第千九百九十五話 竜と人(十四)
交渉の場に現れた人間は、クオン=カミヤと名乗った。
ヴァシュタラ教会神殿騎士団長を務めるというその人間は、不思議な魂の音をしていた。
ラムレスは、三界の竜王の一柱だ。
いわゆる転生竜と呼ばれる存在であり、肉体を失おうとも、いくらでも復活することが許されている。いわば肉体は仮初の器に過ぎず、魂こそが本体であるといっても過言ではないのだ。そして彼は、竜王の眼を通して魂の色を見、竜王の耳によって魂の音を聞くことができた。そうすることで相手のことを深く洞察することができるのだが、人間相手に使うような力ではない。
竜の多くが一定の音、一定の色をしているのに比べ、人間というのは多種多様な音、多種多様な色をしているものだ。その多様性が人間という種を捉えがたいものとしているのだろうが、だからどうということはない。不純物が多いのか、元々そういう風になっているからなのか、いずれにせよ、ラムレスの力でどうこうできることではないのだ。
そんな相手に対し、竜の眼と耳を用い、魂の色や音を観察しようとも大した意味はない。どうせ、理解しがたい色や音をしているのが常だ。竜属のように彼にとって心地のいい音を奏でているのならばまだしも、彼の耳を汚すだけの不快な音を発する魂など、見たところでなにも得るものはない。
だが、交渉相手ならば話は別だ。
相手がなにを企み、なにを目的としているのかを探るにあたり、魂の在り様を知るのは重要なことだった。たとえ理解しがたい色や音をしていたとしても、それさえ見えれば、それさえ聞けば、ラムレスたちに対して害意や悪意を持っているのかが明らかになるからだ。
故に彼はクオン=カミヤの魂を見、魂の音を聞いた。
純粋な白さを湛える魂が放つ音色は、ラムレスがこれまで人間から聞いたこともないようなものだった。悠久の時の流れを感じさせる旋律であり、まるで彼の魂そのものが遥か彼方より今日に至るまでの時間を生きてきたかのような、そんな音色。連綿と紡がれ続ける時の流れを思い起こさせる音色は、彼に聞き入らせ、しばらくの間、彼を沈黙させた。
交渉の場を見守る竜たちをヤキモキさせたのはいうまでもないだろうが、ラムレスがそんなことを気にするわけもなかった。大事なのは、クオン=カミヤとの交渉であり、クオン=カミヤの魂の音と色を聞く限り、彼にはラムレスたちに害を及ぼすつもりがないということがわかった、という事実だ。
そしてなにより、ラムレスに久遠の時を感じさせた不思議な魂の持ち主だということであり、そのことは、ラムレスに一考の余地を与えた。クオンが交渉相手ならば、耳を貸してやってもいいかもしれない。
彼がただ魂の音を聞いただけでそう判断したのには、理由がある。
人間は、平然と嘘をつく。自分の利益のためならば、当たり前のように約束を破り、そのことを悪びれることもない。信義などあろうはずもなく、虚偽と欺瞞に満ちた生き物だとラムレスは認識している。口から出る言葉のすべてが、つぎの瞬間には空疎なものと成り果てることだってありうるのだ。
口では、なんとでもいえる。
クオンはヴァシュタラ教会の代表者としてここにきている。ヴァシュタラ教会としては、竜に頭を下げるなどありえないことだろうが、交渉のためならば、どうとでもできるだろう。ラムレスに媚び諂い、“竜の巣”が教会と協調するよう働きかけることくらいたやすい。それが人間という生き物だ。そして、ラムレスたちが油断しきったところで裏切るのが人間なのだ。
しかし、魂は嘘をつかない。
魂の色と音さえ見通すことができれば、相手がどのような策士であろうとも、意味をなさないのだ。言葉では巧みに覆い隠せる悪意も害意も、魂の深度には正直に顕れてしまうものだからだ。だから、ラムレスはクオンの魂を見、感じ入ると、彼との交渉に耳を傾ける気になったのだ。
クオンの魂には害意はなく、悪意もない。
信ずるにたるかどうかを判定するにはまだ早いものの、疑う必要はなかった。少なくとも、ラムレスらの力を頼るだけの竜教徒の人間たちよりは信用に値する。そう、彼は考えた。
そして、クオンとの交渉の席で、彼はクオンの言葉のひとつひとつに耳を傾け、彼がなにを考えているのかを知り、なんのためにここを訪れたのかを聞いた。
クオンがヴァシュタラ教会の代表としてここを訪れたのは、単純な理由だった。
ここのところ、“竜の巣”の竜たちが能動的であり、ヴァシュタリア領土で荒れ狂っているという話が聖都レイディオンに轟き、神子を筆頭に教会の人間たちが不安になっているからだというのだ。竜の活動が活発になれば、それだけヴァシュタリアの人間に被害が及ぶ。竜とは強大無比な存在であり、ただの成竜でさえ、いや、子竜でさえ、人間如きが敵う相手ではない。いくらヴァシュタラ教会の騎士団が精強にして膨大な兵力を誇るとはいえ、竜を相手に対等に戦えるような戦力を有してはいないのだ。
ヴァシュタラ教会としては、“竜の巣”の竜たちがおとなしくしてくれるのならばそれでよし、そうでないならば、本格的に討伐軍を起こさざるを得ないという。クオンが教会の代表として交渉に訪れたのは、後者を是が非でも回避するためだった。討伐軍を起こせば、教会と“竜の巣”の対立が決定的なものとなり、戦争状態になりかねない。それもヴァシュラ教会、ヴァシュタリア共同体に必ずしも有利な戦いとは言い切れず、もしラムレス率いる“竜の巣”がラングウィンの“竜の庭”と手を組みでもすれば、目も当てられない事態になりかねない。
教会は、そのような事態に陥るのを未然に防ぐため、クオンに交渉の使者となるよう命じた。クオンは、なんとしてでもラムレスとの交渉を締結させなければならず、彼は命がけなのだといって笑った。もし交渉が成立しなければ、ここで死兵となって戦わなければならない、というのだ。クオンたちが死ぬ気になって戦ったところで、ラムレス率いる竜たちに敵うわけもない。故に彼は自嘲したのだろうが、そんな彼の素直なところがラムレスは少しばかり気に入った。
そしてなにより、彼の本心がそこにはないということも、わかったからだ。
クオンは、ラムレスを己の同志に引き入れるため、“竜の巣”を訪れたのだといった。ラムレスは、さすがに彼の正気を疑い、彼がただの狂人なのではないかと想った。正気の沙汰ではない。
「本気でいっているのか? 人の子よ」
「ええ。本気ですよ」
彼は、そのときばかりは笑わなかった。まっすぐにラムレスを見つめ、その透明な輝きを湛える魂の色彩を見せつけてくるかのようだった。正気なのだ。本当の本当に、ラムレスを同志に引き入れるつもりで、彼は交渉の場に現れたのだ。それは、至高神ヴァシュタラに仕える身であるはずの彼の立場を大いに危ぶむものだった。ラムレスが忠告したのは、そのためだ。
「ヴァシュタラを裏切ることになるぞ」
そして、教会は裏切り者を許すような組織ではない。異端者、異教徒を徹底的に排除してきた組織なのだ。ヴァシュタラへの裏切り者は、徹底的な罰を加えた上で滅ぼすのが彼らのやり方だった。神殿騎士団長という身分が彼の安全を保証するはずもない。
「わかりません」
「わからぬ、とは?」
「ヴァシュタラがこの世界にとって必要な存在であれば、大いに利用するつもりです。しかし、もしヴァシュタラなる神がこの世界を蝕む猛毒であれば、なんとしてでもそれを除かなければならない。ぼくはそう考えています」
「神を除く……だと」
ラムレスは、目を細めた。人間の口からそのような言葉が出るなど、にわかには理解し難いことだ。神とは、人間と次元の異なる領域にある存在といっていい。物理的に排除できるはずもなければ、立ち向かうことも身の程を知らない言動といってよかった。しかし、クオンのまなざしは真剣そのものだ。
「ぼくの望みは、この世界に平穏をもたらすこと。そのためであれば、神であろうが、魔であろうが、等しく滅ぼすのみ」
「人間風情がよくいったものだ」
ラムレスは、ただ呆れるばかりだった。大言壮語がすぎるというものだ。彼がいかにそのことを真剣に考えているとしても、馬鹿馬鹿しいというほかない。
「貴様如きの力でなにができる。貴様に神が滅ぼせるとでもいうのか? 貴様に、神と対等に戦える力があるとでも?」
「少なくとも、神に連なるあなたがたの魔法を無力化することくらいはできましたよ」
「……あれは貴様の力か」
「そしてこの交渉の場を覆う結界も、ね」
そういって、彼は周囲を見やる。ラムレスは、またしても目を細めた。確かに、この青藍の座は強力無比な結界に覆われていた。竜語魔法とは原理を異にする力は、彼の竜語魔法を持ってしてもびくともしないことは確認済みだ。神の加護でもないことは、神威を感じないことからも明白だ。では、いったいなんの力なのか。
人類史から失われた魔法では、ない。
となれば、考えられるのはひとつしかなかった。ここ数十年、巷を賑わせている武装召喚術の力なのだろう。それ以外には考えらない。しかし、だとしてもとんでもない力だ。武装召喚術が強大な力を秘めていることは聞き及んでいるが、ラムレスの魔法さえ無力化する結界を作れるという話など、聞いたこともなかった。
「なんのために」
「ぼくの部下ならまだしも、神殿騎士団全員が全員、ぼくの意に従っているわけじゃないんでね。聞かれると、さすがにまずい」
彼は後方を振り返ると、肩を竦めてみせた。どうやら、この結界は音声が外部に漏れることを防ぐためのもののようだった。だから害意も感じないのだ。
「なるほど。貴様も考えてはいるのだな。少し、安心したぞ」
「心配してくださるとは、意外ですね」
「貴様のような狂人、我が心配しようがどうしようもないが……しかし、興味はある」
「興味……ですか」
「貴様の魂は美しい。人間のものとは想えぬ。だが、貴様は人間だ。人間以外のなにものでもない。神に挑めるほどの力があるはずもない。それなのに貴様は、己の勝利を疑ってもいない。狂人故に眼を失っているわけでもなさそうだ……勝算はあるのか?」
「ぼくは確かにひ弱な人間ですが、ひとりではありませんから」
「答えになっておらんぞ」
「ぼくには、ぼくを助けてくれるひとたちがいるということです」
「神殺しなど、人間如きにできるわけがなかろう」
「できますよ」
クオンは、事も無げに言い放ってきた。
「彼なら、きっと」
クオンが彼といった人物がセツナ=カミヤであるということを知ったのは、それから随分先の話だ。そのときは、その人物が魔王の杖の使い手であるということしか知らされなかったからだ。しかし、その一言で、ラムレスは、クオンが狂気に取り憑かれているわけではなく、至極冷静に物事を考え、判断していることがわかり、安堵した。
確かに、魔王の杖ならば神をも滅ぼせるだろう。
ただし、その力を完全に引き出せるならば、の話だが。
「その点については心配入りませんよ。彼ほど自分に厳しい人間はそういませんから」
クオンは、魔王の杖の使い手をして、そのように評した。ラムレスは、そのときにはクオンを心底気に入っていたためか、彼が評価する人物のことも知りたいと想うようになっていたし、クオンの評価も信じた。
なぜクオンを気に入ったのか。
単純な理由だ。
神の使徒たる神殿騎士団長でありながら、その身分に甘んじることもなければ、神への忠誠よりもこの世界のことを第一に考える彼には、三界の竜王たるラムレスが好意を抱かない理由がなかった。
かつて、三界の竜王は、イルス・ヴァレの管理者だった。
いまでこそその権力は失われたとはいえ、いまもなお、この世への想いに変わりはない。この世のことなど考えもしない異界の神々など、反吐が出るほど嫌いなのだ。そんな神々を滅ぼすことさえ視野に入れているクオンに対し、力を貸す気になるのも無理からぬことだった。
クオンが将来目的を果たすためには、いまはまず、“竜の巣”と教会の和議を結ぶ必要がある。
ラムレスは、ケナンユースナル以下眷属たち、ユフィーリアへの説得に苦心しなければならないと想いながらも、クオンとの交渉には積極的になった。
そして、神への反逆さえ視野に入れながらも、そのためには竜王の力さえも利用する気でいる彼の大胆さをいたく気に入ったラムレスは、彼にユフィーリアとの対面を提案した。
そのことが彼と彼の娘の運命を変転させることになるとは想いもしない。
彼はただ、ユフィーリアのことを想ったのみだ。
ラムレスは、竜であることに誇りを持つ彼女には、親心して人間を近づかせたくなかった。しかし、一方では、親心として、彼女が本質的には人間であるということもまた、認めなければならず、いずれ彼女を人間社会に解き放つべきではないか、と考えてもいたのだ。
ユフィーリアの幸福だけを考えていた。