第千九百九十二話 竜と人(十一)
それまで竜と“竜の巣”に棲む動植物の存在しか知らなかったユフィーリアにとって、外界における人間との接触は、天地がひっくり返るほど衝撃的な出来事だったのだろう。彼女は、“竜の巣”に帰ってきてからというもの、ラムレスを質問攻めにした。人間に関する質問がほとんどであり、人間が自分と同じような姿形であることが彼女の頭に引っかかっていたことがよくわかった。ラムレスは、彼女の質問に懇切丁寧に答えた。
人間とはどういう存在であるのか。人間がこれまでこの世界に積み上げてきた歴史について、知っている限りの情報を与え、彼女に不満を抱かせまいとした。
竜と人間の関係性についても、出来る限り主観を交えず伝えた。
人間が竜を畏れているのは竜が偉大だからであり、竜に縋り付くもの、竜と敵対するもの、様々な人間がいて、無数の価値観が人間の中に存在することを教えた。人間は、竜のように一枚岩ではない。人間の数だけ考え方があり、価値観があるのだ、ということも、伝えた。
ラムレスがなぜ人間を嫌っているのかについても、触れた。
そして、ユフィーリアが人間であるということについても、触れざるを得なかった。
それは、彼女にとっては価値観が変わるほどの出来事だったに違いない。
竜の群れの中で育った彼女は、自分も竜であると信じて疑っていなかった。竜と大きく異なる姿形も、竜たちの個体差と同じようなものだと認識する一方、時が経てば解決するものだと想っていたのだ。いずれ全身を強靭な鱗と外皮が覆い、首が伸び、翼が生え、鋭い牙と爪を得るものなのだと、信じていたのだ。成長し、人間でいえば大人と呼ばれる年齢に至っても彼女がそう信じて疑わなかったのは、“竜の巣”に棲むだれもが彼女のその想いを否定しなかったからだ。尊重し、そうなれるといってやるものばかりだった。皆、ユフィーリアを愛した。当初は人間ということで忌み嫌っていたケナンユースナルでさえ、ユフィーリアが成人を迎えるころには溺愛するようになっていたし、彼女の魅力は、“竜の巣”に棲む竜たちを虜にして仕方がなかったのだ。彼女の天真爛漫で純粋無垢、そして奔放なところは、竜に縋る人間や竜と敵対する人間には見受けられないものだったからだろう。
人間が皆ユフィーリアのようであれば、という声も聞こえるほどに、ラムレスとその眷属たちはユフィーリアを愛していた。
いつごろからか、ユフィーリアを人間と見なくなり、竜の一翼として見、考えるようになっていたのだ。彼女を外界へ誘った竜たちにしても、彼女が人間であるという意識がなかったに違いない。彼女が人間と接触することによる変化を察することもなかったのだ。そのことについて、ラムレスは竜たちを責めなかった。むしろ、ユフィーリアに真実を伝える機会ができたことは、喜ぶべきなのだと想ったからだ。
ユフィーリアは、ラムレスから直接、己の出自を聞いてもなお、信じられないという反応を見せた。自分は“竜の巣”の竜であり、ラムレスの娘なのだと主張した。ラムレスはその主張そのものを否定することはしなかった。自分の在り様を決めるのは、ユフィーリア自身であり、ラムレスが決めることではない。
ラムレスは、ただ、見守った。
ユフィーリアは、ラムレスの前でこそそういったものの、自分が人間という別種の生き物であることを告げられ、その人間が“竜の巣”の竜たちに忌み嫌われる存在であることを知ったことで、複雑な想いを抱いたのは間違いなかった。そして、納得もしただろう。自分がなぜ、ラムレスや同胞たちと異なる体を持っているのか。なぜ飛べず、なぜ魔法が使えないのか。それまでは自分が落ちこぼれだから魔法が使えないのだと想い、みずからを責めること甚だしかった彼女だが、人間故に魔法が使えないことを認識すれば、その考えも変わる。そして、二度と翼を得ることはなく、ラムレスやサイファリアたちと肩を並べて翔ぶこともできないと知った彼女は、どれだけの失意と絶望を得たのだろう。
ラムレスは、真実を伝えることの苦しさを抱えながら、しかし、伝える以外に方法はなかったと認めざるを得なかった。
ユフィーリアと、外界の人間は別種の存在である、などと嘯くこともできた。純粋なユフィーリアのことだ。ラムレスがそういえば、その言葉を信じ、自分は人間と似た姿をした竜なのだと認識するようになっただろう。
だが、それではいけないのだ。
それでは、ユフィーリアを騙すことになる。
ラムレスは、ユフィーリアに対してのみは誠実にありたかった。素直で純粋な彼女には、自分もまた素直であろうと誓ったのだ。その誓いを破ることは、ラムレスにはできなかった。その結果、ユフィーリアが懊悩することがわかっていても、だ。
嘘が通っている間はいい。それが真実で、それが正義となる。ラムレスの言を否定するような竜など、“竜の巣”にはいないのだ。彼が黒といえば、白であっても黒となるのが“竜の巣”の中の世界というものだ。彼がユフィーリアの存在をそのように定義すれば、否定するものは現れない。しかし、外界との接触を続けるうちに、さすがの彼女も気づくだろう。ユフィーリアは、決して頭が悪いわけではない。むしろ良すぎるくらいに良く、だからこそ、ラムレスたちは彼女を溺愛しているのだが、その頭の良さがこの場合、徒となりえた。ラムレスの嘘に気づけば、彼女はラムレスを嫌うようになるかもしれない。そうなれば、ラムレスは生きてはいけなくなる。
彼が彼女と過ごした時間というのは、たった二十年余りにすぎない。
何億年もの記憶を内包するラムレスにとっては、ほんの一瞬の閃光のようなものに過ぎない。しかし、だからこそ、鮮烈に記憶に焼き付き、まばゆいばかりに光を放っているのだろう。ラムレスにとっては、それまでの数千万年よりも余程印象的な二十年であり、それだけ濃密な時間だったのだ。
もはや、ユフィーリアなしには生きていけないくらい、彼は彼女のことを愛していたし、だからこそ、彼女にとっては辛い現実も伝えなければならなかった。愛しているからといって、嘘で塗り固めた世界に閉じ込めておきたくはなかった、それは彼女のためにはならない。ユフィーリアにはユフィーリアらしく、あるがまま、想うままに生きて欲しかったのだ。
ユフィーリアは、苦悩の日々を送ったに違いない。
ラムレスやサイファリアたち家族の前では明るく振る舞っていたが、彼女が無理をしているのは、生まれたときより彼女を見守り続けてきたラムレスには一目瞭然だった。ラムレスにとって辛いのは、だからといってなにができるわけもないということだ。人間を知り、自分の正体を知った彼女がどのような結論を下すのか、本人に任せる以外にはない。
“竜の巣”を出るというのであれば、それも受け入れるしかない。
断腸の思いだったし、己が魂を灼くほどに辛いことではあったが、ユフィーリア自身が考え抜いた末に下す判断に否やはなかった。ラムレスは、ユフィーリアを愛している。自分の娘として、この上なく愛しているのだ。だからこそ、彼女の考えを尊重したかったし、そのための判断基準として、彼女の質問には一切の嘘を交えず、答えてきた。
人間の言葉も、教えた。
それは、いわゆる大陸共通言語と呼ばれるものであり、ラムレスはその言葉に堪能だった。竜は、優れた頭脳を持つ。人間の言葉を習得することくらい、容易いことだった。そしてそれは、ユフィーリアも同じだった。彼女は、瞬く間に人間の言葉を習得し、ラムレスをも驚かせたものだ。
『やはりおまえは竜なのではないか』
ラムレスが冗談をいうと、彼女は大真面目にこう言い返してきたものだ。
『ラムレスの娘であるわたしが竜でなくてなんだというのだ』
ラムレスを睨みつけていってきたその言葉こそ、彼女が下した結論だった。
ユフィーリアは、自分が人間であるとは認めなかった。ラムレスによって拾い上げられた命であり、ラムレス率いる“竜の巣”の竜たちに育てられた自分が人間などであるはずがないと断じた。人間は、人間の群れの中に生きるものであり、竜の群れの中に生きる自分は、人間と呼べるものではないはずだ、と。竜だからこそ、竜の群れの中で生きていられるのだ、と。
彼女は、自分に言い聞かせるのではなく、純粋にそう信じているようだった。
ラムレスは、ユフィーリアの導き出した結論をただ受け入れ、なにもいわなかった。
もちろん、ユフィーリアのその結論ほど嬉しいことはなかったし、彼はそんなユフィーリアのために、もはやお手の物となった衣服作成魔法を用い、いくつもの装束を編み上げ、彼女を困惑させた。竜として生きることを決めた彼女には、竜と見紛うほどの鎧兜が相応しい。
無論、姿形ではなく、心の、魂の話ではあるのだが。
群青の龍鱗の鎧を纏ったユフィーリアのどこか誇らしげな姿は、彼の判断が決して間違っていなかったことを告げていた。
そんな幸福な日々も、長くは続かなかった。
「父よ、人間の軍勢がこちらに向かっているぞ」
ケナンユースナルの警告の声が、彼を呼び起こした。
何十年、いや、何百年にも及ぶ微睡みの日々がついに終わりを告げるときがきたのかもしれない。




