第千九百九十八話 夢よ、再び(二)
「夢を見た」
獅子神皇の座に足を踏み入れるなり聞こえてきたのは、酷く虚ろな声だった。強い意志があるとはとても思えないほどにか弱く、吹けば飛びそうなほどに脆く、儚い。されど、聞き入るしかないというある種の強制力が働いている。その強制力には、この神都に住むなにものも逆らえはしない。人間も、動物も、神々の使徒も、ヴィシュタルたちも、神々でさえも、抗えない。
それは、絶対といってよかった。
この世でただひとりの絶対者。
ヴィシュタルの主君であり、彼が唯一忠誠を誓う存在。
「良い夢か、悪い夢かはわからぬ。ただただひたすらに夢を見ていたのだ。長い長い夢を。終わることなき冒険譚。果てることなき戦絵巻。尽きることなき幻想曲」
虚ろな闇が支配する広大な空間には、その声だけが響き渡っている。彼の靴音は床に吸い込まれ、聞こえもしなかった。それ以外の物音も一切ない。聞こえるのは、主の声だけであり、その譫言のような、妄言のような言葉だけが空疎な世界の有り様を映し出しているかのようだった。
獅子神皇の座は、とにかく広い。皇宮の外観からは想像もできないほどの広さであり、出入り口から神皇が待つ玉座まで途方もない距離があった。空間を歪め、質量を誤魔化すことくらい、神にとっては造作もないことなのだ。皇宮内の各所に神皇の座と同じような処理が施された部屋があり、皇宮は、その大きさ以上の広大さを誇っていた。
しかし、獅子神皇の座は、明かりひとつ用意されておらず、完全な暗黒空間といってもよかった。玉座の形も見えなければ、神皇の影さえ見当たらない。しかし、声ははっきりと聞こえていたし、彼の視線の先にいるのは間違いなかった。気配がある。それもとてつもなく強大なものであり、感じ取るだけで気が狂いそうになるほどに強烈な思惟を発している。存在そのものが絶大な力を発信しているといってもよく、故に獅子神皇の座は現世と隔絶された異空間に隠されなければならなかった。獅子神皇の座が現世と繋がっていれば、それだけで神都に住むひとびとは発狂し、狂乱の中で死んでしまいかねない。いや、神都に住むひとびとだけではない。この大陸に住む大半の生物が狂死する可能性があるのだ。
故に神々は神皇をこの隔絶された空間に閉じ込めた。
封印といってもいい。
その封印の中で、神皇は眠り続けていた。それこそ、“大破壊”から二年以上もの長きに渡って、だ。つまり、神皇はこの二年あまり、直接命令を下したことは一度だってなかったのだ。ヴィシュタルたち神皇直属の獅徒も、神々も、神皇が発する思惟より命令を受け取り、行動していたに過ぎない。
それが神皇の望みであるという思い込みが覆される可能性を考えないことはなかったが、だからといって、なにもしなければ神皇に処断されるからだ。
神皇は、眠りながら、この国を支配していた。
「その夢の中で、わたしは弱小国の王だった。うつけと謗られ、暗愚の嘲りを受けながら、それでも夢を掲げ、野心を抱き、大望を果たさんとしていた。わたしは、まだ青かったのだろう。若かったのだろう。幼かったのかもしれない。だが、その幼さがわたしの背を押してくれたのは、間違いあるまい。わたしは、無謀と勇気を履き違えたまま、駆け続けた」
「数多の国と戦った。ログナー、ザルワーン、ミオン、クルセルク、マルディア、ベノアガルド、ルシオン……小国家群は、まさに群雄割拠の戦国乱世だったのだ。綺羅星の如く輝く英雄豪傑たちが入り乱れ、いずれもが己の魂を賭けて戦い抜いた。だれもが己の夢のため、野心のため、大望のために大地を駆け、戦野でぶつかった。わたしは幾度となく戦場に出た。死にそうな目にも遭ったが、いつだって、わたしには彼がいた。英雄がいたのだ」
(英雄……)
ずきりとする。
神皇の語る夢の内容というのは、極めて現実味を帯びたものだ。おそらく彼が生前経験したことであり、記憶の蓄積なのだろう。それが眠っている間に夢と同化し、意識の中で混濁してしまったのだ。なにが夢で、なにが現実だったのか。神皇はもはや、判定することもできなくなっているのかもしれない。
笑えはしない。
自分も、同じだ。
死んだものが再び生を受けたのだ。命が連続しているわけではない以上、記憶や意識に欠損が生じ、混乱が生まれるのも致し方のないことだ。特に神皇は、彼の記憶を補ってくれるものたちがいなかった。いや、いたのだが、神皇は眠り続け、彼の側近たちは彼の眠りを妨げまいとするだけであり、彼の記憶の再構築に力を貸すといったことができなかったのだ。だから、神皇は混乱の中にいる。
それを哀れむだけの情が残っていることに感謝しながら、ヴィシュタルは、玉座へと歩み寄る。
「英雄がいてくれたのだ。わたしには。それだけが誇りだった。それだけが、わたしのすべてだった。わたしに夢を思い出させてくれたのは彼だったのだし、彼がいなければ、わたしは夢など見なかったかもしれない。彼がいてくれたから、わたしは最期まで走り続けることができたのだ」
神皇にとっての英雄がだれなのか、ヴィシュタルにはわかりきっている。その英雄がいたから神皇が生前、夢を叶えかけたということも疑いようのない事実だ。
彼がかつて王として君臨していた国は、小国家群でも最弱の国だったが、ひとりの英雄を得たことをきっかけに爆発的な勢いでその勢力を拡大していった。近隣諸国を尽く勢力下に置き、遠方とも誼を通じ、協力関係を結ぶなど抜かりはなかった。小国家群最大の勢力となったのだ。もし、最終戦争が起きなければ、小国家群は彼の国を中心とする巨大な共同体となっただろう。
もっとも、その彼の夢が結実したとして、その成果がどれだけ続いたのかは、わからない。彼が英邁な王であったとしても、類まれな英雄がいたとしても、命には限りがある。時間がある。王の後継者が有能とは限らないし、英雄に後継者などいようはずもない。ふたりが失われれば、混乱が起きるのは間違いないのだ。それは、神皇自身が生前危惧していたことではあるだろうが。
「まるで夢のようだった……いや、実際に夢だったのだろう。なにもかも泡の如く消えて失せ、いまや手に残るものはなにひとつない。なにもかも失われてしまった。わたしが得たはずのすべて」
玉座が見えた。
長く高い階段状の段差の上、巨大な玉座が聳えている。そして、そこに座している人物こそ、この神都の統治者であり、神々の皇なのだ。無論、直視するわけにはいかない。いかに親衛隊たる獅徒とはいえ、神皇を直視するなど不敬に当たるのだ。段差の一番下で、跪き、頭を垂れる。
「なにも残っていないのだからな」
視線を感じる。これまた虚ろなものだ。どこに意識があるのかわかったものではない。だが、確かに意思があり、意識があるのだ。だからこそ彼はみずから考え、発言し、行動を起こしうる。意識がなければ、夢の中を彷徨い続けるだけの存在と成り果てるはずだ。
「神皇陛下……」
ヴィシュタルが跪いたまま言葉を発したのは、自分の存在を主張するためだった。神皇が自分に気づいているのかどうかがわからないのだ。視線を感じたからといって、彼がヴィシュタルの存在を認知しているかも怪しい。
起きている神皇と接するのは、これが初めてだった。
「夢とは、虚しいものよな」
神皇の
「ヴィシュタル。君は夢を見るかね」
「夢を見る季節は、はや過ぎ去りました」
「そうか……それはそれで寂しいものだ。夢を失ったものなど、ただの抜け殻に過ぎぬ。なんの意味もなく惰生を貪るだけの虚しい存在よ」
「なればこそ、わたくしは、陛下の夢に生きるのでございます」
「ふむ……」
ヴィシュタルの返答が予想外だったのか、神皇は、感じ入ったような声を発した。そして、静かに続けてくる。
「夢など、もはや見るまいと想っていた。しかし、こうして生き返ってみると、そうもいってはいられぬことがわかったよ。わたしは、夢の中でしか生きられない性分のようなのだ。夢を見なくては、夢を追わなくては、存在する理由がない。生きる意味がない。惰生を貪るなど、わたしには無理だ。そう想える」
神皇は、深々と溜め息をつくようにいった。自分の性分について、諦めにも似た感情を抱いているのだろう。その想いは、ヴィシュタルにも実感として理解できた。染み付いた性分は、生まれ変わったとしても失われるものではないらしい。むしろ、より一層強くなっている気がする。
「ヴィシュタルよ」
「は」
「わたしはこれより、小国家群統一の夢を叶えようと想う」
予期せぬ言葉に顔を上げたとき、ヴィシュタルは、神皇の姿を確かに見た。
燦然と輝く白銀の光背が、神皇の姿を逆光の中に浮かび上がらせていたのだ。
「まずは手始めにログナーとザルワーンを攻め落とすのだ」
厳然たる口調で、彼は告げた。
その日、獅子神皇の命令は、ヴィシュタルの口より瞬く間に神々に伝えられ、神々を通して全軍に伝達された。
獅子神皇を頂点とする神々の国ネア・ガンディアは、その日より、本格的な世界侵攻を始めた。
世界の命運が動き出したのもまた、その日といってよかった。