面に書き連ねられた無数の文字は、どうやらこの世界――あるいはこの国――の言語であるらしく、異世界から召喚されたものには到底理解しがたいものであるはずなのだが、しかし、セツナはその複雑な文字の群れが意味するところをほとんど完全に把握できていた。
生まれてこの方一度だって目にしたこともないはずの言語に対して、なんの違和感すらも覚えず、むしろそれが生来親しんできた言葉であるかのような感覚さえも抱くのだ。
ふと、セツナは、思い返す。
(そういや、最初からだよな。それって……)
アズマリア=アルテマックスとの初対面の時からなのだ。
言語を始めとしてありとあらゆるものが異なるはずの世界に召喚されたにも拘らず、そういった面でなにかしらのトラブルが起きたことはなかった。アズマリアと言葉を交わし、それ以外の人々とも会話し、コミュニケーションを取ることができたのだ。
改めてその事実を認識したセツナは、召喚に際し、自分の身になにかが起こったのではないかという憶測を立てるに至ったものの、その思索を長々と続けるわけにも行かなかった。
ファリアのまなざしが、そこはかとなく痛い。
「ねえ、聞いてる?」
「聞いてるよ」
セツナは、慌てて答えた。用紙を手に取り、視線を走らせる。黙読は一瞬。書き記された文字がすべて頭に入ったかどうかは怪しいものの、内容は理解する。そもそも、その用紙の内容については、さっきファリアから説明されていたのだ。
ことさら用紙に目を通して見せたのは、ファリアの視線を遮るためだった。
「要するに、協会に入れってことだろ?」
セツナは、用紙を再び机の上に戻すと、ファリアの眼を見た。眼鏡のレンズの向こう、エメラルドグリーンの瞳は、真摯にこちらを見据えていた。綺麗な瞳だった。思わず見惚れかけてしまうほどに。
「強制しているわけでもないし、あなたが望むのなら入らなくても構わないわ。でも、わたし個人の意見としては、セツナには是非とも協会に入って欲しいのよ」
静かで、それでいて力強いファリアの声音は、セツナの耳朶に心地よく染み入るようではあるのだが。
尋ねる。
「どうして?」
「協会に加入しておいて損はないわ。この大陸において現在活動中の武装召喚師の約九割が協会員なの。これが、あなたに加入を勧める理由のひとつ」
セツナは、その約九割という数字はどうやって算出したのかは聞かないでおくことにした。実際、目の前のファリア自身、その数字を真実だと言い張っているという風もなく、むしろその誇張表現に呆れている様子が見て取れた。もっとも、その表情の変化はきわめて些細なものであり、セツナが見逃さなかったのは偶然に過ぎない。
「つぎに、加入し協会員となった武装召喚師は、無償で各都市の協会施設を利用できる。これは大きいわよ。路銀が尽きても、宿の心配が要らないもの。まあ、何日も何日もってわけにはいかないけどね。そして、会員は協会を通して、さまざまな仕事の依頼を受けることができるわ。商隊の護衛や、皇魔の討伐、盗賊退治などなど――外部からもたらされる依頼をこなせば、懐が潤うだけでなく、武装召喚師としての名声も上がっていくでしょうね」
ファリアの丁寧な説明をありがたく拝聴しながら、セツナの脳裏を過ぎったのは、ありふれたロールプレイングゲームのシステムだった。ギルドで依頼を受け、その達成によって報酬を受け取る――実にありがちでわかりやすいシステムだといえるだろう。
それが、現実にあるのだという。
セツナは、多少なりとも心をくすぐられたものの、それでもまだ乗り気にはなれなかった。いや、大陸召喚師協会に入るという選択肢も悪くはないとも思うのだ。
それは、ファリアが所属している組織だからというのも大きいが、この見知らぬ大陸で、なにかしら大きな団体に身を置いておくのは、決して良くない判断ではないだろう。
しかし、なにかが引っかかる。
なんとも言いようのない違和感が、セツナを困惑させるのだ。別にファリアを疑っているわけではない。むしろ、彼女を全面的に信用することになんら躊躇はなかった。ファリアには、感謝しているのだ。そう、心から。
だが、それとこれとは別――というほど単純な話でもないのが、困ったところだった。
「それに、あなた自身の目的も叶えやすくなるんじゃないかしら?」
こちらの心中を詩ってか知らずか、ファリアは、微笑むように言ってきた。
「俺の目的……?」
「あなたの目的がなにかは知らないし、そもそも、記憶喪失じゃあ思い出せないのかもしれないけれどね。でも、目的がなければ、こんな小さな国には訪れないでしょう?」
(目的……)
セツナは、茫然とその言葉を反芻した。目的など、あるはずがなかった。アズマリアに意味もなく召喚され、そして、なんの目的や役目も与えられぬまま放置されたのだ。当初こそ英傑だの勇者だのと燃え上がってはいたものの、そういった子供染みた熱情は、いまや完全に下火になっていた。
ならば、どうするのか。
セツナは、自分が置かれている状況を考えて、嘆息したくなった。なにも思いつかない。レオンガンドにほだされてマルダールにやってきたのはいいだろう。バルサー要塞の奪還に力を貸すのも、いい。
だが、その後はどうする?
このままガンディアに留まり続けるのか、それとも――。
「思い出せねーっす」
適当に返答して、セツナは、頭を掻いた。なんにせよ、いまは目の前の現実をどうにかしなくてはならない。ファリアの誘いへの返答。それを先延ばしにすることはできないだろう。
彼女に失礼だ。
「そっか」
とは、ファリア。こちらの嘘を見抜いてはいるものの、特に気にしてもいないのかもしれない。それとも、セツナの嘘など、取るに足らないことだとでも思っているのだろうか。
それからしばらく、ふたりの間には沈黙が横たわっていた。
セツナが黙考する傍らで、ファリアはというと、書棚から取り出した本を片手に、優雅に紅茶やパンケーキを口にしていた。
そして、室内に満ちた静寂を破ったのは、やはりファリアの言葉だった。
「……ところで、前々からひとつ気になってたことがあるんだけど、聞いていいかしら?」
「ん? ああ、いいけど?」
そういうと、セツナは、顔を上げた。ちょうど、頭を抱えて悩むのにも馬鹿馬鹿しくなってきたところだった。まったく、どうして協会に入る入らない程度の事で、ここまで苦悩しなければならないのだろう。入ろうが入るまいが、どちらであろうとも、現状が即座に変わるわけでもないのだ。
なのにどうして、こんなにも考え込んでしまうのだろう。
堂々巡りの思索は、セツナが予期しなかったファリアの言葉によって断ち切られた。
「クオン=カミヤって名前に聞き覚えはある?」
それはまさに青天の霹靂といえた。
「!?」
意識が飛ぶほどの驚きの中で、セツナは、懐かしい少年の声を思い出していた。
『ぼくは守屋久遠。君は……?』
るおあああああああああ!
耳障りで不愉快極まりないその咆哮は、皇魔特有のものに違いなかった。人間の神経を逆撫でにするそれが、戦闘の幕開けを飾るに相応しいかどうかはともかくとして、彼らの戦意を著しく高めたのは間違いないだろう。
見渡す限りの平原。周囲に遮蔽物となりそうなものはなく、頭上から降り注ぐ燦然たる陽光の下、だれもがその姿を曝け出すしかなかった。
男がふたりに女がふたり――合計四人の若者たちである。
「リョットはわたしがやる」
と、一番に名乗り出たのは、若い女だった。
決して長身ではない。均整の取れたしなやかな肢体は、彼女がただものではないことを示しているかのようであった。その肉体を包むのは、背中に天使の翼のような模様のある黒い装束であり、その上に灰色の外套を纏っていた。旅塵を避けるために違いない。
風に揺れる黒髪は美しく、敵を見据える灰色の瞳は刃のように鋭い。
敵とは、無論皇魔である。彼らを包囲するように展開した皇魔の数は、軽く三十を超えるだろう。
真紅の体毛に覆われた大型の四足獣型皇魔――識別名リョット。隆々たる四肢から繰り出される一撃は、鍛え上げられた人間の肉体すら苦もなく粉砕するだろう。猟犬のような頭部に穿たれた二つの眼孔からは、赤い光が漏れていた。
その数、十体。
「そっちは任せた」
女は、腰に帯びた二本の剣を同時に抜き放った。ショート・ソードの二刀流。ひとつは刀身に古代神聖文字が刻まれており、儀式用の剣に見えなくもない。もう一振りは、波形の刀身を持つ剣だった。
その二本の剣を振り翳すなり、彼女は、地を蹴った。
「では、ベスレアの相手はわたくし、ということですね」
そう言って、口早になにかしらを唱え始めたのは、もうひとりの女である。リョットに向かって飛び出した女よりは上背があるものの、その体は特別鍛えられたものではなかった。しかしながら肉付きのいい肢体は、男にとっては垂涎の的に違いなかった。
その肉感的な体を包み込むのは、二刀流の女と同じ黒装束であり、灰色の外套もまた、同じデザインであるらしかった。腰まで伸びた栗色の髪を後ろで束ねている。柔和な笑みを湛えた容貌は、慈母のそれといって差し支えない。
彼女は、視界の端で両手の剣を振り回して、真紅の化け物を圧倒する仲間を捉えながら、みずからは術式の構築に専念していた。無論、前方及び左右の皇魔への注意も怠らない。
ベスレアという識別名をつけられた皇魔は、一見するとただの黒猫に他ならない。しかし、背から生えた一対の翼と、眼孔から漏れる紅い光が、それらがただの猫などではないことを如実に表していた。
不愉快な鳴き声で威嚇してくるそれらを一瞥しながらも、彼女は、微笑を崩さなかった。
術式が、完成した。
「武装召喚!」
閃光とともに掌に生まれた重量感は、彼女の意識をあざやかに変化させた。彼女が召喚した武器は、メイス――柄頭を持つ棍棒である。球形の柄頭からは、無数の刺が放射状に突き出していた。重量は、彼女の細腕にも耐えられるほどのものではあったが、それでも、その冷ややかな重みは彼女の緩やかな思考を尖鋭化させるには十分だった。
「――行きます!」
言うが早いか飛び出した女の後姿を見遣りながら、大男は、ひとりやれやれと肩を竦めていた。
「はしゃいでるねえ」
年のころにして二十代後半くらいか。外套を脱ぎ捨てて日の下に曝した赤銅色の肉体は、筋骨隆々という言葉が相応しいくらいに鍛え上げられており、その重量感たるや凄まじいものがあった。黒髪黒目。野生的な容貌は、しかし、血に餓えた獣というよりは、惰眠を貪る怠け者といった風情があった。
皇魔の群れの中で暴れ回るふたりの女と同じ、漆黒の装束を身に纏ってはいるものの、どう見ても似つかわしくないのは本人も認めるところだろう。大男が天使の翼を背負うなど、不気味以外のなにものではない。
「ま、それもこれもあなたのせいなんですがね」
彼は、無数の皇魔を事も無げに薙ぎ倒していくふたりの女傑から視線を外すと、すぐ後ろを振り返った。
「だとすれば、ぼくは罪深い生き物だね」
男がはっとするほどに眩い笑みを浮かべたのは、ひとりの少年だった。
十代後半の少年。
明らかにひとりだけ場違いな空気を纏うその少年は、しかし、間違いなくその男や女たちにとっては必要不可欠な存在であった。
中性的、という言葉がこれほど似合う人間も珍しいだろう。艶やかな黒髪を持ち、白い肌は透明感に溢れ、完璧とは言い切れないにせよ、極めて整った容貌は、美貌といってもなんら遜色はなかった。
深い青を湛えた瞳に見つめられたものは、男であろうと女であろうと、ときめきを覚えざるを得ないのではないか――それは、彼に魅了されたものたちの共通認識だった。
やや細身ではあるものの、それはむしろ彼の中世的な容姿を引き立たせるのに役立っていた。三人と同様に漆黒の装束を纏っており、この四人の中で、彼が一番その服を着こなせているのは錯覚などではないだろう。
彼は、男に向かってもう一度微笑すると、周囲を見回した。
さっきまで不気味な咆哮を上げていた皇魔たちは、いまや無残な亡骸となって大地に横たわっていた。あっという間の出来事だった。もっとも、そんなことで驚く少年でもなかったが。
当然の結果に過ぎない。
「イリスもマナもお疲れ様」
そういって、彼は、返り血ひとつ浴びていない二刀流の女剣士と、棍棒を片手に暴れ狂った武装召喚師の労をねぎらった。
「いえ、大したことではないので……」
イリスは、照れたように視線を逸らしながら剣を鞘に収め、マナは、微笑を浮かべたままメイスを手離した。彼女の細い手を離れた棍棒は、地面に到達する前に消失した。元の世界に帰還したのだろう。
「ウォルド、君もね」
「俺はなにもしてませんよ」
少年に声をかけられて、男は、軽く肩を竦めて見せた。実際、なにもしていないのだ。それなのにそんなことを言われると、背中がむず痒くなる。
しかし、少年は取り合わない。
「ぼくを護ってくれていたじゃないか」
「その必要はなかったみたいですがね」
「心遣いが嬉しいのさ」
少年は、そっと告げると、頭上を仰いだ。特に意味がある行動ではなかった。頂点に到達しようとする太陽の動きを確認するつもりもなければ、風に流れる雲の群れに想いを馳せることもない。
そうして、どれくらいの時間がたったのだろう。
「行きましょうか。クオン様」
マナの言葉に促されたことで現実に帰還を果たしたような気持ちになって、彼は、苦笑とともに仲間たちを振り返った。
「そうだね。行こうか」
その少年は、クオン=カミヤといった。